【米大統領選】ピンチのヒラリー陣営、勝負を賭ける最後の切り札とは?

    アメリカの選挙運動を知り尽くす日本人研究者が語る

    勝敗を分ける「コミュニケーション戦略」

    いよいよ投開票が迫るアメリカ大統領選。民主党のヒラリー・クリントン氏がリードを保って初の女性大統領になるのか、なにかとお騒がせな共和党のドナルド・トランプ氏が追い上げの勢いで制するのか。

    「最後の最後で勝負をわけるのは、コミュニケーション戦略です」

    そう指摘するのは、実際にヒラリー陣営に加わり、現地で選挙運動を研究した明治大学の海野素央教授だ。足元からみえてくる、現代アメリカ政治の舞台裏を聞いた。

    「内側」から見えること

    海野さんは研究活動の一環で、「Yes We Can」を合言葉にオバマ大統領が誕生した2008年大統領選など、アメリカの主要選挙の選挙運動に加わり、内側から研究を続けている。

    今回は、2015年8月からヒラリー陣営に入って、激選州として鍵を握ると注目されているオハイオ、フロリダ、ペンシルベニア州などで選挙運動を調査した。

    選挙運動の基本

    コミュニケーション戦略とは、具体的に何を指すのか。

    「アメリカと日本の選挙運動、最大の違いは戸別訪問です。陣営が有権者の家を1軒、1軒訪ね歩き、相手を『説得』して投票をお願いします」

    戸別訪問は、日本の公職選挙法では選挙違反とされているため、そもそもできない。その理由は買収など不正行為が起きやすいため、と説明されている。

    陣営に加わった海野さんも、実際に足を動かし、ボランティアとして戸別訪問をした。その数、各州総計3346件に達する。

    「なぜ日本で解禁されないのか、本当に不思議ですよね。ちゃんと有権者の声を聞ける最大の機会なのに。とはいえ、アメリカでもなんでも答えてくれるかというと、そうでもなく『セールスお断り』とか『誰に投票するかなんてプライベートでしょ』と断る人も当然ながらいます」

    「でも、クリントン陣営でも、オバマ陣営もそこでめげずに必ず『これは合衆国憲法修正第1条(言論の自由などが定められている)に保障された権利です』と言うように指導されます」

    ヒラリー陣営流「説得」術  議論をせずにストーリーを引き出せ

    戸別訪問だけでなく「説得」の作法にも違いがある。日本でイメージする説得というのは、議論を戦わせ、ひたすら自分の正しさを主張するか、相手の議論の矛盾点をついて「ぐぬぬ」と言わせる。もしくは「はい、論破」と勝利を宣言するといったイメージがついて回るが……。

    「いや、まったく違います。決定的に大事なのは、説得の際に『議論』してはいけないということです。これも口すっぱく陣営から指導されるんですね。議論をするのではなく『傾聴』することがコミュニケーションである、ということが大事なんです」

    「傾聴」で生まれるコミュニケーションのベース

    説得なのに議論をしない?

    「はい。ヒラリーの何がいいかを一方的に語っても、相手に返答を求めても、まったく効果はありません。そうではなく、訪問先の有権者の思いをまず聴くんです。敬意を払って、相手のストーリーを聴く。その人は何に困っているのか、何に不満を持っているのか。仕事なのか、医療なのか教育なのか」

    「ストーリーを聴きながら、ボランティアは相手との共通点を探すんです。例えば『私も子供がいて〜〜』『オバマケア(オバマ政権がすすめた医療制度改革のこと)のおかげで助かったことがあって〜〜』といった形で会話をすすめる。共通点がないまま、いきなり議論をふっかけてもコミュニケーションは成立しません」

    議論ではなく、相手の思いに耳を傾けて、コミュニケーションをとる。ベースができないと「説得」にはならない。

    戸別訪問=ドブ板ではない

    説得もやみくもに手を出すわけではない。ドブ板選挙よろしく、地区の住宅をしらみつぶしに歩くようなことはない。海野さん曰く訪問先は「科学的に決めている」

    一軒ごとに民主党支持、無党派、共和党支持、共和党支持の中でもトランプ支持者なのか、対抗馬を支持したのか。細かく記録されたリストを元に、担当を振り分けて、訪問するのだ。

