【あの日から7年】福島のリアルを伝え続けたテレビマンは、なぜ村職員になったのか? 「東京マスコミ」との戦いの果てに…

    福島の現実を伝えようと奮闘した地元テレビマンがいた。彼はメディアの世界から、福島県飯舘村職員に転じた。一体、なぜ?葛藤の果てに、彼が見つけた現場に寄り添うということ……

    TBSからの「マスクの絵をください」に怒る

    2012年春、ある日曜日のことだ。TBSから直通電話が系列局テレビユー福島(TUF)のデスク席にかかってきた。

    電話を取ったのは、この年の春から報道部長を務めていた大森真さん(60歳)だ。

    管理職ではあったが、震災から1年の節目を前後して激務が続いた部下を休ませるために休日出勤をしていた。

    この日曜日、福島市内の小学校で2011年の東京電力福島第1原発事故以来、初めて屋外で運動会が開かれていた。

    キー局のTBSからは全国ニュースで扱いたいので、出稿するようにとあらかじめ依頼がきていた。

    どこを「ニュース」と捉えるのか。

    大森さんは事故後、福島市内での空間放射線量も大気中の放射性物質も減少し、子供たちが思いっきり外で運動会ができるようになった喜びこそがニュースだと考え、TBSに映像と原稿を送ったところだった。

    「マスクをつけて運動会をやっているのは異常ですよね」

    電話越しに注文が入る。

    「あの、子供たちのマスクの絵はないんですか?マスクをつけて運動会をやっているのは異常ですよね。

    この異常さこそニュースなんだから、マスクの絵をください。それがないとニュースじゃないでしょ。NHKはマスクの絵を流していますよ」

    この一言に、大森さんは怒った。低学年の玉入れで、マスクをつけて競技をした場面があったことは事実である。

    しかし、それは誤って落ちた玉を口に入れないようにと震災前からやっていたことだった。

    震災前からやっていたマスクのどこがニュースなのか。

    マスク=被ばく対策という文脈をつかって、福島で運動会をやることが「異常だ」と報じたいのか。それは事実に反している、という怒りだった。

    一体、なんのための仕事なのか……

    《久しぶりに報道の現場に復帰して、最初の訓示で「福島で生きていく自信と誇りを取り戻すために働こう」って言ったんだ。

    もちろん、福島で日常生活を送ることができるって根拠は必要だよ。

    俺にはさ2012年3月、報道に戻った時点でそれは十分あると思っていた。

    それでも、キー局が欲しいのは「マスクの絵」なんだよね。一体、なんのための仕事なんだって思ったよ。》

    現在、TUFに移籍した元TBS・桶田敦さんの論考によると、TBSの報道姿勢はこうなる。

    「国民的な関心事として、『原発事故を再発させてはならない。あるいは原発事故の影響は測りしれない』といった前提=議題設定に立ってニュースの編集権を行使している」(調査情報2017年11月・12月号「原発報道と議題設定 ~ローカル局とキー局の対比から~」より)

