ネットに蔓延する「正しさ」が息苦しい その正義感が危うい理由

    小説家、星野智幸さんのインタビュー。テーマは「正義感」で一体になることの怖さです。インターネット上で、路上で、生活の場で……。「正しさ」の圧力から逃れる言葉を探します。

    インターネットが息苦しい。そんな風に思う人は少なくない気がする。例えば原発問題。なにかにつけ賛成か反対か、批判するのかしないのかが問われ、意見が違うとわかると強い調子で言葉が返ってくる。

    はじめは興味があった論争も、内輪ノリが強まって、なんだかどっちもどっちだな、と思って離れてしまう……。

    「正しさや正義感は陶酔をもたらし、一体感を生む。この一体感こそが曲者です。ほんとうはみんな個人で思っていることが違うのに、集団の論理や言葉が優先されていく。これを僕は『正義という病』と呼んでいます。いまの社会のいろんなところに転がっているじゃないですか」

    こう語るのは小説家の星野智幸さんだ。

    新聞記者を経てメキシコに留学。いまの社会が抱えている問題を小説の中に取り込んできた作家だ。2000年に『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞。『俺俺』は亀梨和也さん主演で映画化され、今年は過去の作品をテーマ別に編み直した『星野智幸コレクション』も刊行された。

    小説家が描きだす「デマ潰し」という正義

    星野さんの小説を貫いているのは「正しさ」に対する違和感だ。最新長編『呪文』では、インターネットの炎上騒動をモチーフに、こんな構図を描いてみせた。舞台は「『今、ここ』ではなく、少しだけ未来」……。

    ある駅の近くにある松保商店街。その一角にある「夕飯のとれる居酒屋」が、インターネットでデマを書き散らかされ炎上する。トラブルになった客が被害者を装って「暴力居酒屋」と書き、抗議が殺到したのだ。

    居酒屋の店主はデマを潰すために事実関係を詳細に書いた反論をネットに公開する。毅然とした対応に加え、商店街の未来像、今後の対応を示すブログも話題になった。

    これを機にネットの空気は変わる。「神対応」「崇拝するわ」といった声があふれ、商店街の客トラブルに対応するために有志の若者が立ち上がる。

    デマには正しい情報を流すことで対抗する。これ以上の事実に反するデマは許さない。正義に突き動かされた有志のデマ潰し集団はやがて、デマを流した客が近隣住民であることを突き止める。

    客、そしてデマに踊らされた地元住民=失格住民の洗い出しをはじめる。求めるのは彼らの改心だが、その方法はより過激になっていく……。

    「一体感が優先されていって、自分たちを批判する者はすべて許せなくなる」ことの怖さ

    小説の着想を得たのは路上だ。星野さんもヘイトスピーチに反対するデモに参加した。そこで見えてきたことがある。

    差別発言を繰り返す人たちが、なぜここまで言葉の暴力をエスカレートさせることができるのか。彼らは彼らで、独自の「正義」をふりかざす。

    「本気で信じている『正しい歴史』があるのでしょう。本気でやっているから、まったくぶれない。正しさを主張する集団に、自分のアイデンティティーを重ねて、自己肯定感を得る。一体感の快楽に酔いしれるために暴力をふるうのです」

    「正しさ」を求心力につながる一体感。そこから生まれるのは高揚と自分たちは絶対に間違っていない、という感覚だ。自分たちは本当に正しいのか。少しでも疑問を挟むと、一体感はなくなる。ならば、間違っていないと信じたほうがいい。

    これはヘイトスピーチを吐く側だけの問題なのか。

    「批判する側が同じ問題に陥ることもありえます。人を傷つける言葉の暴力を、なんとか止めたい。あるいは、差別に傷ついた人同士が、苦しみを共有し、立ち向かう。その姿に共感するのは当然でしょう。けれど、批判する相手の間違いが明白なあまり、自分たちの行動に一切の誤りはないと信じ込み始めたら……」

    「そこで、すでに正義の落とし穴にはまっている。一体感が優先されていって、自分たちを批判する者はすべて許せなくなる。差別批判以外についてもあたかも声が一つであるかのようになる。本当はそれぞれの考えがあるはずだろうに」

    「推進派も反対派もさして変わらんということを。そのわけは、対立という形にある。対立という構造は鏡みたいなものなんだよ」(『夜は終わらない』より)

    2011年、東日本大震災、福島原発事故を境にして、原発をめぐって賛否が激しくわかれた。

    この事故を受けて、原発をやめるべきである。一刻も早く、すぐさま脱原発を宣言すべきなのに政府は何をやっているのか。一方で、事故があっても推進を強く求める声もあがった。インターネット上でも、激しい対立構造ができあがった。

    震災後、はじめて発表した長編「夜は終わらない」。その一節で、星野さんは架空の「夢のエネルギー」核融合工場を巡る推進派、反対派の攻防を描く。

    ひょんなことから、工場で働くようになった「俺」は、推進派の言葉に夢を託す。いわく、うまくいけば推進派の想像を超えていく変化をもたらすものであり、ここで働くことそのものに愛着を覚える。

    反対派ゲリラに工場を襲撃され、捕まった男は推進派のウソを教え込まれる。あらゆる核を認めないという彼らは、推進派の理屈にはいくつもウソが仕込まれていると語る。反対派にとって反核は「信仰」であり、「信仰心が厚いのは、推進派が強大な権力だからだよ。何しろお国だからね」という。

    やがて、推進派と反対派の抗争は激しさを増し、スパイ、二重スパイが暗躍をはじめ、もはや誰が推進派で誰が反対派なのかがわからなくなる。

    抗争に巻き込まれた「俺」も自分の立場がわからなくなり、一体、どっち派なのか悩んでしまう。最後まで残るのは、対立のための対立であり、なんのための対立だったのか、それすらぼやけてくる。

