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【あの日から7年】大津波から子供を守った”奇跡の保育所長” 「美談」の裏で抱えた苦悩

街全体が壊滅的被害にあった宮城県名取市閖上地区。沿岸部にありながら、誰一人として死者を出さなかった保育所がある。閖上の奇跡、と呼ばれ「美談」の主役になった所長は7年間、人知れず苦しみを抱えていた。今、初めて明かされる苦悩の日々 と再出発。

自身の変化に気がついたのは東日本大震災から6年半が過ぎた、ある日のことだった。

自宅にいたとき、なんでもないときに頬を涙がつたった。あの日から、泣こう、泣こうと思っても泣けなかったのに、なぜか涙が止まらなかった。

別の日、家のテレビから聞こえたお笑い番組に、声をあげて笑っている自分に気がつく。

本当はすぐに泣いてしまい、子供たちと一緒になって笑う。あの日の前は、そんな保育士だったことを彼女は思い出した。

佐竹悦子さん(66歳)。

街全体が壊滅的な被害にあった宮城県名取市閖上地区で、海のすぐそばにあった市立閖上保育所で所長を務めていた。

54人の園児を迅速に避難させ、誰一人死者を出さなかった保育所は後に「閖上の奇跡」と呼ばれる。

だが「奇跡」の後、トップはたったひとり感情を押し殺し、恐怖も悲しみも、あの日の怒りも表に出せない日々を送っていた。

彼女が明かす、孤独の日々と再出発、そして7年という時間――。

閖上地区は東日本大震災の津波で住宅地が流出し、当時の住民約6000人のうち、750人超が亡くなった。実に名取市全体の死者の8割が集中した地区だ。

2011年3月11日、閖上保育所には1歳〜6歳まで54人の園児がいた。

海岸から約800メートル、漁港まではわずか260メートル、海抜は0メートル。海は身近なもので、園児たちの遊び場だった。

この保育所は佐竹さんの初任地にして、おそらく長い公務員生活の最後のポストとして所長を務めるはずだった。

最初と最後が同じ閖上保育所というのも、なんの因果かと思ったが濃くなった縁が嬉しかった。

生まれは名取市だったが、彼女が育った内陸部と海の方では言葉が微妙に違う。最初は海の言葉に慣れなかったが、子供たちや保護者、地域の人たちから教わって少しずつ馴染んでいったのだ。

この地域に長く勤めていた彼女は、こんな伝承を聞いていた。

「リアス式海岸ではない閖上には津波はこない」

とはいえ、何か起きれば、責任は自分が負わねばならない。保育士の責任とは何か。朝、預かった命を、夕方に保護者のもとにかえすことだ。

就任してから、津波を想定した避難訓練や避難計画の策定を進めていた。

どこの道路が渋滞するのか。子供たちがパニックにならない避難先はどこか。可能な限りシミュレーションをしていた。

だが、現実に起こった事態はシミュレーションを軽く超えていた。

午後2時46分、園児たちはお昼寝の時間で、ぐっすりと眠っていた。近くの公民館に外出していた佐竹さんは突然の大きな揺れに「これは大変なことが起きた」と思い、車に乗り込んだ。

地面が波打ち、アクセルを踏んでも車が動かなかった。

「津波が来るかもしれないのに、沿岸部に向かって車を走らせるなんて論外」と後から批判もされたが、この時、彼女が想定していたのは最悪の事態だった。

地震で保育所が倒壊していないか。逃げ遅れはないか。戻る、と決めてから行動は早かった。

園に戻ると、最悪の事態を免れたことは一目でわかった。園庭にブルーシートを敷き、パジャマ1枚で子供たちが固まっていたからだ。職員10人も外にいた。

園児と職員の目線は、戻った佐竹さんに一斉に注がれた。「所長先生、この後はどうするの?」と問われているように感じた。

最初の揺れから9分後の午後2時55分、佐竹さんは決断を下し、簡潔に3つの言葉で指示をだした。

1・逃げます

2・車を持ってきてください

3・小学校で会いましょう

避難先は園児もよく行っていた2キロ先の閖上小学校だ。ここは散歩の時間などで訪れ、園児にとっても馴染みがある場所だった。

発達障害がある園児もいたため、彼らが混乱しないよう、検証を繰り返し、マニュアルでも最初は閖上小に避難することを決めていた。

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職員の車に園児を分散させ、各車に子供を乗れるだけ乗せて、逃げた。

