これが捕鯨のリアル… クジラでぶつかりあう「正しさ」、日本の小さな町から見えること

    話題のドキュメンタリー映画『おクジラさま』レビュー。なぜ世界はクジラで揉めるのか?

    捕鯨反対派は過激、賛成派は伝統・文化推し

    イルカやクジラについて、マスメディアに流れる映像はこんな感じだ。

    過激な環境活動家が映し出され、困り顔の日本の漁師たちがいる。それを見て、なんとなくこう思ってしまうのではないだろうか。

    「どうせ日本の伝統・文化をよく理解していない、欧米の人たちが日本に乗り込んでいちゃもんつけているんでしょ」

    しかし、現実はもっと複雑だ。

    捕鯨は異なる価値観、正義がぶつかり合う場になっているーー。

    ニューヨーク在住の映画監督、佐々木芽生さんが撮影したドキュメンタリー映画『おクジラさま』—同名の書籍も発売されたーが話題だ。

    『正義の反対は悪ではなく、別の正義』

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    佐々木さんは書籍版のなかで、こう記す。

    「私が太地での衝突から学んだのは『正義の反対は悪ではなく、別の正義』ということだった」

    映画の舞台はイルカ漁で生計を立ててきた漁師たちが暮らす和歌山県太地町である。

    この小さな町は捕鯨の世界では、世界的に知られている。

    この町のイルカ漁を批判的な立場から取り上げ、日本のメディアで問題視されたにもかかわらず、アカデミー賞まで受賞してしまった『ザ・コーヴ』(2009年公開)の舞台だからだ。

    日本の捕鯨船に、自前の抗議船を体当たりさせて一躍、有名になった環境NGO「シーシェパード」のメンバーもやってきた。

    二項対立で現実はわかる?

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    「ザ・コーヴ」公式ホームページより

    そこで、よくマスメディアで描かれる構図はこうだ。

    外国からやってきたおかしな反捕鯨派VS日本の伝統・捕鯨賛成派にわかれて主張を続けるーー。

    しかし、それは本当にこの町で起きていることを描いているだろうか。

    賛成か反対か、単純な二項対立に描いているだけではないのか。

    お互いの「側」からみたら、世界はどう見えるのか。

    カメラは小さな町の人間関係に入り込む。

    そして、賛成か反対か、単純化される構図の裏側にある、一括りにできない現実を捉えようとする。

    正義は独善的になりやすい

    佐々木監督の話——。

    《ザ・コーヴは、ある意味でよくできた映画だと思います。太地の漁師たちが残酷だと思わずにはいられない物語になっているからです。

    だからこその大きな違和感もありました。この映画はリック・オバリー(元イルカ調教師、アメリカの子供向け番組で有名になった)という主人公がヒーローとして描かれます。

    成功を約束された将来を投げ打って、イルカを救うことに全力を尽くすヒーローです。

    正義感は独善的になりやすい感情です。正義の味方がいれば、そこには悪役がいる。

    悪役として映されているのが太地の漁師たちですよね。

    私には小さな町の漁師たちが、世界のなかで悪役になっていくのは理不尽なことに思えました。》

    日本の伝統・文化だけでは伝わらない

    では、この映画は反『ザ・コーヴ』であり、日本の伝統・文化である捕鯨を世界に発信するものなのか。

    佐々木さんはそうではないのだ、と言う。

    《日本では伝統や文化だと言えば、守らなければいけないと思って、話が終わってしまう。

    しかし、これはアメリカやヨーロッパの人たちには、伝わりにくい説明なんです。ある人からこう指摘されたことがあります。

    「伝統、伝統って言うけど、奴隷制度や死刑、切腹だって伝統だったじゃないか」。

    これにはハッとさせられました。伝統や歴史があろうが、時代にそぐわないものは見直して、進歩をしていくという価値観が西欧にはあります。

    ただ捕鯨は伝統だ、文化だと言っているだけでは異なる価値観を持っている人たちには通用しないんです。今の時代に合わないならやめてしまえばいい、となるからです。

    なぜ、日本では伝統という考え方が重んじられるのか。どうして捕鯨を文化と呼ぶのか。

    そこから丁寧に発信して、説明していくことが必要なんです。でも、こうした考えはとても弱いですよね。》

    「捕鯨は伝統・文化」という言葉そのものが、もう一つの正義を体現する言葉になっていき、理解できない人は「悪」だと思うようになっていく。

    公正であるということ

    佐々木さんは、映画のなかで捕鯨の賛否を問わず、あらゆる考えに対して、公正であろうとする。

    漁師、行政関係者、国内外の反捕鯨の活動家、住民、ジャーナリスト……。

    《あらゆる人に同じように寄り添おうとしたし、彼らがなぜ、そう語るのかを同じように理解しようとしたのです。》

    多層的な声を拾っていく

    いくつか言葉を抜粋しよう。

    私財を投げ打ってシーシェパードの活動に参加した親娘は、太地を「生きたイルカを捕獲し、娯楽産業に売る最大手」だと批判し、ここで何としても止めたいという。

    一方、太地町の「くじらの博物館」の副館長は「イルカやクジラを生きている姿を見たことがないというのは、かえって動物に対する興味を失うことになる」と話す。

    双方の話し合いを街宣車で呼びかけていた政治団体「日本世直し会」のトップは「自分と考え方は違うが、シーシェパードを尊敬している」と意外な一言を口にする。

    問題を追いかけて、太地に移住したアメリカ人ジャーナリストは、「イルカやクジラが絶滅の危機というが、こんな町も絶滅の危機にある」と漁師たちとは、少し離れた立場から問題を見つめるーー。

    映画から聞こえてくる声は、一色ではなく多層的だ。それは、社会の多様性そのものでもある。

    彼らの語りを通して、捕鯨をめぐるそれぞれの正義、価値観が浮かび上がってくる。

    《もちろん、私にも考えはあります。ですが、この映画を撮っているときは、それを一旦脇において、彼らが話していることを聞こうと思いました。

    大事なのは、彼らが「何を言っているか?」ではなく、「なぜ言っているのか?」です。

    なぜ、そう言っているのか。常に問いかけながら、理解しようと思ったのです。》

    シーシェパード=「悪」はわかりやすくて楽

    過激な反対活動を続けるシーシェパードのメンバーにも、彼らなりの論理があり、太地町の漁師たちにも守りたい生活がある。

    行政には行政の立場がある。

    《例えばシーシェパードを「悪」だとレッテルを貼って、描いていくという方法もありました。

    実際はそっちのほうが楽だし、立場もわかりやすいですよね。

    でも、それには興味がないんです。単に二項対立を煽って、その構図に乗っかっていくだけです。

    そして、現実はもっと複雑です。》

    「違い」に注目しすぎ

    映画の製作を通じて、違いを乗り越えるために何が必要なのか?を考えたという。

    《対立が起きるとき、人は「違い」にばかり注目してしまいます。

    ですが、もう少し大きな目でみると、漁師もシーシェパードも、世界各国も目指している方向は大きく一致しているとも言えます。

    それは豊かな海の資源を守りたいということです。

    違いではなく、共通のゴールに向かって動きだすこと。

    お互いのことを嫌いでもいいんです。排除せずに共存していくために何が必要なのかを考えること。

    いまの時代に、これが大事ではないかと思うのです。》

    小さな町での衝突は、世界の「いま」を映し出す。そして対立を乗り越えていくヒントも同時に教えてくれる。