絶望はもう十分
《僕はこれまで、政治や社会をテーマにして「絶望」を描くことが多かった。想像力を使って絶望を可視化させることで、世の中をそっちに行かせてはいけないという思いが強かった。
でも、この社会に絶望はもう十分ですよね。今回は希望を描きたかった。
それも「こうすれば成功する」とか、明るい未来がやってくるという誰かに依存した希望ではない、希望を書きたいと思いました。》
こう語るのは最新小説集『焔』を発表した星野智幸さんだ。
社会のポジティブな面に光をあてる
星野さんはいまの日本社会が抱える問題を小説の世界に積極的に取り込んできた作家だ。
希望とは対極にある「ディストピア」をリアルに描くことで、この社会の本当の問題や政治の姿を浮き彫りにしていく。その作風は高い評価を獲得してきた。
2000年に『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞。『俺俺』は亀梨和也さん主演で映画化もされた。
そして、幻想的な物語のなかに東日本大震災、原発事故後に起きた対立や分断を織り込んだ『夜は終わらない』で読売文学賞を受賞した。
作風の変化
ところが『焔』では、その作風に変化が見られる。
この本のメインになっているのは、星野さんがこれまで書きあげた9本の短編だが、ただ収録されているだけではない。これは「共通の世界」が描かれたものだという。
それを浮き彫りにするために書き下ろしたのが、短編と短編のあいだに挟まれる短い小説だ。
「私たちは野原のようなところで輪になって座っていた。中央には薪が組み上げられ、火が灯っている。キャンプファイアのようだが、キャンプではなかった」
彼らは火を囲み、最後のお話を一人ずつ語っている。彼らの「お話」が短編小説である。では、描かれている共通の世界とは何か。それは、もう一つの「日本社会」だ。
《この9編はいずれも、いまの日本の現実で見えていない部分や、人が見ないようにしているものを救いあげるという小説です。
それはネガティブな面だけじゃない。逆なポジティブな可能性にも焦点をあててみたんです。これだけ日本は多様になっていて、これからの豊かさの種もある。》
大相撲が映し出す社会の豊かさ
例えば、星野さんが愛してやまない相撲をテーマにした『世界大角力共和国杯』を読んでみよう。
この世界の相撲はグローバル化している。地域ごとの連盟が立ち上がり、ジェンダーの枠も取り払われている。
ナイジェリア人二世が日本連盟の代表で横綱をつとめ、会場をわかしているのは、アンデス大角力連盟代表の八咫烏だ。
部屋の力士の世話をする「おかみさん」は制度化され、引退した力士が次の仕事として選ぶこともできる。
国際色がますます豊かになり、これまでの角界の常識が塗り替えられている相撲界が描かれる。
理不尽な線引きがない社会を想像する
《現実の相撲界は偏狭に、狭くなっていこうとする日本社会が象徴的にあらわれている世界ですよね。
相撲界の中でも、会場でも白鵬やモンゴル人力士へのバッシングやブーイングが起きて、それが話題になっている。
相撲は国別対抗戦ではないのに、日本人力士対モンゴル人力士という意味のわからない構図で相撲を語る人も多い。
そこだけを取り出すとネガティブな要素ばっかりなのですが、しかし、相撲界には外国籍の親方や力士が増えたり、女性の相撲ファンも増えたりと多様で豊かな世界も広がっているんですね。
この小説では、ジェンダーや民族意識、出生や国籍といった理不尽な線引きがない相撲界を書いてみたかったんですよ。
僕は相撲の描写に関してはちゃんと書けるという自信もあるので、そこもポイントなんです(笑)》
ネトウヨは社会を本格的に変える存在ではない、しかし……
見えていない現実をすくい上げるというコンセプトの通り、最初に収録された『ピンク』には単なる排外主義ではなく、東アジアでEUに倣った「東亜共同体」を作り、基軸通貨を円に、共通語を日本語にしようと主張する右翼団体が登場する。
《いまのネトウヨの言説を小説にすると、登場した時点からステレオタイプで、とてもチープな言葉を使う集団としか描けないんです。
彼らは他者を破壊する暴力を振りかざす危険な存在ではあるけど、社会を本格的に変える力はないと思った。基本的な発想が陰謀論だからです。
ネトウヨの言葉より危ないのは、より批判できないような高尚な理念や思想を持った集団の言葉だと思うんです。否定できないような高い理想も備えつつ、実際には国粋主義であるといったように。
いままでの小説みたいに、テーマを担う出来事を前面に押しだして展開させるのではなく、一人の人生を描くなかで、背景として描く方法に変えてみたんです。》