    最大の切り札「コミットメントカード」を回収せよ

    訪問最大のノルマは、オバマ陣営が編み出し、ヒラリー陣営がさらに発展させたコミットメントカードの回収だ。

    これが選対の切り札にして、秘密兵器なのだという。一見すると、カレンダー付きポストカードにしか見えないのだが。

    「会話ができたら、こんな風に問いかけるんですね。これも陣営が厳しく指導しています」

    ヒラリー陣営ボランティア「あなたの力に頼ってもいいですか?(カードを見せながら)もう期日前投票が始まっています。(投開票日の)11月8日は投票所も混みますよ。期日前ならすぐ終わります。いつにしますか?例えばこの週なんかどうでしょう」

    有権者「うーん、××日なら空いてるな」

    ボランティア「午前中にしますか?それともランチの後か会社から戻ってからですかね?」

    有権者「うーん、じゃあ午前で」

    ボランティアはコミットメントカードに日時など聞いたことを記録し、最後に有権者自身の手で署名をしてもらう。ポイントはすぐには渡さず、いちど持って帰ることにある。

    陣営で、回収したコミットメントカードに切手を貼り、有権者の家に再度、送る。ここまでが一連の流れだ。

    「もちろん法的な拘束力はありませんが、有権者としては、約束したということが大きいんですよね。戸別訪問のことを忘れてしまっても、これで思い出すことができる。約束したし、この日に投票に行かないとなぁと思う心理的な効果が働きます」

    トランプ支持者は「説得」すらしない その理由とは?

    トランプ支持者は「説得」の対象から外すことが、戦略として決まっていた。やりとりはこうである。

    有権者「私はトランプ支持者です」

    ボランティア「そうなんですか、ありがとうございます。それでは良い1日を」

    これで終わり。狙いは何か。

    「熱狂的だからですよ。トランプ陣営は、支持層も選対も熱狂的。トランプがとっている分断させるコミュニケーションを信じているんですね。今回、私も戸別訪問をしている中で、トランプ支持者に会いました。彼らにとって、特定の人種や民族に対する差別発言、女性蔑視はまったく問題じゃない」

    「それよりも反・職業政治家、あるいは反・エスタブリッシュメント(既存体制)、反・メディア。これが大事なんですね。彼らは『本物』かどうかが大事だって言います。トランプは本物で、ヒラリーは違う、と。ところが何が、本物なのかはさっぱりわからない」

    熱狂度でヒラリー陣営は負けている

    「ファクトチェックでどんな矛盾点を突かれても、メディア自体を信じていないので、あまり問題にならないんです。そもそも(トランプ支持層とは)コミュニケーションを成立させるのが難しいというのが、ヒラリー陣営の判断です」

    人事の基準がまったく異なる。だから、その層は捨てて、民主党支持層を固めることや、無党派層に投票を促すことに労力を割く。これが吉と出るのか。

    「ヒラリー支持層は熱狂度でいえばトランプ支持層に負けている。だから、ちゃんと固めるわけです。そして、大事なのは無党派。決めかねている人の足を投票所に向かわせる」

    期日前投票が鍵を握る理由その1→支持層の違い

    海野さんに言わせると、大統領選が決着するのは11月8日だが、すでに決戦は始まっている。

    「期日前投票が始まっていますからね。今回の大統領選は、期日前が鍵を握ると言われています」

    海野さんが分析するところ、鍵を握るとされる理由は2つある。

    その1は、すでにあげたトランプ支持者の特徴。候補者同士の討論会で優位に戦ったため、民主党支持者の中には「もうヒラリーで決まったから、自分が投票にいかなくてもいいだろう」と思う弱い支持層がいる。

    彼らは投票に行かないのではないか、という懸念が強まっている。逆にトランプは強い支持層がついているため、確実に投票に行くと推測される。

    そもそもアメリカ大統領選の投票率はさほど高くなく、磐石と思われていたオバマ大統領再選を決めた前回選挙も決して楽な選挙ではなかった、という事実もある。

    投票率が下がれば、強い支持層がついているトランプ氏のほうが相対的に優位に立つ。ヒラリー陣営は弱い支持層、つまり頼まないと選挙に行かない民主党支持者、無党派層の票を掘り起こさないと、勝てないと考えている。