    大森さんの価値観とは異なるものだ。

    同じテレビから、価値観が異なる2つの報道が、同じ時間帯に「ニュース」として流れてくる。

    徒労感が募った東京との直通電話を置いた後に思う。

    《これって俺たちでも混乱するんだから、福島の視聴者だって絶対混乱するよなぁ。

    できることをやるしかないんだけど、どうしたらいいんだろうって、辞めるまでずっと考えいたんだ。

    だけど……。中央とのやりとりに疲れたんだよね。報道でできることはやったと思う。だから最後はもっと現場に関わりたいって思ったんだ。》

    大森さんは2016年4月、定年を前にTUFを退職し、一時全村避難をしていた福島県・飯舘村の職員に転じた。

    テレビマンから、小さな村の職員へ。2011年は彼の人生を大きく変えていった。

    ヤードバードに憧れて……

    大森さんは福島市内で生まれた。父は県庁職員だった。中学時代、兄の部屋にあった小説を読み、そのなかに出てくるジャズにハマった。

    県内屈指の進学校、福島高校に進学しても熱は冷めることがなく、ジャズ研究会を立ち上げ、初代部長に就任する。

    ちなみに3代目部長は後にドラマ「あまちゃん」で大ブレイクすることになるミュージシャンの大友良英さんだ。

    大森さんがとりわけ好きだったのは、モダンジャズの父と呼ばれたチャーリー・パーカーだった。学校の勉強そっちのけで福島市内のジャズ喫茶に入り浸り、レコードから流れてくる音に全神経を集中させた。

    新聞配達のアルバイトで貯めたお金でアルトサックスを買い、練習に励む。ジャズと演奏に関する勉強だけは熱心だった。

    とりあえず受験勉強はなんとか乗り切り、無事都内の大学に進学するわけだが、そこでもまずはジャズが優先で、勉強をした記憶はあまりない。

    この頃の大森さんは本人をして「主体性がなく流されている人生」を歩む若者だった。都内で中規模の広告代理店に就職したが、あっさりと半年で辞めている。

    母親からかかってきた電話が理由だった。

    「福島でテレビ局ができる。帰ってきて、入社試験を受けたらどうか」と母は勧めたのだった。都内でとくにやりたいこともなかった大森さんは、ここでも流されるようにUターンを決める。

    入社が決まったのが、1983年に開局したTBS系列のテレビ局TUFだった。

    なぜか報道記者になる

    入社試験は「音楽番組を作ってみたい」の一つで突破した。

    きっと番組制作に部署に行くはずだと思っていたのだが、立ち上がったばかりのテレビ局から告げられたのは、報道記者の仕事だった。

    それも激しい競争が繰り広げられている県政担当である。上に誰もいないから1年目から現場の責任を負うキャップをやれ、という。

    選挙を含め県内の政治・行政を取材する部署で、地元紙は方々に人脈を張り巡られた百戦錬磨のベテランが、全国紙は地方勤務から本社栄転を狙う野心いっぱいの若手が任されるポストだ。

    人生でいちばん勉強した駆け出し時代

    普通なら新人にやらせることのない、無茶苦茶な人事が当時のTUFではまかり通っていた。担務はもう一つあった。これも福島なら付いて回る原発担当だ。

    県庁内の仕組みも、原発の構造も放射線の単位もわからないなか、記者生活が始まる。

    大森さんはこの時期を振り返り、中学時代以来、人生で最も勉強した期間だと語った。曰く受験勉強で燃え尽きなかった分、この時期に使った。

    原発、放射線、地方行政、予算、そしてジャーナリズム−−。いつも最初の一歩から勉強した。

    当時、周囲から言われたのは、報道とは「社会の木鐸」であるということだった。

    原発内での事故を追及した

    人々の生活を良くするために、権力を批判し、警鐘を鳴らす。

    それがテレビも含めて報道の役割であると教わったのだ。

    今でも、忘れられないことがある。まだ駆け出しの県政記者だった頃、福島第二原発で、部品の落下事故が起こった。

    東電の広報対応は速やかではあったが、細かい事故も重大な事故も、同列に対応しているように大森さんには思えた。

    この落下事故も同じだ。周囲の記者も東電の説明を真に受けて、大きく問題視しているようには思えなかった。大森さんは「部品の落下を軽視してはいけない」と事故を追及する姿勢をとる。

