ノーベル賞で熱狂するのは日本のマスコミだけ? 「お祭り騒ぎ」の舞台裏

    共同通信ロンドン支局取材班『ノーベル賞の舞台裏』(ちくま新書)レビュー。

    ノーベル賞って他の国でもここまで報道するの?

    新聞・テレビが競うように速報をだし、一斉にカメラのフラッシュが焚かれる。

    普段、科学分野をまったく取材したことがない記者まで駆り出され、業績だけでなく家族や趣味まで聞いていく。そして、翌朝の一夜明けの気分までしっかりフォローし「いまの気持ち」を尋ねる。

    ノーベル賞受賞の記者会見の定番だ。私も新聞記者時代に何度か参加したが、その時から疑問だったことがある。

    日本人がとれば大騒ぎ。では、どこの国の記者もここまでやるのだろうか……?

    「日本の記者はちょっとクレイジー」

    その疑問に正面から答えてくれたのが、共同通信ロンドン支局の取材班による『ノーベル賞の舞台裏』(ちくま新書)だ。彼らがノーベル賞授賞式を取材すべく駆け付けた、ストックホルムのホテルスタッフの一言が象徴的だ。

    「日本の記者はちょっとクレイジー。私たちはもう慣れているけど、他のお客さんは毎回驚いているみたい」

    冒頭の会見から、授賞式まで日本のメディアの競争は始まる。ストックホルムのホテルをおさえ、受賞者の一挙手一投足を追いかけ回し、燕尾服の試着までニュースとして報じていく。

    「舞台裏」というタイトルに相応しく、彼らはノーベル賞の選考過程や賞獲得活動など名誉欲や政治利用渦巻く歴史を掘り起こし、細かい取材を積み上げる。

    特徴的なのは、取材現場もまた彼らの取材対象となっていることだ。取材・報道にあたる「当事者」が、なぜここまで取材が必要なのかを足元から考えようとする。

    小さなエピソードがおもしろい。例えばこうだ。2015年、ノーベル医学生理学賞を受賞した大村智さんが宿泊するホテル前にメディアが集結した。

    ホテル正面玄関を挟んで、左右に取材陣が陣取り、到着するなり、一斉にコメントを求める。そこにいたのは、歴史上2人目の受賞者を出したトルコのテレビクルーを除き、すべて日本のメディアだった。

    日本以外、例えばカナダからも受賞者が出ていたが、現地から追いかけてきたメディアは一握りだけだったという。

    あの超大物が受賞しても、BBCは通常ニュース

    そもそも、取材班の拠点であるイギリスでは、物理学の超大物学者として知られるエディンバラ大学名誉教授のピーター・ヒッグスが受賞しても、BBCが通常のニュースとして報じる程度だという。

    一夜にしてお祭り騒ぎ状態になり、受賞者を総出で追いかける日本とはだいぶ様相が異なる。

    賞獲得のために……熱狂する大学

    熱狂しているのはメディアだけではない。大学側も同じだ。ノーベル賞候補者になるためには「選考機関が推薦状を送付する各国の大学教授や過去のノーベル賞受賞者らからの推薦を受けなければならない」。

    選考機関に大学の存在をアピールすることも欠かせない。例えば、東北大は現役研究者からノーベル賞受賞者を出すべく、選考機関でもある研究所との接触を進めるなど賞獲得にむけて動いてたという。

    ノーベル賞をとればメディアは連日、取り上げる。大学が何よりもアピールになると考えることは合理的なことだ。

    なぜ熱狂してしまうのか?

    一体、なぜここまで熱狂してしまうのか。

    彼らも書いているように、単純な答えは見つからない。歴史的な経緯もあるだろう。1949年、戦後間もない時期に受賞した湯川秀樹の存在が大きいのではないかという説、勲章好き説、海外—特に欧米—の権威に弱いという説ーー。

    それらがすべてが混合されて、いまのノーベル賞フィーバーが起きる。

    個人的な考えでは、ノーベル賞はオリンピック報道と近い。普段、どれだけ活躍しても小さくしか報道されないスポーツでも、金メダルをとれば一気に報じられる。報道量が極端に少ないか、賞やメダルで過剰に報道があふれるか。

    極端から極端に、2つのあいだで、振り子が大きく揺れ動くのだ。

    権威を利用する人たち

    極端に振れていくメディアを狙い、海外の権威をうまくつかった「売り込み」、「ノーベル賞確実」を謳い文句に研究成果を喧伝してまわる人たちもでてくる。

    イギリスの科学雑誌「ネイチャー」—これも科学雑誌の「権威」だ—に掲載されたSTAP細胞論文と一連の研究不正スキャンダルは、その最たるものだろう。

    「STAP細胞騒ぎの影の主役は、トップ科学者を含めた日本人全体が抱く、ノーベル賞への偏愛であった」という本書の指摘は重い。

    お祭り騒ぎの弊害

    自然科学分野ばかり触れたが、この本で詳細に書かれているように、毎年のように村上春樹で沸く文学賞も、なにかにつけ選考が物議を醸す平和賞も含めて、その舞台裏はけっして褒められたことばかりではない。

    そうであるにもかかわらず、賞そのもの、「権威」ばかりが一人歩きし、科学的な業績やその中身よりも「受賞した」ことのニュースバリューばかりが膨らむ。

    それを利用しようとする人にはいいのかもしれないが、深刻なのは、受賞した研究者から「おめでたい」会見の場で漏れる研究環境への苦言はなかったことにされてしまうことだ。

    例えば、この発言を覚えている人はどれくらいいるだろう。

    「『役に立つ』ということが、とても社会をだめにしていると思っています。科学で役に立つって『数年後に起業できる』ことと同義語のように使われることが、とても問題だと思っています」(ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典・東工大栄誉教授の発言

    欠けるバランス

    ノーベル賞祭りの一方で、日本の科学界の足元で起きている問題は一向に解決されない。このアンバランスさをどう改善していくのか。日頃、自分たちの視点で本当に大切なことを伝えているか。

    毎年の恒例行事、ノーベル賞をめぐる報道が映し出しているのは、実態よりも権威を重んじてしまうことの弊害だ。

    「逆説的だが『たかがノーベル』とうそぶけるほど、ノーベル賞との理性的な距離感をつかんだとき、真の創造性を携えた数多の才能が日本各地に咲き誇るのではないか」

    権威を否定するのではなく、程よく付き合っていく。メディアも、それを取り巻く社会もそろそろノーベル賞を筆頭に「権威」を相対化して、バランスよく向き合う時期にきている。そう痛感させられる一冊だ。