決して冷静ではなかった。災害用に備蓄していた防災グッズも持っていけなかった。車を取りに行くなかで、急いだためか靴が脱げた職員がいた。

職員は脱げた靴はそのままにして、急いで車に乗り込み、園に引き返してきた。避難の途中、佐竹さんの車も渋滞に巻き込まれかけた。道路を逆走する車もみた。

正常な状態ではない閖上の街を走りながら、ただただ恐怖だけが募った。

《もし、何もなかったら笑って帰ればいい。でも、なにか起きたら私たちは全員でさようならだと思っていました。

思い出したのは、閖上に親戚が住んでいた職員から聞いた話です。

その親戚は「引き波が怖い」と言っていたといいます。もしかしたら……という思いで精一杯走ったんです。》

午後3時20分、閖上小東昇降口に全員がたどり着いた。園児と職員の数があった一瞬だけ、安堵できた。しかし、安心できる時間は長く続かない。

全員一緒に3階建て校舎の屋上へ駆け上がった。

あの日の閖上は3月だというのに、とても寒く雪がちらついていた。このままでは寒さで病気になる子供がでるかもしれないと思ったが、津波はどこまで到達するかわからない。

リスクを天秤にかけて、屋上待機を決めた。

小学校に津波が到達したのは、彼女たちが到着していからわずか32分後、午後3時52分のことだった。ここでも死をはっきりと意識した。

屋上から見えたのは、車が押し流され、人も一緒に流されているという、およそ現実とは思えない光景だった。「助けて」と叫ぶ声が聞こえたが、手を伸ばしても届かないまま、人が流されていった。

津波の流れをみていると、3階までは届かなそうだと思った。ここで、命を預かる決断を迫られる。

寒さに耐えて屋上にとどまるか、津波が届かないことに賭けて3階に戻るか。

寒さに凍える園児の姿をみて、佐竹さんは3階に戻そうと決断した。

《みんなで生きるための決断ではありました。

でも、本当は万が一も考えていたんです。このままなら誰かが寒さで凍死するかもしれない。津波ならみんな一緒に死んでしまう。さぁどうする?と考えていました。

3階までは津波は到達しそうにない。でも、前の波を超える大きな波がきたらどうします?

