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「廃炉まで住民不在でいくのか」 元東電社員は、対立ではなく模索の道を選ぶ(後編)

地元がなくなる。これが原発事故。

元東京電力社員の半生から、原発と社会について考えるシリーズ。後編は2011年3月11日から始まる。

東電学園を卒業後、東電社員となり福島第1原発、第2原発に勤める。地域に溶け込み、浪江町出身の妻と結婚……。人生で最も幸せな時間を過ごしていた吉川彰浩さんにとって、最大の転機となった。

原発事故、本当の被害とはなにか。彼は言葉を選びながら、語り続ける。

2011年3月11日、福島第2原発

3月11日以降のことを話すのに、一つ断っておかないといけないことがあります。私には記憶が飛んでいて、よく思い出せない時期があるんです。そこはご容赦ください。

あの日、私はプラントメーカーの方と2F(福島第2原発)にあるオフィスで打ち合わせをしていました。商談は一段落して、自分の机でお茶を出し、お話をしていました。

午後2時46分です。立っていられないほどの揺れを感じました。ぐらぐらぐらぁっと揺れました。まるで洗濯機の中にいるようだと思いました。

机の下にプラントメーカーの人を入れようとしましたが、彼は遠慮してなかなか入らない。「いいから、入って」と背中をつかんで、下に入れ込みました。

私はまず、原発の出力表示を確認しました。2Fには4つの原子炉があるのですが、大きな地震が起きると、自動停止をするようになっているのです。ぱっとみると、自動停止をしたことがわかりました。

まずは一安心です。新潟中越沖地震(2007年)で、現場での地震対策は進めていました。耐震措置も強化されていました。だから、私は地震は問題ないと思っていました。

常日頃から、妻には「震度5以上の地震がきたら帰れないよ」と伝えてありました。徹夜で復旧作業に入ることもあるからです。

「さて、きょうは長い夜になりそうだ」と地震で散らかった書類を片付けました。まずやるべきことは安全確認だな、と思い、ひとまず緊急時の集合場所になっていた高台のグラウンドに向かったのです。

そこに、「津波警報がでた」という一報が飛び込んできました。

私が双葉郡で暮らすようになってからでも、宮城県沖地震は何度かありました。その度に津波警報がでます。実際には潮位変化を見られない程度のものが続いてました。

そういった経験があり、最初は、「あぁ津波もくるのかぁ、海沿いにたっているし、これだけの地震ならあってもおかしくないなぁ」と考えていました。

私もそうですし、現場レベルでは、海側設備を飲み込む大きな津波がくることを、まったく考えていませんでした。

私たちの想定していたリスクをまったく超えた津波がやってきた。津波については意識になかったし、自分の判断はまったく間違っていたんです。

ごぉー、と大きな音が聞こえました。

高台は林に囲まれ発電所本体は見えません。地震で土砂崩れでも起きたか、と思って、山の方を振り返りました。何も起きていません。その音が津波の音だったのです。

想像を超えたことが起きると、現実なのか何なのか、わからなくなるんですね。

グラウンドから戻り、水浸しになった構内を歩きました。本当にどうなるか、わからない。もうまったく先が見通せません。現場は復旧作業に入りましたが、少し記憶は飛んでいます。

その夜だったと思います。当時の所長だった増田尚宏さん(現・東電福島第一廃炉推進カンパニープレジデント)がみんなを集めて、危険な状態であることを説明していました。

いつの段階か詳しくは覚えていませんが、増田さんから「町の状況は知っています、ですが皆さんに残って頂きたい。人数が必要です」という話がありました。協力企業の方も含めて、です。