    その2→相次ぐサプライズ。その効果が読めない

    その2は、いわゆるオクトーバー・サプライズの威力が読めないことだ。投開票直前に、情勢を決定づける「サプライズ」が、今回の選挙では立て続けに起きている。それも両候補に、だ。

    トランプ氏でいえば、女性蔑視発言スキャンダル。クリントン氏でいえばメール問題がその代表格だが、細かくみていけばもっとある。

    「だから、ヒラリー陣営としては先手を打ちたかった。どんなサプライズが飛び出てくるかわからないからこそ、自分たちが優位な風が吹いているときに、期日前に行ってもらうことを重視していた」

    注力していた戸別訪問、コミットメントカードの効果が発揮されるのか。これが、最終盤で勝敗を左右する鍵になるというわけだ。

    「サプライズ」を味方につけたオバマ

    ちなみに前回選挙を制したオバマ大統領にとって、サプライズはハリケーン「サンディ」の襲来だったというのが、オバマ陣営の見方だ。そのときも陣営内部で研究をしていた海野さんは、こんな光景を覚えている。

    オバマ大統領の対応を、被害が甚大だった州の州知事が絶賛した。この州知事は、対立候補に同行して演説する共和党のキーパーソンである。危機対応を誤れば、大統領の資質なしとみなされ、再選は暗雲が漂う。なぜなら、危機管理能力は、リーダーの大事な資質だからだ。

    「絶賛」はオバマ大統領が危機を乗り切り、有権者を味方につけた瞬間だった。陣営内部では「これで勝った」と大きな拍手が起きたという。

    大統領選直前、感じた空気の変化

    今回、海野さんが帰国したのは11月1日。直前まで調査を続けていたが、空気の変化は肌で感じたという。

    「やはり、メール問題は大きいですね。大統領選の流れを変えました。ヒラリー陣営はまだ持ちこたえているほうでしょう。戸別訪問は直前まで続きます」

    大注目の接戦州

    最後に海野さん今回のポイントを2つにわけて聞いてみた。1つ目は、勝敗はどこで決すると陣営は見ているのか。もう1つは陣営同士が掲げる理念がどう対立するのか。

    「勝敗は接戦の州で決まるとみています。まずはフロリダ、オハイオ、ペンシルベニアに注目してください。ヒラリー陣営はここで1勝でも取れたらかなり優位に戦えるとみています。逆に3敗するようなことがあると、それはトランプ氏が勝利に近づいたことを意味します」

    「異文化連合チーム」対「分断コミュニケーション」

    「そして、理念ですが、これは明確にわかれます。ヒラリー陣営はオバマ選挙の流れを引き継いだ異文化連合チーム。つまり、女性、アフリカ系、ヒスパニック、若者、LGBT……。みんなが加わる。そして、愛は憎悪に勝つ、という合言葉でまとめあげる」

    「トランプ陣営は白人労働者階級を中心に、退役軍人などが加わるといった形ですね。特定の人種、民族を分断、攻撃して、自分たちの偉大なアメリカになろうというわけです」

    一呼吸おいて、海野さんはこう付け加える。

    「そして、忘れてはいけないのは、無党派の存在です」

    「今回は悲しい選挙です」 選べない有権者

    どちらにも加わらず、ジレンマを抱える無党派の声が今回の選挙を象徴しているという。海野さんは、無党派だという女性から聞いた声が忘れられない。

    「今回は悲しい選挙です」

    どちらも大統領の資質を備えた、強いリーダーではない。トランプも、ヒラリーも選べない。そんな声だった。

    「一見、盛り上がっているようにみえても、ジレンマや葛藤を抱える第3の層が顕在化している。これが2016年のアメリカ大統領選挙、最大の特徴なのかもしれません」

    一見すると政治には似つかわしくない、悲しいという感情を抱える有権者を残したまま、アメリカはこの先、どこに向かうのだろうか。大統領選の結果はもうすぐ明らかになる。