休みをつぶして「自主活動」に強制参加
休む間も無く「本業」をこなしながら、職場の「自主活動」に当然のごとく参加を求められ、朝と夕、そして—わずかな手当で!—土日も、夏休みも明け暮れる。
職場に入ったばかりの若手は「そんなものか」と思い、疑問を持たずに休日を潰していく−−。
こんな話を聞いたら、多くの人は「ブラックすぎる」と思うだろう。この職場、それが学校だ。部活動に疑問を持つ教員たちがインターネット上で声を上げている。問題はあきらかなのになぜ無くならないのか?
ブラックな職場の温床、自主的に取り組む部活動
ブラックな職場の「温床」。部活動が問題視されている。データをみれば、それも当然の成り行きだ。
2017年4月に発表された、文科省の教員勤務実態調査によれば、中学教員が休日、部活動に費やす時間は2時間10分で、10年前と比べて1時間以上伸びている。
土日は練習だけでなく、練習試合、公式の大会とイベントも多く組まれ、1日が潰れていくことも珍しくない。
ある現役教員は、こう漏らす。「多くの教員も保護者も部活を学校の《当然の業務》として受け入れています。本当は違うって知っているほうが少ないのでは?」
部活動はそもそも正規に生徒に教えるべき事項ではない。
つまり「教育課程外」で、そして教員の「勤務時間外」に取り組んでいることになっている。教員は制度上、部活動の指導を「自主的」にやっている。
自主性というマジックワード
部活動問題の研究を続け、新刊『ブラック部活動』(東洋館出版社)を出版した名古屋大大学院准教授の内田良さんは「《自主性》という言葉に問題が詰まっている」と話す。
どういうことか。
内田さんの話——。
自主性と聞くと、私たちはとても美化して受け取りがちです。
自発的に取り組んでいるから良いことだ。好きなことに、のめり込んでいるんだから、いいじゃないかと捉えがちです。
しかし、教育現場の実態はどうでしょうか?
自主的といいながら、部活動を強制加入としている都道府県は少なくありません。
先生たちも同じです。みんなが必ず受け持たないと、部活顧問を持っている先生と、持っていない先生との間で負担に差が生じる。
だから、みんなで応分に負担をしようといって、全員が何らかの顧問をやるようにという慣行が全国でまかり通っています。
これは実質的には強制です。
教育制度からみると、部活動はいってみれば、補習と同じ。自主的だから、必ずしもやらなくていいし、やってもいい。
つまり、授業ではない《グレーゾーン》です。それにもかかわらず《やらないといけない》と思われていること。ここが第一の問題です。
自主的な活動を「やりなさい」と強制される矛盾。
日本の教員はただでさえ忙しい。前出の文科省調査をみると、月80時間〜100時間の残業をこなしている教員が、まったく珍しくないことがわかる。
授業を受け持ち、担任をこなし、部活までやるのだから、これだけの長時間労働になるのは当たり前だ。
ここで疑問がふつふつとわく。
業務でもない自主活動なら休んでもいいし、やりたくないと言ってもいいはずだ。
先にもあげたように、現に声をあげている教員がインターネット上に登場し、彼らの主張は社会的にも一定の広がりをみせている。
しかし「これだけ問題視されても職員室には広がらないという現実がある」(内田さん)。
あまりにブラックなのに、なぜ部活をやめられないのか?
ここに問題の本質がある。
なぜ、やめられないのか?