    東電の主張を批判的に検証し、事実を見極めるという方針を立てた。

    1986年のチェルノブイリ原発事故も忘れられない経験だ。

    日本の原発には関係がないと言えるのか。この事故を軽視してはいけない、と福島県内のニュースでも積極的に取り上げていった。

    「自分は反原発派、それも30年ずーっと変わらない」

    《自分は反原発派か、と聞かれたら自信を持ってイエスだって言う。テレビに関わってから30年ずーっと脱原発だって言う。それは今でも変わらない。

    リスクが高い技術だし、一度事故を起こしたら社会やコミュニティーが壊れる。福島で起きたことは、まさにこれだ。

    だから、無くせるなら、無くさないといけない。

    日本でだって人為的なミスで原発事故が起こるのは不思議ではないって、チェルノブイリの頃から考えてきたんだよね。

    だけど、まさか津波は……。かなり取材したつもりだったけど、考えてなかった。》

    3月11日、尋常ではなかった津波

    約10年続いた県政キャップを終えて、大森さんは編成担当に異動となる。どの時間帯に、どんな番組を流すのかを決める部署だ。

    福島のライブハウスを舞台に念願だった音楽番組の制作にやりがいを感じ、東京勤務を着々とこなし、編成部長という要職で2011年3月11日を迎えることになった。

    強い揺れを感じた午後2時46分、会社の中にいた大森さんは外に飛び出した。机の下に隠れるより、社屋の外にある駐車スペースに出たほうが安全だと判断したからだ。

    全局を映すために壁に並べているテレビが激しく揺れていた。当時は地上波デジタルへの移行期であり、重たいブラウン管のテレビも混じっていた。

    揺れが収まり、編成のフロアに戻る。余震が続けてやってきた。

    彼のすぐそばにあったブラウン管テレビが落ちてきそうになり、反射的にさっと手を出して壁から落ちないようにしたが、重さと揺れに耐えるのは無理だった。

    とっさに手を離して、壁から離れる。その瞬間にがしゃんと大きな音がして、テレビは床に転げ落ちていた。

    大森さんは、マスタールームと呼ばれる部屋に入った。

    系列内各局がキー局に送る映像がすべて確認できる場所だ。宮城、岩手の系列局から送られる映像は、この地震が尋常な規模でないことを物語っていた。

    そして、この部屋にはもう一つ重要な映像があった。

    海から原発を定点観測するカメラからの映像だ。TUFが独自で設置したカメラから流れてくる第1原発の映像を、大森さんはリアルタイムで確認する。

    呆気にとられるしかなかった現実

    記憶はそれから、ところどころ抜け落ちている。

    大きな揺れから約50分後、カメラ越しに海が泡立っているように見えた。一体何が起きるんだとモニターを注視した。そこに真っ黒な塊が原発を直撃する。これが津波だった。

    怖いというよりも「あっきてしまった」という思いが先にあった。想像を超える事態に直面したとき、ベテランのテレビマンであっても呆気にとられるしかない。

    恐怖を感じたのは、津波から24時間が経過した12日午後3時36分に起きた1号機の水素爆発だ。

    TUFのカメラはこの映像を収めることに失敗する。津波の影響でカメラも途中でバッテリーが切れてしまい、12日の昼までしか映っていなかったからだ。

    他局から流れてきた、水素爆発の映像をみて思う。

    《もし圧力容器が吹き飛んでいたとしたら……。チェルノブイリかそれ以上のことが起きるかもしれない。

    そうなったら福島は終りだ。放射性物質の飛散量、数値を確認しないといけない。》

    事態は刻一刻と変化した。合間をぬって、家族への指示も送った。

    仙台に下宿していた大学生の長女には、仙台で待機するよう厳命し、福島の自宅にいた妻には「線量が上昇した場合に仙台まで避難できる準備をするように」と伝えた。

    各地で計測された放射線量を見比べながら、3月15日の時点で大森さんは考えられるなかで最悪の事態、つまり県内全域かそれ以上の避難が想定される事態は免れたのではないか、という確信を持つ。