そのとき3階まで到達しないなんて保証はなかったんです。情報もないなかで、私は決めるしかなかった。》

死を4度、意識した…

佐竹さんが懸念した事態は起きなかったが、別の危機が迫っていた。

午後4時10分ごろ、プロパンガスの爆発によって近隣で火災が発生したのだ。火の手は四方から迫る。死を覚悟したのは、この日4度目である。

地震、津波、凍死、火災――。わずか1時間20分のあいだに4度だ。

《火災は、もう覚悟を決めました。避難しようにも場所はもうない。どうやっても無理だろう。

せめて、子供たちに不安をあたえてはいけないようにしよう。それが精一杯でした。》

佐竹さんの記憶からはすっぽり抜け落ちているが、複数の職員がこのときの指示を記憶していた。

《私が「通常保育です」と職員に指示をした、と言っていました。

まったく記憶にないんですね。でも、職員たちは「だって、所長先生はそういいましたよ」と証言していました。》

危機の中、職員たちは視聴覚室で園児を円にし、平常時と同じように一緒に歌を歌い、お絵描きをした。

あのときの子供達の顔を思い出すと、佐竹さんは涙をこらえることができない。ティッシュを右手にもち、ごめんなさいね、と言いながら目をそっと拭う。

「私は鬼かって今でも思う……」と語り、彼女は涙をこぼした

《あの日の夜、みんなおとなしくていい子だったんだよって語ってきました。

本当にいい子だった。先生たちもニコニコ笑って「大丈夫だよ」って言ってたんです。でも、心の中では不安だったんですよね。

替えのオムツもなくて、ふと悲しい顔をする子供もいたんです。目がうつろで、泣きそうな顔になるときもあった。先生たちだって、怖かったはずです。

でも、私はあの日、怖いとか悲しいという言葉を口に出さずに「通常保育」を指示した。本当は恐怖をもっと受け止める方法もあったんじゃないかと思うんです。

私は鬼かっていまでも思います。もっと違う方法があったんじゃないか。いまでも、ひとりひとりの顔を思い出すと……。ごめんなさいね。》

このときの証言だけ、嗚咽が混じっていた。

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午後6時、あたりは闇につつまれ、自衛隊、報道のヘリコプターの音だけが響いていた。その頃、子供の口から「もっとも聞いてほしくない質問」が増えてきた。

「ママは?」

「必ず来るよ」と声をかけた。

確証なんてなかった。閖上小学校にたどり着いた保護者に引き渡すことができた子供もいたが、残る子供も当然ながらいた。

もし来なかったら……と思ったが、そんなことは顔にもだせない。

午後7時過ぎ、情報収集のため小学校の職員室など学校中を動き回っていた佐竹さんに「食料と飲み物の配布がある」という情報が入る。

子供たちがいるということは伝えてある。きっと災害で弱い立場におかれてしまう子供には優先的に配布があるだろう、と思って駆けつけたら、ほとんど無くなっていた。

ジュースが7缶にパンが7個――それがすべてだった。

子供たちの口には一口ずつしか入らなかったが、誰一人として不満を口にしなかった。

夜、冷え込んできてもストーブがある部屋は別の人たちが避難していて、子供たちは使えなかった。

途中、救援用の毛布が配布されていることも知ったが、職員室にいっても「もうありません」とあっさり言われただけだった。

毛布もなかった

「小さい子供がいる。ゆずってほしい」と食い下がり、学校中を駆けずり回り10枚分を確保した。重たい毛布だったが、階段を引きずりながら3階まで持ち運んだ。

その姿をみて、「先生、どうしたの」といって手伝ってくれたのは、保育所の近所に住む人たちだった。

彼らにも情報が行き渡っていなかったためか、毛布を持っていなかった。佐竹さんは7枚を地域の「ご近所さん」たちに渡し、残った3枚を子供たちのために持っていった。

この時点で残っていたのは、佐竹さんを含めて職員11人と園児19人だった。

なるべくまとまってほしいと円陣を組ませて、子供たちに毛布をかける。

午後8時にはカーテンを外して床に敷き「もう遅いから寝ようか」と声をかけながら、おやすみと言って子供たちを寝かした。

毛布があっても、無いよりは幾分ましという寒さだった。

外は、普段よりずっと明るかった。火災のためだ。ガスの爆発音もまだ聞こえていた。何もかもが普通と違う、空気が冷たく、辛い一晩だった。

それでも、この夜、子供たちは誰一人として泣くことはなかった。そして、夜は明ける。朝日はきれいに昇っていた。

どんな日であっても、朝はいつもと同じように普通にやってくる。

教室の外がざわついていたので、何があったのか聞いてみると、避難用のバスがくるという。

外にでるため、避難した大人たちは靴の上に黒いビニール袋を巻いていた。

職員室に行って、子供たちの分はあるかと聞くと、またしても「ここにはない」という。避難用のバスがやってくるなか、大人たちの避難が先に始まり、子供たちは後回しになった。

