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「素質を見抜く力」 広島カープの礎を築いた名スカウトが遺したもの

ノンフィション作家が語る取材秘話

2008年、広島カープを支えた辣腕スカウトが逝った。広島に生まれ、原爆を体験し、1950年代からカープを支えたスカウト、木庭教である。

スカウト業界でその名を知らぬものはいない。貧乏球団だったカープにあって、足で築き上げた情報網と、無名選手の素質を見抜く力は群を抜いていた。

広島のスカウトになった木庭が発掘した主な選手をあげる。衣笠祥雄、高橋慶彦、大野豊、達川光男、正田耕三……。いずれもカープ黄金時代を築き、球史にその名を刻む名選手だ。

なぜ、木庭は人の持つ力を見抜くことができたのか。彼を追いかけたノンフィクション作家を訪ねた。

私が木庭の名前を知ったのは、一冊の本だった。ノンフィクション作家・後藤正治さんが1994年の夏から約3年間、木庭に密着し、彼の目を通して戦後のプロ野球史を描いた「スカウト」だ。

東京都内のホテルで落ち合ったベテラン作家は、穏やかな表情、そして柔らかい関西弁で、こう振り返るのだった。

「木庭さんのことですか。覚えてますよ。いろんな取材をしてきましたが、この3年間は本当に楽しかったですね」

木庭はなにより「仁義」をもとに戦後を生きた人だった。後藤さんは、そこに惹かれた。

「木庭さんは、面白い人なんですよ。ワルとか、やんちゃ坊主が大好きでねぇ。例えば、広島に長嶋清幸という選手がいました。これもかなり、やんちゃでね。今で言うところの不良少年ですよ。こうした選手が、一番好きで取ろうっていうんですよね。品行方正じゃなくてもいい」

あいつは、素質は十分だが素行が悪い。そんな噂が聞こえてきても、木庭は気にしない。

「木庭さんは、そっちのほうが面白いじゃないかって思うんですよ。プロ野球で飯を食うために必要なのは、品行方正で真面目なだけのお坊ちゃんじゃない。ハングリーなやんちゃ少年のほうがプロでは飯を食える。木庭さんは経験則として、それを信じていましたから」

こんな話もある。

「木庭さんはカープが長かったけど、離れて数球団を渡り歩きました。別の球団でスカウトをしていたとき、どうしても獲得したい選手がいた。この選手の父親が、ヤクザなんです。球団側は慎重だったことに、木庭さんはえらい怒りましてねぇ」

なぜか。根底にあるのは、木庭独特のプロ野球観である。

「彼の言葉を借りれば、プロ野球は『国益からみればクソの役にも立たない』。お題目として、青少年の健全育成がどうこう言ってきたのだから、こういうときこそ貫かないといけないって言うんですよね。プロ野球が拾わなかったら、この子の人生は、居場所は、どうなるんだって本気で怒ってました」

「その話を聞いたとき、この人は本当に面白い人だなぁと思いました。他球団のスカウトも随分と取材しましたが、他のスカウトと一味違うところがありました」

いくら辣腕スカウトといっても、目をつけた選手がすべて大成するわけではない。生き残れない選手はいくらでもいる。木庭が大事にしたの、選手たちとの付き合いだ。

「人の見方が長所主義なんですよね。そして、本当に一人の人間として、選手をみていましたね。野球少年を愛していて、温かい目線を持っていましたね。選手がやめていっても、再就職先の面倒みたりね。ちゃんと付き合うんです」

投手は、どんな投げ方でもとりあえず速い球を投げられる。打者も球を遠くに飛ばせる、足が速いといった一芸があればまずはいい。性格も含めて悪いところは、多少のことなら目をつぶる。

それでも、プロで成功するかどうかは別問題であり、簡単には勧めない。「取らないこと」もまたスカウトの仕事だ、というのが木庭の流儀だった。

例えば大野豊。社会人野球でまったく名前を聞かない出雲信用組合の、それも軟式野球部出身という異色の経歴を持つ。広島の主軸として、40歳を超えて最優秀防御率を獲得するなど、息長く活躍した名左腕だが、当時は無名の投手だった。

テスト生として入団を希望した大野をみて、木庭はこう思う。独特のフォームだが、勢いのあるボールを投げているし、カーブもいい。しかし、母一人、子一人の母子家庭だ。家庭のことを考えれば、成功を保証できないプロ野球よりも、安定した出雲信用組合に残ったほうがいいのではないか。

「下手に勧めても、失敗するリスクの方が高い。採用を任されていた木庭さんは、大野の気持ちを確かめるために、まずは信用組合で札束数えていたらいいんじゃないか、と言ったんですね。それでも大野が折れずにやりたいって言うから、決めた。だから、大野は木庭さんを本当に大事に思っていましたね」