町の様子、水素爆発した1F

高台から、何もなくなった町の様子は見えました。それを見て、突っ伏してなにも動けなくなった同僚、泣き崩れた同僚がいました。彼らの家があった場所だからです。

どうしても家を見にいくと言った人もいました。気絶したように倒れた人もいました。突然、大きな声を出して泣く人もいました。みんな、地元の人です。

職場は先が見えない大事故のリスクを抱え、家族がいるはずの場所、家があったはずの場所はなくなった。

「原発事故の訓練はしていたのか」とよく聞かれるのですが、事故が起きたあとの作業員のメンタルまで想定した訓練はしていませんでした。

事故だけでなく、家族を失っているかもしれない、家族の安否がわからない。そんな中で、まともに仕事ができるという人はどれだけいるのでしょう。

事故の現場を完全に想定した訓練はできない。今でもそう思います。

今でこそ知られていますが、2Fもあと一歩で1F(第1原発)と同じような事故を起こす可能性がありました。

原子炉の炉心を冷やす機能を持った設備がある建屋が、津波に浸かっていました。津波は瓦礫と一緒に流れてきますから、水圧だけではなく瓦礫による物理的な力がかかって、中の機器が水に浸かったんです。

冷やせなくなれば、事故まであと一歩です。たまたま使える外部電源があり、冷温停止まで持っていくことができましたが、本当に危なかったのです。

1Fで事故が起きたことは、ラジオやテレビからも伝わってきましたし、線量も高くなっていたことでわかりました。1Fから2Fに異動して3年弱でしたから、1Fの仲間の顔も浮かんできました。

1Fから2Fまでは約10キロ離れていますが、海側からは1Fが見えました。私もこの目で水素爆発を見た一人です。

3号機(3月14日に水素爆発)です。その時、私たちは海側の設備にあった、がれきを撤去しようと、みんなで海のほうに向かいました。とにかく人手をかけて、がれきをどかす必要がありました。

1Fで何か起きたらすぐに連絡すると伝えられていました。その日は、天気が良くて晴れていました。だから、1Fは余計に気になります。

「一緒に働いていたみんなは大丈夫かな」「あっちは大丈夫かな」と話をしていました。それに加えて、爆発があったらどうしようと恐怖があったのも事実です。

その時です。渇いた破裂音が聞こえました。それは運動会の朝に打ち上がる花火のような音でした。

反射的に1Fをみると、目視で煙が確認できました。誰かが「爆発だ、急いで建物の中に逃げろ」と叫びました。私たちは、走って退避したのです。

その日の夜、2Fの医務室に1Fからけが人を搬送するという話も伝わってきました。ぞっとしました。命がけの仕事だ、と頭では理解していましたが、この事実を聞いて、本当に命を懸けた現場なのだと改めて思わされたのです。

2Fは3月11日から4日間で、1号機から4号機まですべて事故なく冷温停止状態に持っていくことができました

私は声をかけられない

そうすると、2Fに、1Fの作業員の方も出入りするようになりました。汚染レベルの低い2Fが、1Fで復旧作業に取り組む社員・作業員の方の拠点になりました。

1Fの社員・作業員の方々は放射性物質で汚染されていて、その汚染レベルもとても高いものでした。

汚染については厳重に管理されていますから、普段の作業の被曝量はたいしたことはありません。だから、事故が起きてから、跳ね上がる数値に驚くのです。これが原発事故なのか、と思いました。

私たちには、彼らと接触を避けるよう指示がありました。彼らは体育館で半ば隔離された状態で、寝泊まりをしてました。話しかけることもできなかったのです。

事務所の窓ガラス横に作業を終えて、作業服姿で帰ってくる彼らの姿が見えます。私たちは事務所で寝泊まりしているけど、彼らは事務所よりも寒い体育館で、寝泊まりをしています。

事故の発生初期段階は、毛布や物資も満足にありませんでした。過酷な仕事をしながら、さらに寝ることも満足にできないような環境になっている。本当に申し訳ない、と思いました。

日に日にげっそりして、下を向いて歩く同僚の姿が何人も列になっているのを目の当たりにするのです。それも、まったくの他人ではなく、何年か前まで一緒の職場で働いていた人ばかりです。声もかけられないんですよね。

私たちが近づいて、声をかけて、余計な被曝をしてはいけないんですね。2Fも危険な状況は続いていたためです。より被害を増やさないためとはいえ、辛いものでした。

声をかけるのもダメ、近づくのものダメ、助けるのもダメ。そんな中、彼らは何かを訴えかけるような目をしていた。何を語ろうとしていたのかな、といまでも考えることがあります。

家族とは、たしか3月12日の朝にはメールで連絡がとれていたと思います。浪江町は立ち入りできなくなりましたから、妻は避難所、避難先を転々としました。私は職場の復旧作業が始まり、現場で寝泊まりが続きます。