    福島市内の放射線量が、その時期をピークに増え続けることがなかったからだ。

    チェルノブイリ原発事故のデータをみても、いまも立ち入りが制限されている地域の汚染レベルには到底達していないことがわかった。

    少なくとも、家族を避難させる必要はないと判断した。

    「データをみて、定量的なものの相場観を持つ」

    《部下にもずーっと同じことを言ったんだけど、データをちゃんとみて、定量的なものの相場観を持つということ。これが大事なんだってことね。

    放射線はもともと自然にもあるから、0か100か、あるかないかではなく、どの程度あるのかを見極める。

    その数字に基づき、自分たちの生活を照らし合わせて、どのような対策が必要なのかを考える。

    避難、と一口にいっても個々人の生活との兼ね合いで、したほうがいい場合もあれば、しないほうがいい場合もある。

    たとえば、外部被ばくで空間線量が年間で1mSvに達するのは、空間線量0・23μSvの場所だという話が福島で広く知られるようになったのね。

    だけど、本当にそうなのか。自分たちで個人線量計をつけて計測したから自信を持って言えるけど、これは間違っているんだよ。

    外部被ばくの計算は、そんなに単純なものではなくて、人は同じ場所にずっと立っているわけではないという事実を考慮しないといけない。

    人は生活するときに24時間同じ場所にいるわけではなく、移動するでしょ。だから、実際にどのくらい被ばくしているかを計測するほうがよっぽど大事なの。

    机上のデータで論じてもしかたなくて、実際の計測データに勝るものなし、なのよ。

    福島の報道をするなら、こういう事実をきちんと知って、それに基づいて伝えないといけない。

    これは反原発だからとか、警鐘を鳴らすとか、権力と対峙するためとか関係なく、事実を抑えるっていうジャーナリズムの基本中の基本なんだけど……。》

    「福島で生きていく自信と誇りを取り戻すために働こう」

    大森さんは震災から1年を迎えた2012年3月に報道部長として現場復帰を果たす。

    すでに書いてきたように、最初の訓示で打ち出した方針は「福島で生きていく自信と誇りを取り戻すために働こう」だった。

    いま福島に住んでいていいのか。生まれ育った故郷に戻ることができるのか。

    福島に生まれてきたことを絶望しなくていいのか。

    根底にある疑問に真っ向から応えていく。これが地域に生きるメディアの役割である、という決意である。

    そのために必要なのがデータだった。東京のメディアは「マスク」を強調した絵を撮ったり、福島県産の農産物が放射性物質の基準値を超えたら大きく報道する。健康の問題もそうだ。

    福島で本当にリスクが高いのは被ばくよりも、糖尿病やストレスであることは多くの医学論文で検証されてきた事実だ。

    それでも、子供たちの被ばくのほうが大きなトピックになる。

    それは結果として、福島で生活するという決断を後悔させたり、絶望させるのではないだろうか。

    人を死に至らしめる報道はやめよう

    《もう住めないって言われたり、生きがいを否定されたりすると人は死を選ぶ。

    自分たちは原発事故を再発させないためだ、とか、時の権力を批判するためだと思って、正当化していることが人を死に至らしめることがある。

    それも、権力とは何にも関係ない、ただ生活を送りたい人の死につながってしまうんだ。

    ときの権力を批判することが、人々の幸せにつながる。平和なときなら、それでいい。でも、2011年からの福島ではそんなことは通用しない。

    権力を批判するために、センセーショナルに報じたことが、幸せにつながらないことがある。それが自覚できないなら、報道に携わってはいけない。本当にそう思うよ。》

    だから、大森さんは基準値とは何か、超えたことが即危険なのか否かについてデータの見方を伝える報道に舵を切った。

    なにで警鐘を鳴らすのか?