現場にあるのは、助け合いの美談だけではない。

未曽有の大災害である。誰もが一生懸命で、余裕を失っていることはわかる。

それでも、小さな子供たちのことをもう少し考えてもいいのではないかと、彼女は憤っていた。

ビニール袋もなんとかかき集め、靴の上から覆い被せて、バスに乗せる準備をした。やっと到着した避難用のバスに乗り込み、7キロ内陸にある小学校の体育館へ移動した。

途中、ショッピングモールの近くに津波で流された船があった。

「所長先生、お船も遊びにきたの」

「そうだね、お船もスーパーを見てみたかったのかもね」

二度と見せたくない光景だと思いながら、そんな会話も交わした。

そして震災から4日後、やっと最後の一人を保護者に引き渡した。迅速な避難で、一人の死者も出さなかった保育所での出来事は「閖上の奇跡」と呼ばれることになる。

涙がでない退所式

3月27日、避難所で退所式を開いた。

子供たちに「津波のせいでできなかった」と思ってほしくなかったからだ。津波はきても、これからの人生にできないことはない。

小さいけれど、そんな思いを込めた式だった。退所式というのは、いつだって感動するものだ。涙がでるのが当たり前である。

実際、保護者たちは涙をいっぱい流している。

普段は自分のほうが先に泣いているにもかかわらず、あの一晩を無事に過ごした子供たちの顔を見ているにも関わらず、佐竹さんは涙がでなかった。

思えば、彼女の精神はこのときから変調をきたしていた。

苦悩は「奇跡」の後から深まっていく。

保育所長としての任務を終えた後は、「公務員」として避難所での仕事がまっていた。

佐竹さん自身、親族を津波で亡くしていた。それも、かつて自分が保育所の一職員として関わったことがある身体障害をもった親族とその親だった。

喪失に向き合う時間も満足にとれないまま、優先すべき仕事が押し寄せてくる。

職員全員の車が流出していたが、近所の人がディーゼル車を1台借すと申し出てくれた。

ローテーションを組み、佐竹さん自身がハンドルを握って一人一人、家庭に送り届け、現段階の状況や今後の見通しを説明した。

職員を交代で休めるようにシフトを組み上げ、避難所での仕事をこなしていった。それなりに冷静にこなしているつもりだったが、余裕はなかった。

勤務時間中に、一息ついている職員に「こんなときなのに、あなたたちは私が見ていないとサボるのか」と声をあげたこともあった。

避難所での仕事に加えて、管理職の仕事もある。あの日、何が起きていたのか。振り返りもしないといけない。

自然と「3・11を経験した所長先生」として振舞っていた。

「奇跡」という言葉に反発していた

市役所内であの日起きたことを聞かれても、「当たり前のことをしただけです」と答えていた。「奇跡」という言葉にも反発を覚えていた。

事前に準備していたことがあったにも関わらず、「偶然」だと言われているように思えたからだ。どうして、周囲はわかってくれないのか。苛立ちは募る一方だった。

一職員にはない重圧が管理職にはある。自分の感情を共有できる相手はいなかった。

「あなたを恨んでいた」

それでも、こんな出来事があった。

震災から1年が迎えようという時期に、あの日起きたこと、自分が感じた憤りについて閖上小学校の校長と1対1で話せる機会があった。

間借りしている校舎内にある倉庫のような部屋が校長室だった。そこで向き合い「親に会えない子供たちに、あまりにも配慮が足りなかったのではないか。私はあなたを恨んでいた」と率直に怒りをぶつけた。

校長と所長、あの場所にいたトップ同士の苦労はわかっていた。だからこそ、自分の意見を口にできた。

校長は悲しそうな表情を浮かべながら、配慮が足りなかったことを悔いていたと語った。定年が間近に迫っていた、佐竹さんは「1回だけ言いたかった」と言って、小学校を後にした。

溜め込んだ怒りや苛立ちをほんの少しだけ吐き出せた時間だった。

「泣けない」ことに気がつく

時期を前後して、泣けない自分にはじめて気がつく。泣こうと思っても泣けない。親族のことを思っても、閖上の子供たちのことを思ってもどうしても涙がでない。

宮城県の支援にあたっていた精神科医に打ち明けると「それはPTSDだ」と指摘された。医師は続けて、こんな言葉をかけてくれた。

「先生、あれだけ特殊な経験をしたんです。何も起きないほうがおかしいですよ」

そうか、自分の精神は限界なんだと妙に納得できた。この後、彼女は2度の「引きこもり」を経験する。

1度目は2013年だった。体調を崩してしまい、家で静養していた。ところが体調は回復したのに、外にでる気力がなくなった。

外にでること、イベントが何より好きだったはずなのに、理由をつけて、すべての依頼や誘いを断り、家の中でも寝巻きから着替えないまま1日が過ぎていく。そんな日々が半年ちょっと続いた。