妻と一緒に暮らせるようになったのは2011年の10月からです。会えなくて寂しいという思いよりも、早く現場を安定させて、家に戻れるような生活にしないとという思いが先にありました。

「本当の被害は生活そのもの、当たり前の暮らしです」

私は、原発のリスクを正確に捉えることができていたのか。

あれだけ勉強した原発が、事故を防げなかった。お世話になった地域の方々の人生を狂わせてしまったという事実。自分たちが想定したいたことをはるかに超える現実を目の当たりにして、考える時間が増えていきました。

原発のリスクというのは、健康への影響だけではありません。問題を健康に限定してしまうのは、事故の本当の被害を見えにくくしている思います。

本当の被害というのは、生活そのもの。当たり前の暮らしです。

2011年の夏ごろでした。社員や協力企業の方からこんな話を聞く機会が増えました。

「東電社員だからって理由で彼女とわかれることになりました」

「放射能がうつるって。子供ができたときに不安だからって」

「結婚はやめようといわれました」

「親父が原発で働いていると、娘が結婚もできない」と言って、去っていく協力企業の方もいました。

みんな、「ごめんなさい」といって去っていくのです。なにも謝ってやめていかなくてもいいよ、と思っていましたが、それを口にすることはできません。

震災そのものによって多くの人も命も失われました。大事な人を亡くした方が、事故の復旧にあたる。誰が、どんな当事者なのか。本当にわからなくなります。

これも、あの年の夏のある日です。

2Fで一緒に作業をしていた協力企業の監督さんと、タバコを吸って作業工程の打ち合わせをしていました。適当な話もしながら、にこやかに打ち合わせをしていたんです。

そこに作業員の方が駆け込んできました。何を言うかと思ったら、作業を中止してほしいというんですね。そんなことを言われても、と思いましたが、こう続けるのです。

「やっと奥さんが見つかったんですよ。いままで黙っていたけど、奥さんは津波に流されたんです。やっと見つかったんだから、今日はもういいでしょ」

見つかったのは、監督さんの奥さんでした。私は、彼の方を向きました。

「吉川さん、気にしないでいい。いまやることをやろう。作業が先だ」

有無を言わせぬ迫力がありました。私が何を言っても、監督さんはやると決めていた。

身近なところに目を向けると、双葉町に住んでいた義理のおじいちゃんは避難生活が続く中、亡くなりました。現在、帰還困難区域の双葉町のお墓に入れることは出来ません。親族中で、やりきれない思いに涙にくれました。

避難所を転々としている人は、当然ですが、知り合いばかりです。

妻と知り合うきっかけになった、居酒屋の女将さん、運動会で一緒に走った人、誘ってくれた人、一緒に働いた人……。

地元がなくなっていく

みんな、散り散りになって、地元がなくなっていく。

そして、現場はバッシングも受ける。

人の心は脆いから、弱いから、簡単に崩れちゃうんです。これがわかったのが、原発事故でした。生活から壊れていくんです。私たちは人の人生を狂わせました。

原発があったからいいこともあったと思うんです。私の楽しかった思い出は原子力と共に暮らす地域でなりたっていたのですから。でも、そのいいことも破壊してしまう。

これが原発事故です。

私は2012年6月に、14年働いてきた東京電力をやめました。作業員の方々のこと、地元のことを伝えたいと思いました。東電社員という肩書きでは、これはできません。でも、現場を知っている誰かが伝えないといけないと思ったのです。

「福島第一原発と住民との距離感は、変わっていない」

私があれだけ働きたかった、憧れていた1Fはもう発電所ではありません。廃炉にする原発です。

私ははじめ、現場を伝えたいと取り組みを始めましたが、徐々に、廃炉とは何か、廃炉に住民が関わることがどれだけ大事か、を伝えることに重点を置くようになりました。

それが「一般社団法人AFW」の設立にもつながっていきます。団体を立ち上げて、私は廃炉の勉強会、避難している地域住民の方を中心にした原発内の視察、その前後のワークショップを企画しています。原発の中を、もう何度も視察しました。