    こんなセリフがある。お前もそろそろ理解しただろう、とある登場人物は言う。「推進派も反対派もさして変わらんということを。そのわけは、対立という形にある。対立という構造は鏡みたいなものなんだよ」「(対立は)左右が逆になった自分を見ているだけだ」

    「二項対立に回収される言葉は不毛」

    架空の物語なのに、そこに投影されているのは、この社会そのものだ。星野さんはこんな考えを込めた。

    「正しいのか、間違っているのか。二項対立に回収されていく言葉は不毛です。それを無効化したいと思っていました。そこで考えないといけないのは、結果として対立のための対立のなかで、誰が得をするのか。どんな問題が残り、誰が損を被るのか」

    星野さんの小説のなかに、本当の意味での悪人はあまり登場しない。どこかにいそうな平凡な人たちばかりだ。『呪文』のなかで、デマを流した客も、対抗した居酒屋の店主も、立ち上がった有志も誰かを排除しようなんて思って行動した人は誰もいない。

    しかし、結果的に進んでいったのは「自分たち」と「それ以外」を選別することだ。

    「自分たちの正しさを認めさせようとすると、100か0かしか選択肢がなくなる。正しさを証明することが自己目的化していく。例えば9割の達成でも、0になる。でも、本当にそれがいいんですか?」

    100と0の間に、切り捨てられる1から99がある。それがあたかも、はじめから選択肢にすらないかのようになる。より先鋭化すると、100もしくは0以外は敵だという選別が働く。一度掲げた「正しい言葉」に自分たちも気づかないうちにがんじがらめになっていく。

    「正しさに規定されなければ、もっと自由に考えられるはずで、選択肢はたくさんあるってことなんです。原発問題にもあらわれていますが、何かを選択するということは、別の誰かに負担を強いるということです。問題は複雑になっているから、簡単には断言できないことが増えていくはずなのに……」

    「がんじがらめになると、なにかを話しているのに、個人の言葉じゃないように聞こえてくる。運動の言葉、集団の言葉が優先されて、その人が本当に自分の言葉で語っているようには聞こえてこなくなるんです」

    「他の人の言葉を自分たちの『正しさ』のためにつかうことには、慎重じゃないといけない」

    「福島の人が〜〜といったから」原発はやめるべきだ、あるいは、復興は必要なのだ。そんな言い方をする人はいつだっている。「当事者」が思っていることはひとりひとり違うはずなのに、個人の声としては聞かれず「福島」の声になっていき、誰かに代弁されていく。

    「原発に反対する人へのシンパシーもあります。でも、推進するという人も反対する人も正義に酔って、問題をあまりにシンプルにしてしまう。複雑な問題がなかったことになると感じました」

    「自分たちの陣営に味方した人だけでない、本当は、原発を受け入れざるをえない疲弊する地方に住む人たちの声、被災地に住み続ける人たちの声、避難先で人生を終える覚悟の人の声、それでも原発で働かざるをえない人の声……。小さな声を聴くことが必要だったと思います」

    「他の人の言葉を自分たちの『正しさ』のためにつかうことには、慎重じゃないといけないし、ものすごく繊細な問題なはずです。正しい目的のためなら、繊細な問題は気にしなくてもいい。僕にはそんな風に聞こえてしまう」

    小説は小さな言葉を拾うためにある、と星野さんは考えている。

    同調圧力に圧迫される人たち

    「正しさ」に縛られているのは、大きな社会問題だけだろうか。社会に関心をもたなければ関係がないのか。

    「例えば家族ですよね。あるいは男らしさ、女らしさ、セクシュアリティの問題……。本当は、誰もがどこにもカテゴライズされない部分を持っているにもかかわらず、みえない枠に抑えつけられそうになる」

    コレクション2巻に収録された『毒身温泉』は性別や年齢が異なる独身者が集まり、新しいコミュニティーを作ろうとする。既存の価値観と対抗しようと独身を肯定しようとするが……。「対抗しなければならない」という思いにとらわれることで、彼ら自身が苦しくなり、より寛容な形で解放を求めていく。

    自分たちの親子関係に、友人関係に、学校や会社に、自分だけではどうしようもならない「〜〜で、なければならない」という圧力がある。それに圧迫される人たちがいる。

    「〜〜で、なければならない」の背景にあるのは、制度や規範だ。星野さんは、それを「政治」と呼ぶ。

    「家族やセクシュアリティの問題は小さな世界の話です。でも、小さな世界にだって『政治』はある。小さな声をすくい上げて、書くことで、自分たちが何に絡め取られているのかがみえてくる」

    「楽な舟に身を委ねないで、惨めでも、何もできなくても、自分でいることが、将来の松保を救うんだから」(『呪文』より)

    「正しい言葉」が洪水のように押し寄せてくる。SNSに蔓延した言葉は、社会的な影響力を持つようになった。

    流れに身を委ねないためにどうすればいいのだろう。星野さんの小説には、「正しさ」が先鋭化するなかで、大きな行動—デモや署名活動—ではなく、ただ自分を失わず、「個」として生活することで抵抗する人が登場する。

    彼らはどんなに周りが先鋭化しても、その言葉を広めることはしない。違和感を胸に秘め、自分の生活のなかで考えることをやめない。小さなヒントが託されているかのようだ。

    「言葉に流される社会に突き進むなかで、何ができるのかなぁって思うんです。正しい言葉に別の正しさで対抗せず、身を委ねることもしない。『ただ、そこにいること』。疑問を感じたままの自分でいること。今の時代、僕はそれが一番、大切だと思うのです」

    星野さんはそっと言うのであった。それは、「正しさ」に疑問をもったままでいることを肯定する言葉に聞こえた。

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