市役所の仲間が用意してくれた旅行を機に少しずつ日常を取り戻すことができたが、自分の精神が危うくなっていることを痛感した。

2度目は2015年の春だった。

1度目の引きこもりから「社会復帰」し、引き受けた幼稚園の園長業務をこの年の3月まで受け持っていた。

怒涛の日々だった。

震災の経験を活かさねばならないと、防災の専門家を招き避難計画を作成した。近くを流れる川が気になって、安心できないとマニュアルを練り直した。

心は一気に疲弊した。任期が終わってから、また気が抜けたように家にいる時間が長くなっていったのだった。

佐竹さんは震災について「事実」は話せるが、「思い」をうまく言葉にできない時期を過ごしていく。

人知れず、苦悩が深まるなかで転機と言える出来事がいくつかあった。ひとつは2016年12月に65歳の誕生日を迎えたことだ。

「65歳」はがんで闘病生活を送っていた父が亡くなった年齢だった。

その時に思い出したことがある。少年兵だった父は、闘病生活のなかで何度も幻覚をみていた。

語り出すのは決まってマニラの戦場だった。父は戦争の幻覚にうなされていた。あるときはジャングルの中を歩き、あるときは小舟に乗って逃げていた。

悦子、という名前は戦場にあった病院で、父が出会った従軍看護婦からとられた名前だ。「人に役立つ子供であってほしい」という願いが込められている。

うなされる父に、佐竹さんは問いかけた。「私は人の役に立ってますか?」

父は幻覚のなかで「まだまだです」とだけ言った。

65歳、いつもなら家族とにぎやかに過ごす誕生日だが、この日ばかりは自宅の一室で一人、亡くなった両親の遺影に誓いを立てる日にした。

心のなかで問う。

「お父さん、私は人の役に立っていますか?」

誓ったのは、これからも社会の役に立てる人になります、というものだった。

言葉にすると、張り詰めていた気持ちがすっと軽くなった。

あの日の園児は中学生に…運動会で感じた感動と恐怖

もうひとつの出来事は昨年(2017年)、あの年から初めて成長した「園児」たちの姿を運動会でみたことだ。大きい子供は中学生になっている。

彼らは「所長先生」を見つけて軽口を叩く。

「先生、縮んだんじゃねぇ?」

「やかましい(笑)。お前らが成長したんだ」

そんな会話ができることが嬉しいと思ったが、心に浮かぶ感情は喜びだけではない。あの日、あの夜を思い出し、恐怖を感じてしまうのだ。

あの日、命を守ろうとしただけでなく、子供たちの死を何度も覚悟していた自分がここにいていいのだろうか?

もし、自分の決断がひとつ間違っていたら、この場に笑顔でいられただろうか?