元東電社員だから、視察なんて簡単にできるだろう。そう思う人もいるかもしれませんが、現実はまったく違います。

案内をしたい、現場を見せたいと思っても簡単にはいきません。何度も、東電に趣旨を説明し、企画書を送り、交渉を重ね、やっとで可能になるのです。

私たちが、初めて地域住民による1F視察を実現させたのは2015年2月のことです。

なんで原発の中を見せる必要があるのか、廃炉現場を見せる必要があるのか。それは、これまで原発は、住民不在で動かされてきたからです。

廃炉まで、住民不在でいくのか。

福島に住む、あるいは避難生活を送っている当事者ですら、原発の中で何が起きているか知らない。1日に約7000人が廃炉作業で働いている巨大な現場であること、このうちの45%前後が福島県内の作業員であることも知らない。

結局、福島第一原発と住民との距離感は、事故前と変わっていないのです。

私や一緒に働いていた同僚は、原発は社会から預かっていると思っていました。しかし、実際は住民不在のまま「私たちの判断」で動かしていたんです。

本当に安全なのかという問題も、東電は「私たちが安全というから安全です」という態度で、町の人は「東電が安全と言うんだから任せよう」となっていました。

「信頼」ではなく「空気」で動かしてきた原発

それを「信頼」と呼んでいました。確かに信じてはいたでしょう、だから裏切られたという声が多い。「信頼」は、事故の歯止めにはつながりませんでした。

これは「信頼」ではなく「空気」でしょう。

本当に東電を信じて頼っているのではなく、空気を読んで「信じる」と言っているにすぎません。廃炉でも、それを続けていいのでしょうか。

事故が起きて、廃炉に大きな関心が集まっている以上、1Fは公的な場所です。一義的には東電のものかもしれません。しかし、だからといって私物化していいわけではない。

原発事故後も、廃炉について情報公開をしている、と東電は言います。確かにプレスリリースは膨大な量が公開されています。

しかし、情報を流すだけでなく、伝わるまでが情報公開だと思うんです。

どうやって読み解くか、果たして東電が言っていることはどこまで正しいのか。かたやメディアの批判はどこがあたっているのか。誰かがやらないといけない。

私ならできるかもしれないと思うようになりました。

「リスクの捉え方が、住民と技術者では違う」

地域の目、住民の目を入れないといけない。その理由は活動を始めた頃は、漠然としていました。今なら、はっきりと言葉にできます。

リスクの捉え方が、住民と技術者では違うからです。

技術者目線で安全なことが、住民の目から見ると違うことがある。考えてみれば当たり前です。技術者が「1はこれ、2はこれ、3は……」と優先順位をつけていることが、住民からすると「3が最優先で、1と2は後回しでもいい」かもしれないですよね。

どちらが正しいか、ではなくエンジニアが外部の目や声に反応することが大切だと思っています。他の意見に触れる。外部の声を聞くことです。

住民からすれば、意見が取り入れられること、結論に反映されることもより、ちゃんと聞いてもらえたという納得も大事になるのです。

「感情と向き合いながら、ベターなやり方を探っていく方法はあるはず」

いまで言えば汚染水、放射性トリチウムを含んだ水の問題がその典型でしょう。コスト、技術的に一番いいとされているのは、薄めて海へ放出することです。実際に、そういう方向で議論が進んでいる

海に流しても、環境への影響はほとんどないとされています。それに、継続的に1F沖の海洋調査をしている民間団体もありますから、なにか異常があれば彼らも声を上げることができます。

それでも、私も含めて地域に住む人で、これに諸手をあげて賛成する人は少ないと思います。これ以上、流すのはやめてくれと。やっぱり、どこかで嫌だという感情はある。

これは感情の問題だから、リスクの問題ではない。実際にリスクは少ないんだから流しましょうというのは、違うと思うのです。感情と向き合いながら、ベターなやり方を探っていく方法はあるはずです。

トリチウムを含んだ汚染水を海に流すのに賛成な住民もいるでしょうし、反対の住民もいる。将来、町への帰還を目指すなら、彼らの声を聞かないといけないでしょう。もっと、議論自体が開かれないといけない。