    マスクの絵が必要だというならいい。警鐘を鳴らしたいというのもいい。

    では、大気中に何ベクレルの放射性物質が舞っているのかを知っていて、警鐘をならすんですか?と大森さんは問いたかった。

    この日の福島市内で言えば、24時間子供が屋外にいて空気を吸い続けても、0.0008μSvだ。

    これは警鐘を鳴らすに値する数字なのか?どういう科学的知見をもとに判断したのか。そこが大事だと思っていたのである。

    安易な両論併記はしなくていい

    専門家同士で意見が分かれたとしても、まずは全体の状況を調べ、安易な両論併記はしなくていいと伝えた。

    《少数意見を大事にするのは、マスコミの役割の一つ。そういうふうに教わってきた。

    でも、こんなケースで考えてほしいんだよね。たとえば、放射線がどんなに少量被ばくしても危険だという人たちが科学者の中でも少数いるのは事実です、と。

    でも、福島市内で生活をするとして、多くの専門家が「被ばく量」から判断しても生活しても問題ないと判断しているのに、少数意見を大きく取り上げて、あたかも専門家同士の見解が50:50にわかれているかのように取り上げるのはフェアな報道なのだろうか?

    こんな両論併記はおかしいよね。だから、全体を見渡して判断しようって、言ってきたんだ。》

    大森さんには今でも誇りに思う仕事がある。

    2012年春、報道に復帰してから立て続けに製作した科学者へのインタビュー特番だ。タイトルは「福島で日常を暮らすために」。

    自身が聞き手を務め、タイトル通り、日常を暮らすためにどうしたらいいのか。科学者に率直に問いただした。キャスティングが絶妙だった。

    福島で放射線の汚染マップを作っていた獨協大の木村真三さん、日本の反原発運動をリードしてきた放射線防護学者・安斎育郎さん、福島の子供たちの内部被ばくなどを調査していた物理学者の早野龍五さんーー。

    そして、はじめて読者の立場から放射線の解説本を書いた田崎晴明さん(物理学)らによる公開講座につながっていく。

    福島から避難を余儀なくされた人たちのために、そしてキー局任せにならない報道のために、番組はインターネット上でも公開した。

    福島で生活することと、原発に賛成か反対かはまったく関係がない

    《日常をどう取り戻していったらいいのかっていうのをちゃんと聞いてみたかった。

    それも、短時間で終わりではなく、時間をきっちり確保したインタビュー番組にしたかったんだ。

    あと福島で生活することと、原発に賛成か反対かはまったく関係がないことなんだって発信したかったんだよね。

    安斎さんは筋金入りの脱原発運動の旗手だし、リーダーのような人。ずっと尊敬していた。あの時期から、安斎さんはデータを見たうえで、福島で日常を暮らすと決めた人たちを肯定してくれた。木村さんも、早野さんも見解は変わらなかった。