もし、公民館から戻っていなかったら…。もし、あと一歩遅れて渋滞に巻き込まれていたら…。もし、津波が3階まで到達していたら…。

あの日、迫られた決断を問い直す自分がいた。

佐竹さんは防災をテーマに自治体から講演を頼まれることが多い。

体験談を通して、災害時の危機管理や備えについて伝えたいと思って話していても、よく届く感想は「トップの決断が良かったんですね」というものだ。

本当にそうなのだろうか、と彼女は思う。

私は美談の主役じゃない

《私はトップの決断で決まるというのは、怖いことだと思っているんです。

確かに決めないといけない場面はあった。でも、振り返ってみて、本当に良かったかどうかは、後からの結果論でしかわからない。

事前に準備はしていた。でも、準備しきれていない想定外のことしかなかった。

奇跡は偶然では起きないと言ってきましたが、もし……という思いは捨てきれないんです。

あの日、職員は言ってました。「所長は助けにくると思っていた」って。

私がやったのは、津波の避難でやってはいけないと言われている海の方に戻るという行為なんですね。

もし、私が津波のときに「正しい」とされる行動をとっていたら……。

先生たちは逃げたのかと考えしまう。彼らなら逃げたに違いない、と信じています。

でも、所長として自分がいないときに何かが起きるという想定もしておくべきだった。

トップも人間だから、至らないことだってたくさんある。私だって……。

「トップの決断」は美談になってしまうけど、私は美談の主役じゃないですよね。》

彼女にとって酷な事実もある。

かつての部下と連絡を取り合う中で、実はあの日から、元閖上保育所の職員は誰一人として閖上地区に足を踏み入れていないということがわかった。

トップの行動が、彼らの心にも深い、深い傷を負わせたのではないか。

所長が涙を流さないから、職員も涙を流せなかったのではないか。3月27日の卒園式はもっと泣いてもよかったのではないか。

6年半を過ぎても、自分を責めるように問うてしまう。後悔ともし…を考えると、恐怖から涙がこぼれ落ちてくる。

あれほど泣こう、泣こうと思っても泣けなかった自分が泣いている。あの日、自分も辛く、怖かったという感情が溢れてきた。

それは、長く押し殺していた感情とようやく向き合うことができた、転機の涙なのかもしれない。

《私は孤独だった。あの一晩が怖かったことも、その後が辛かったことも口に出せなかった。》

家に仕事の話は持ち込まない。同僚の前で愚痴はこぼさない。

そう徹底した結果、自分の感情を抑えつけてきた。それがやっと言葉にできるようになり、感情にもあらわれてくるようになった。

彼女が活動している防災教育の市民団体「ゆりあげかもめ」。

彼らが作った「『あの日』あったことを忘れないようにしましょう」と呼びかけるメッセージのなかにこんな言葉がある。

何を忘れてはいけないのか。地震のこと、津波のこと、大切なたくさんの人が亡くなったこと……。

《そのあとに「生きていくのがとっても辛かったこと」「でも前にふみだしたこと」という言葉をいれたんです。私の経験や思いも込めて。

辛いけど、私たちは前に一歩、一歩踏み出すことができたと思っているんです。》

踏み出す一歩

新しい一歩は2018年の春に刻まれる。佐竹さんはまた現場に戻る。

仙台市内に開設する新しい保育園のトップに立つのだ。長年やりたいと思っていた、障害児教育に取り組む保育園である。

思い出すのは、あの日の津波で亡くなった親族のことだ。半身マヒがあっても、彼は「できない」と言わなかった。

たとえば、運動会でも他の子供と同じようにリレーに参加すると言ったら、最後まで意志を貫いた。

担任ではなかったが、同じ保育園で働いていた佐竹さんは、彼が意志を貫くことで、同僚の保育士たちの考え方の幅が広がったと思っている。

それはダメだ、と否定したり、排除することはしない。

彼の担任の保育士は、代わりに距離を短くするなどルールを作って、他の子供たちも巻き込んで楽しめるリレーにした。

父が亡くなった65歳から、1つ年を重ねた66歳の春、彼女もまた悲しみ、孤独と向き合いながら、前に新しい一歩を踏み出そうとしている。

《本当に辛い時は、泣くことも笑うこともできない。いまは泣くこともできるし、笑うこともできる。それはちょっと嬉しいことなんです。》

悩みも、孤独も、悲しみも、恐怖も、喜びも……。時間をじっくりかけて、いろんな感情が同時に存在する自分をまずは一回、受け入れる。

彼女の顔に浮かんでいたのは、はにかんだ笑顔だった。泣くことと同時に取り戻しつつある、自分の「未来」を楽しめる。そんな気持ちが込もった表情である。

バズフィード・ジャパン ニュース記者

Satoru Ishidoに連絡する メールアドレス:Satoru.Ishido@buzzfeed.com.

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