さっきも言いましたが、大切なのは合意形成の過程にあります。私は納得が必要だと思っています。「もう、これなら納得する」と思うまで議論を積み上げる必要がある。

住民とのコミュニケーションをとらないで、決定をしていいのか。これは、廃炉について国と東電に白紙委任をしていいのかという話につながります。住民不在の「信頼」でいいのか、という問題なのです。

「原発事故から何を学んだんですか。またブラックボックスにしていいのでしょうか」

もう一つ、住民の目にこだわる理由をあげます。津波を防げなかったことです。繰り返しになりますが、住民とエンジニアのリスクに対する考え方はまったく違います。でも、それはどちらがリスクをより正しく理解しているか、という問題とは無関係です。

私は原発について、現場も含めて知っているし、勉強してきたつもりです。でも、津波はまったく予想していなかった。

原発にリスクはあります。どんな発電方法だってリスクはある。だからこそ、自分たちだけではわからないことがある、という自覚が必要だと思うんです。

1Fで住民との意見交換をもっとやっていたら、と思います。住民の目がもっと入っていれば、それを設備改善に反映していたら、事故は防げたかもしれません。こんな声もでてきたんじゃないかと想像するのです。

「東電さんは安全っていうけど、津波は大丈夫か?防潮堤が必要じゃないか」

「もっと津波対策をしないと、いざというときにどうなるかわからないじゃないか」

当時から、技術者からみると十分な安全対策をしていたかもしれない。けれど、住民が納得するレベルではなかったとしたら……。なんらかの対処をしましょう、という話になったんじゃないか。これはもう想像ですけどね。

社会が納得しないなら、たとえ技術的には問題がなくても対策をしていこう、とならないといけないと思います。私たちは、原発事故から何を学んだんですか。またブラックボックスにしていいのでしょうか。

今年の4月、世界中の原子力関係者学者が集まった国際会議がありました。「第1回福島第一廃炉国際フォーラム」です。

私も登壇者としてゲストで呼ばれました。なんでかな、と思っていたら、口々にこう言われました。「廃炉を促進するには、ステークホルダーとの対話が必要だ」と。

簡単に言えば、住民参加なんですね。もっと廃炉に、住民を巻き込まないとダメだという話をしていました。

廃炉はこれから40年以上続きます。廃炉を支えるためには、3本の柱が必要です。

1本目は専門家を含め規制当局、2本目=真ん中に住民、3本目は東電。横同士で対話がもっと必要です。

お互いが何を考えているのか、どこの方向を向くのか。これを仕掛けないといけない。

何故なのか。40年以上も続くということは、次の世代に引き継ぐものだからです。原子力事故から始まった廃炉を、誰もが納得がいく形で進めていくことが必要なのです。

私の経験を、柱を横につなぐために生かさないといけないと思っています。それを繋いでいくことが健全な廃炉の促進へと繋がり、ひいては原子力事故被災地域の未来へと繋がっているからです。

廃炉現場を伝える。この「伝える」には、変わりゆく改善状況や、残り続ける課題、なによりも、そこには人がいて、汗をかきながら前に進んでいく思いを伝えることも含まれています。

東京電力と私たちとの関係は遠いままです。情報公開の在り方も、伝える相手が不在のままです。これでは、見せたいものだけ見せている、といった誤解も生みます。

廃炉を知る、住民が廃炉の進み方に対して意思決定を持てる機会を持つ、それが原子力事故を乗り越えるということにつながると思うのです。

私がAFWとして「民間の第三者」として、存在する意味は、ここにあります。

当事者として働いていたから、原発構内のどこに何があるかはわかるし、廃炉でどんな作業をしているのかも公開情報でわかります。

感情と向き合い、経験をもとにわかりやすくお伝えする。被災者であり、元社員である、私にしかできないことだと思います。

そんな思いも込めて、「福島第一原発廃炉図鑑」(太田出版)という本を出版しました。社会学者の開沼博さんを中心に、「いちえふ」を描いた漫画家の竜田一人さんたちと一緒にまとめた本です。

1Fの「内と外」を体形化し、次の世代のために、課題に向き合うための基礎本としてまとめるというコンセプトです。廃炉は東電だけの問題ではない。自分事として捉え、原子力事故を歴史として残すことが大切だと思っています。