    データをきちんとみると、原発への賛否とか立場と関係なく同じ見解になるんだっていうのがわかって、自信になったよね。

    原発政策を批判することと事故の責任を追及することと、福島の生活は別の問題として考えることができるってあの年で示せたのは大きかったと思う。》

    福島で本当に大事な事実は全国ニュースにならない

    しかし、彼のような見解は残念ながらメディアの中では少数派だった。

    マスクをめぐる問題に象徴されるように、「原発事故の影響はまだわからないからこそ、警鐘を鳴らす」という空気が支配的だったからだ。

    大森さんもわからないことがあるのは認める。しかし、わかってきたことが多いのもまた事実ではないか、と思ってしまうのだ。

    こんな事実がある。

    福島県産の米は全量全袋検査をやっていて、基準値超えは2015年産からついに0になった。

    県内の農家や関係者の努力の賜物であり、大ニュースだった。県内では大きく取り上げても、全国での扱いは「基準値超えがでた」に比べたら、かなり小さいものだった。

    原発事故が胎児への遺伝的な影響を与えることはない、ことだって科学的には決着がついている。

    あの日、福島にいた若者たちが「自分は子供が産めるのか」と心配する必要はないこということだ。これも、全国的に知られているのだろうか。

    福島県内で、これこそがニュースだと言えるものを発信しても、全国での扱いは小さい。「異常な話」は簡単にニュースとして扱われるのに、である。

    「東京」との戦いに疲れた…

    《やっぱり、疲れたんだよね。

    ずっと福島からニュースを発信しても、県内で止まってしまう。

    組織のなかで発言したところで、みんなの意識がある日突然、がらりと意識がかわることなんてありえないじゃない。

    日常を取り戻そうって思って伝え続けてきたけど、それならマスコミじゃなくてもっと別のやり方があるんじゃないかって思ってたんだよね。

    大きな網をがばっとかけるようなやり方じゃなくて、もっと生活に密着したなにか……。》

    疲労も疑問も日増しに大きくなった。そんなある夜のことだ。

    遅くに帰宅し、自宅でパソコンを開いて、一人で県内各市町村のサイトをチェックしていた。伝えていないニュースがないか、更新された情報はないか。

    彼のルーティーンワークのような時間だ。

    そこで、飯舘村のサイトに職員公募のお知らせがでていることを見つけた。

    2016年4月採用のお知らせだった。

    飯舘村は全村避難から、帰村に向けて本格的に動いていこうという時期だった。密に関わっている取材先が住む村でもある。

    このお知らせが引っかかった。

    自分は50代半ばをすぎた。定年までテレビ局に残ったとしても、これ以上のことはできない。自分にやれることはすべてやった気がした。

    変わらない「中央」との関係で疲弊するのか、最後はもっと現場に入っていくのか。考えはどんどん後者に傾いていった。

    2018年、雪が残る飯舘村で……

    2018年2月22日、福島市内とは一変、真っ白い雪がまだ残る飯舘村に大森さんはいた。大森さんの仕事の大事な柱は、飯舘村で開催するイベントを企画することである。

    いつの間にか、話の頭に「うちの村は〜」という言葉がつくようになった。胸に下げたカードケースには「生涯学習課生涯学習係主査」という肩書きがある。

    この日の大事な業務は福島市内に仮設校舎がある飯舘中学校への訪問だった。

    大森さんの尽力で、この週末に人気バンド「上々颱風」のボーカル・白崎映美さんが率いるロックバンド「白崎映美&東北6県ろ~るショー!!」を飯舘村に呼ぶことに成功した。

    ただ、ライブをやるのではなく、帰村した村の人たちに子供たちの姿も見てもらいたい。

    飯舘中は今年、仮設校舎を出て飯舘村にある本校舎に移ることが決まっている。いま、中学校に通っている子供はほぼ全員が飯舘に通うという。

    だったら、子供たちにも現在の飯舘を見てほしい。

    ならば、ライブと一緒に中学生が舞う飯舘の田植踊をみてもらうというのはどうか。中学、バンドに打診すると、双方ともまったく問題ないという。

    欲がでて、それならば一曲、子供たちに手拍子と掛け声で参加してもらうのはどうかと提案した。これも問題ないという返事があった。

    練習は進んでいるか、生徒たちはバンドの曲を聴いているか。進捗を確かめにいったのだ。

    報道にいたらできなかった現場での役割

    いざ中学に行ってみると、男子チームは明らかな練習不足だった(ちなみに後日あった本番の様子を聞いたところ、当日は大成功だったことを記しておく)。

    指導にあたっていた田植え踊りの保存会長も困り顔、大森さんも渋い顔で「男子だけあと一回、通しで練習をやりましょう」と言った。

    手拍子の練習も中学生らしく、一生懸命やることへの照れや気恥ずかしさが混じったものだった。

    「まぁそれでもいいのだ」と大森さんは思う。「東北6県〜〜」はその名の通り、山形出身の白崎さん、福島出身の小峰公子さんらによる東北にルーツがあるミュージシャンが主体となったバンドだ。