内田さんはこう問いかける。
「部活動が楽しかったという思い出は,ありませんか?授業やクラスだけではなく、スポーツや文化活動に打ち込んで、みんなで《勝利》を目指す。熱中したという人は多いと思います。先生たちも同じです。楽しいんですよ」
この《楽しさ》がブラック部活を生み出す、と指摘する。
ある男性教員は自分が指導したサッカー部が大きな大会—例えば、県大会や全国大会—に出場を決めた時に、掲げられる垂れ幕をみて感動したという。
サッカーの指導でも一目置かれるようになり、保護者や地域の住民から声をかけられる機会も多くなった。それが嬉しい。
いくら専門の教科でいい授業をしても声をかけられることはないのに、保護者が「熱心で良い先生」として扱ってくれて、学校も評価してくれる。
「あそこのサッカー部は強いのは顧問のxx先生の指導がいいからだ」という評判もついてきて、生徒たちは目を輝かせて、サッカーに取り組み日々成長していく。
教員なら、生徒の成長を喜ばない人はいない。
苦しい練習に耐えて、勝っていくのは《楽しい》と彼は思う。そして、生徒も楽しんでいる。休日も家族そっちのけで楽しいほうに、楽しいほうにのめり込む……。
楽しいからやめられない、自主的だから際限がない
内田さんはこの問題の本質に切り込むーー
そこで長時間労働の問題を指摘しても、誰も聞いてくれないんですよね。
部活動で勝つことに、いろんなインセンティブが現に存在している。誰だって、評価されたら嬉しいし、認められたら頑張るし、勝てば楽しくもなります。
部活動にのめり込んで、評価も得ている先生たちからすれば熱中したいのに制限しないでくれ、となる。
楽しくてどハマりすれば、改善は考えないでしょう。現実的に評価につながっているのだから、楽しい先生からすれば誰もやめたいとは言わないでしょう。
だから,ブラック部活動の問題というのは,そうした先生にとってみれば,自分の取り組みや評価を否定された気になってしまうのだと思います。
ブラック部活動問題の「本質」
保護者からすれば、学校が部活に取り組むのは当たり前のことだ。
取り組んで結果を残せば「熱心で良い先生」と言われる。自主活動だからこそ、上を目指せば際限なく取り組めてしまう。
つまり、自主的だから休めばいい、では問題は解決しない。
自主的だからこそ、評価を求めて、歯止めが効かなくなること。そして、評価が伴えば楽しくなってしまうこと。これが内田さんの見つけたブラックすぎる部活動問題の本質だ。
部活の問題は他にもある、と内田さんはいう。
よく勘違いされるのですが、私は部活動を無くせとか、勝利を目指すのがおかしいと言っているわけではないのです。
これまで、それなりの意義があるから部活動は拡大してきたんです。だから部活動の問題点を改善して、その意義を高めていけばいい。
そのためにも、部活動の問題点をしっかりと見つめて、向き合うことが必要です。専門的な知識もないのに顧問をやらされて、事故がつながるという事例もあります。
そして、2015年度に文科省が把握した体罰事案の約3割は部活動で起きているというデータもある。部活は体罰の温床だと言っていいでしょう。
では、どうしたらいいのか?
部活動の大きな意義は生徒の《居場所》でもあるということにある。クラス以外の場所で、スポーツや文化活動に取り組める。しかし、だからといって長時間労働と、事実上の強制でいいのか。
内田さんの分析から浮かぶ、問うべき課題はこうだ。
- 自主性の名の下、部活動は自由に取り組むことができる。「自由」だからこそ、上を目指せば際限がなく、保護者や学校からの評価を目指してのめり込む教員が続出する。
- 部活動に取り組むのは当たり前だという社会の常識がある。
- 「これはおかしい」と声をあげる教員のほうが、「学校のみんなが取り組む部活に熱心に取り組まない教員」とみられてしまう。
《自主性》はブラック部活の歯止めにはならないし、ただ異常さを強調するだけでも問題解決までに時間はかかる。どうしたらいいのか。
「即効性があるのは、上限を設けることです」と内田さんは口調を強めた。
「部活動を自主活動だからと放置してはいけません。際限がないことが問題なので、ここまでしかやってはいけないと条件を設ける。そしてそれと同時に、部活動への参加の自由もちゃんと認める。強制は不要です」
内田さんは具体的に指摘する。例えばこうだ。
- ほぼ毎日、部活動に取り組む現状をあらためて、部活動は週に3日までとする。
大会への参加回数も、大幅に削減する。かつ、土日は大会以外の活動を原則しない。
これだけで生徒の楽しみや、居場所を確保しつつ、教員の長時間労働を制限できる。
部活動を管理しないといけないのです。
《自主性》と《管理》なら、自主性のほうが響きいいポジティブな言葉でしょう。管理はネガティブな言葉として嫌われてきた。
しかし、自主性に委ねた結果が、部活動の過熱と長時間労働です。とりあえず上限を決めて、歯止めをかける。
積極的にルールを作って、管理することが必要なのです。
そして、理想の部活動とはなにか。今後を考えるというのが妥当ではないかと思います。
過熱した部活動では、誰かが犠牲になるということ。これは強調しておきたいのです。