人生は「たまたま」の積み重ね
星野さんが考える希望の根底にあるのは「選択肢」だ。人生は選択の連続で積み上がっていて、その時々の選択肢は自分が思っているよりはるかに多い。
収録した短編『乗り換え』では、あえて自身の半生を振り返り、その時々で別の選択をした「自分」を登場させた。
人生は他でもあった可能性だらけ
《描きたかったのか、人生は他であった可能性が無数に存在しているということです。選択肢は常に多く存在し、自分が他である可能性はあった。
立ち止まれば、選択肢は見えてくるし、一つしか選択肢がない人生はない。たまたま選択を繰り返したのが現在の「自分」にたどり着いているのであって、別の可能性も広がっているんです。
これは「線引き」への批判でもあります。なにかにつけ「あの人はおかしな人だ」「あの考えはおかしい」と批判することで線を引こうとする。
「私たち」とは違うと言いたいためです。
でも、少し考えてほしいんです。自分はたまたま、選択を重ねて、そういう考えになっただけであって、選択がわずかに違っていれば、おかしいと批判される側になった可能性もあるんです。》
強まる分断の論理を乗り越える
自分の人生という「物語」が選択の積み重ねであること、つまり他でもあった可能性を考えることで、他の人の人生を思うことができるというのが作家の狙いだ。
「あいつは敵」「違う人たちは排除」——強まる分断の論理とは違う可能性を提示する。
本のラストはより強いメッセージが打ち出される。灯った火の前で物語を語っていた「私たち」は、一人ひとりが自分の物語を語り終えることで、核心にたどり着く。
「一人残らず自分の物語を終えて古い草原から消えることができたからこそ、私たちはみんなの物語に参加できるようになった。自分という器が確固としていれば、そこにはどんな他人も入ることができる。そうして互いが誰かのうつし身になることで、みんなの物語は始まった」
あなたが「生の側」にいてほしい
星野さんが語る。
《僕は特に震災、原発事故以降、この社会で生きていたいという思いが弱くなっていると思ってきました。生きている実感が感じられない、言いようのない不安感がある。
生きているより、破壊的な死の側に魅せられてしまう。こんな人は少なくないでしょう。この小説は生の側にいてほしい、というメッセージを込めました。
自分の物語を語るというのが、生きているという実感を高めるために必要だと思うんです。それは小説を書け、という話ではありません。
誰かの言葉を借りて「自分語り」をするのではなく、もっと自分の内面にある言葉で語ってもいいんだということです。》
自分だけの言葉で語り、他の人の声を聴くこと。それには時間がかかる。小説は「時間」を超えていける。そこに可能性があるという。
声が大きな人は他の人の語りを聴くことができない
《いまは大声で自己主張したもの勝ちで、それができない人は損をする。さらにスピードが加わって、瞬時に大きな声を発した人だけが得をしていくという現実がある。
何かにつけ早く決着をつけようと「いますぐ止めないといけない」「いまこそ〜〜」という大きな声がでてくる。
言葉を発すれば二項対立に回収されて、味方か敵か、否定か肯定か、賛成か反対か……という構図に押し込められてしまうんです。
その結果、声が小さな人は被害者感情を強めてしまい、絶望し、もう他の人の話を聴くことができなくなる。
絶望はもう十分ですよね。
本来、語りは他の人の話を聴くことと、セットなんです。自分だけの語りでは物語は成立しないんです。声が大きな人も、他の人の声を聴くことができない。
こんな時代に小説を書いていて、意味があるかなとも思っていたのですが、もっとスピードを落としてゆっくりと立ち止まって語り、聴き、書くことの可能性を追求したいと思いました。
「いま」だけでなく、20年後、30年後の人に向かって強度を持ったテキストを書いていく。小説にはそれができると『焔』を仕上げながら思ったんですよね。》
インターネットに蔓延している「いますぐ」役に立つ言葉は、すぐに風化する。しかし、二項対立を離れて、じっくりと思考を深めた先にでてきた言葉はすぐには役に立たないかもしれないが、古びない強さがある。
星野さんは絶望はもう十分なのだ、と強調した。
小説のなかで「焔」は人が集まる小さな輪の真ん中にあると描かれる。それは、希望を象徴する存在にも読める。
自分の物語を語りながら、人の物語を聴くこと。つまり他の可能性を想像しながら生きることが希望である、と——。
そう問いかけると星野さんは笑みを浮かべて、こう返すのだった。
《焔の意味は、読者に委ねようと思います。いろんな物語のどこかに自分を重ねながら、読んでくれたら嬉しいです。》