    奏でる音は民謡など土地に根ざしたルーツミュージックを取り込んだ、パワフルなもの。

    彼らが本物のバンドと触れ合うことで、ルーツある土地を踏みしめて生きる力や、自分のルーツとは何かに思いをはせる機会そのものが大事なのだ。

    いま、中学生の彼らは生まれ故郷の小学校に通ったという記憶がほとんどない。校舎が「仮設」のまま中学生活が終わる生徒だっている。

    彼らのルーツは「汚染」か「帰れない村」か、そんなマイナスのレッテルを貼られたままだ。

    生徒たちに本当は帰りたくない、という気持ちがあってもいい。

    それでも、せめて飯舘に生まれたこと、飯舘で暮らしていたということが「負のレッテル」にならないでほしい、と大森さんは願う。

    自分で、自分を追い詰める「セルフスティグマ」はまったく必要ない。それをなくすことが、自分が報道にいたらできない「現場」での役割であると思うのだ。

    「飯舘にいたら笑っちゃいけないと思ってた」

    もちろん、現実は厳しい。

    福島市内、彼の音楽仲間が腕を振るうレストランである。何本目かの瓶ビールをグラスに注ぎ、くいっと3分の1ほど飲み干したところで、大森さんがいう。

    《日常、日常って言ってきたけど、うちの村にきたらさぁ思っていた以上に打ちのめされることも多いんだぁ……》

    2017年、ある夏の1日だった。大森さんは芸人を村に招くイベントを企画した。早めに帰村し、地域の顔役としてイベントの告知や人集めを手助けしてくれる女性がいる。

    彼女を通して、人を集め、途中で交流の時間を設け、その日は大いに盛り上がったと思っていた。ところが彼女はこう漏らしたのだ。

    「楽しかったですねぇ。私、飯舘にいたら笑っちゃいけないって思っていたんだぁ」

    飯舘は復興の途上である、飯舘は苦しんでいる、飯舘は大変な思いをしている……。

    そうした言葉だけがメディアで強く打ち出される。大変なのだから、みんな苦しいから自分は笑ってはいけないーー。

    《彼女ですら、そう思っているっていうのが本当にショックなんだよ。あんなに元気で、前向きなのに……。俺、どこ見てたんだろうなぁ。

    日常を取り戻すって報道を続けて、手応えもあったんだけどね。うちの村では、まだ日常なんて取り戻せていないし、はじまってもいないんだよ。

    日常って、震災前とまったく同じになるって意味じゃないと思うんだ。

    そんなことは、目指しても無理だと思う。変わったとしても、村で笑って生きていける。それが一番、大事なことだし、日常を取り戻すってことだっていまは思うよ。

    笑って生きるって難しいんだよね。》

    寄り添う、とは「人の話をしっかりと聞き、話してもらうこと」

    大森さんは何度かメディアも自分も「もっと寄り添うことが必要だ」と言っていた。寄り添う、とはどういうことか。

    《人の話をしっかり聞くこと、そして話してもらうことだって思うんだよ。

    うちの村で話を聞いていて思うんだ。不安を感じた時、真っ先に不安に耳を傾けたのは「福島は危険だ」っていう人たちだったんだよね。

    科学的におかしかろうが、なんだろうが耳を傾けた人は信頼されるよ。

    自分たちは科学的に妥当性が高いことを報じようした。でも、明らかに出遅れてしまったんだと思う。問題はその後にもあった。

    メディアでも、行政でも本当に話を聞いてきたのかなぁ。最大公約数の報道だけじゃなくて本当に人の話を聞いてきたのか。

    今だって、もっと寄り添っていきたいって思うよ。もっともっと「うちの村」の人の話を聞いていきたんだよね。》

    吐き出すように語り、彼はグラスを置く。夜が更け、ほかの客がいなくなった店内でタバコに手を伸ばし、一息ついた。

    これが現場で考え続けることを選んだ人間がたどり着いた、一つの回答である。

    彼の思いは、報道や支援に携わるすべての人たちへの問いに転化する。

    震災、原発事故から7年。あなたたちは本当に苦しい人の話にしっかり耳を傾けてきたか?と。

    答えは、彼も含めておそらく誰も出せない。確かなのは、関わった誰しもが問いへの答えを見つけ出す途上にいる「当事者」であること。これである。