もっとも、本は一つの通過点でしかありません。民間目線で、継続して調査をして、社会に伝えることが必要だです。そのための安定的な資金を確保するため、クラウドファウンディングも始めました。

浜通りの語り方、残し方

振り返ると、この18年間、人生の半分以上を過ごした浜通り(福島県沿岸部)は私にとってはもう「ふるさと」です。10代後半からここで過ごして、結婚もした。

ふるさとは震災前、原発に依存した町でした。そして、震災後も発電から廃炉に形は変えても、原発に依存した町になろうとしています。廃炉はビジネスになっています。短期的には、です。

でも、このビジネスは永続的なものではありません。なんといっても、自分たちの職場を無くすための仕事なのですから。本来の構図が変わらずでは「つないでいくふるさと」にはなりません。

この先、ふるさとはどうなっていくのでしょう。そのビジョンは誰も描けていません。いろんな力を借りて、私たちがアイディアを出さないといけないと思っています。

広島には修学旅行生が、いまもやってきますね。原爆が落ちて70年が過ぎても、多くの人が訪れる場所になっています。いまの廃炉現場だって、時間がたてば多くの人が訪れるような場所になるはずです。

歴史から学び、社会が教訓として活かしていく、そうした場所に代わっていく。それだけのことが、ここで起きています。

あまり知られていることではありませんが、すでに被災地域はそうした場所になりつつありますし、1Fでは視察もかなりの人数を受け入れています

将来的には、一部を残して原発事故の意味を、世界中に発信できるような拠点都市になることができるかもしれない。廃炉に関する技術を、世界中に発信できる場所になるかもしれない。

「ゴーストタウン」と呼ぶのは間違っている

浜通り一帯が、そういう象徴的な場所になる可能性はあります。

そして、廃炉の現場をみたら、地域の姿もみてもらったらいい。そこに生活があったはずなのに、人がいなくなる。土地から人がいなくなることのと意味、それが原発事故なんだということを知ってもらいたい。

大熊や双葉に入って「ゴーストタウン」と呼ぶ人がいます。私は間違っていると思う。捨てられた場所ではないのです。人が住んでいた場所であり、帰りを待っている場所である思うのです。

廃炉はずっと続きます。その場、その場で流されていては、いままでと変わりません。私たちは事故から学び、学んだことを次世代に渡していかないといけないのです。

他の電力会社や立地自治体の方は、どう考えているのでしょうね。いつまでも、原発がそこにある生活が続くわけじゃない。そのあとの世代に、ふるさとをどう引き継いでいきたいのだろう。

私たちのふるさとは、次の世代の人のふるさとでもあります。そうした思いを持って、原子力依存という形に疑問を持ち、それ以外の暮らし方も含めて考えることが出来たら。次の世代に引き渡すまでが、責任っていうんじゃないかなって思うんです。

課題に向き合い、廃炉と共に暮らすことの意味や意義、廃炉だけに頼らない生き方を探る。建設的に考え、自分も地域を担う一人である自覚をもっていかなくてはいけないと思っています。

この地域で暮らし続けて、自分が年を取った時、未来の子供達に「この町は原子力事故にあったんでしょ。当時何をしていたの?」と聞かれるときが来るかもしれない。

「こうしてみんなが笑えるように、みんなが頑張ったんだよ」

胸を張って答えたい。その為に出来ることを進めていきます。

吉川さんが投げかけたこと

吉川さんの半生をたどると、そこには電力会社が社会で果たしてきた役割が垣間見える。

茨城の田舎、それも貧しい家庭に生まれた男性を中学卒業から受け入れ、高卒の資格を与え、安定的な就職先を提供する。そして、地域の発電所に勤め、地元の女性と結婚して、地元で家庭を築く……。

彼は、原発事故を機に、それまでの道を離れ、現場と住民の中間で、模索していく道を選んだ。住民対東電・国という対立でもなく、原発と地域との共依存でもない道を探っているように思える。

答えは、彼一人が見つけるものではない。彼の半生が投げかける問いは、そのまま社会にかえってくる。

参院選投開票日の翌日、7月11日。東日本大震災から5年4ヶ月を迎える。