もう一つ、後藤さんが惹かれたのが、木庭生来の「反骨」気質と個人の自由を大切する姿勢だ。

「ジャイアンツみたいなお金持ちの球団が、強くて良い選手をとって……そういうの好きじゃないんだよね。木庭さんも、僕も。あとは原爆体験ですよね。木庭さんの中に、とても大きいものとして残っていると思いました」

「スカウト」のなかにこんなエピソードがある。

広島に生まれた木庭は、1945年8月6日、原爆投下を経験している。19歳の時だ。爆心地から南へ約1キロの地点だったという。頭や背中から血を流したが、なんとか歩けた。

その目でみたのは、地獄絵図だった。しかし、木庭は聞かれない限り、多くを語ることはなかった。

「ただ、ずっと自分はもう『あの日』を忘れたいと思ってきたように木庭は思うのだ。そして、忘れたいとしてもなお忘れさせてくれないのがヒロシマなのだ、と」(「スカウト」より)

木庭は毎年、8月6日午前8時15分、広島市内の街角のどこかで、そっと手をあわせていた。花束を置くこともあるが、儀式に参加することはない。一人で追悼する。

夏の甲子園。大会初日の国歌斉唱と、国旗掲揚がある。この時間、木庭は一人、スタンドをそっと立ち去る。一斉に唱和をする行為に、加わることはない。

いずれも、個人としての行為がそこにはある。

「木庭さんは、良きリベラリストなんですよ。軍事教練も大嫌いだって言ってました。個人の自由を大事にして、全体主義的なものに対して非常に批判的でしたね」

個人を尊重し、自由を重んじる。不良であろうが、ヤクザの息子だろうが関係ない。あくまで個人をみる。良きリベラリストとしての木庭の姿は、彼のスカウト観にも通じるものを感じる。

原爆を体験した木庭の戦後と、広島の街の復興を担ったカープの戦後は重なってくる。

「広島という球団は、戦争の惨禍、歴史を背負った球団ですよね。他の球団にはない歴史を持ち、市民がカープを支えてきた。スカウトの取材でカープの関係者ともお会いしました」

「そこで聞いた昔の話ですが、巨人とカープでは、試合の移動ひとつ取っても扱いが違う。球団が貧乏で、いい席で移動できなかったんですね。それでも、選手からは不満がでなかったって言うんですよ」

貧乏であっても、選手を発掘し、育成する。そして選手たちは、広島という街に感謝をする。

「Jリーグがホームタウンを理想に掲げたけれど、カープこそ、それを体現しているじゃないですか。衣笠の世代でも『広島は特別なチームだから』って言ってました。市民に支えられてきた、と。こんな言葉が選手から聞けるチームってなかなかないですよね」

そんな戦後を生きてきたからだろう。木庭は、お金にものをいわせるプロ野球の選手獲得競争に批判的だったという。

「(契約金)1億円に値する選手なんておりゃあせんよ、というのが口癖でしたねぇ。裏金みたいなものも嫌ってました」

自分で歩き、自分で見て、いい選手を見つけることを大事にした。もっとも、簡単には見つからないのだが……。

「最初は、木庭さんにくっついて歩いたらすごい選手が見つかるかも、と意気込んで取材していたんですよ。でも、まったく当たらないことばかり。毎回、帰り道、大した選手いなかったんだよなぁとか言いながら、歩いて帰るんですよ」

言い方は悪いが、およそ名スカウトとは思えない言葉だ。一見すると無駄であり、徒労にも思える。

しかし、後藤さんはあるとき気がつく。華々しくない、無駄な日常こそ、名スカウトを名スカウトたらしめた日々だったのではないか。日常には、そうそうドラマティックなことは起きない。ならば、その日々を描けばいいのだ。

こうした日々を積み重ねてきた木庭の思想はおそらく、いまのカープにも受け継がれている。

「木庭さんは、広島カープを体現する人の一人だと思っています。戦後の広島、何もないところから出発し、市民の希望になったカープ。それを作っていった人たち。他の球団にはない、物語がありますよね」

「一プロ野球ファンとしてみても、選手を発掘して育成していくという伝統は、息づいているなぁと思いますよ。個性と長所を生かしてね。今年もいいチームじゃないですか」

木庭の思い出を語る後藤さんの話を聞きながら、私にも、広島の街が、出身者が、なぜカープをこれだけ大事にするのか。その理由が少し見えてきた気がする。

ずっと受け継がれている物語がそこにあるからだ、と。

バズフィード・ジャパン ニュース記者

Satoru Ishidoに連絡する メールアドレス:Satoru.Ishido@buzzfeed.com.

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