「障害者を『見世物』」にしてはダメ? 東ちづるさんの深い思い

    女優、東ちづるさん。障害を持った表現者と一緒に最高の舞台=エンターテインメントを目指す。

    女優、東ちづるさんが、障害を持った表現者と一緒に舞台演劇を作り上げようとしている。

    「障害を見世物にするのか」。こんな批判にも「はい、上質の見世物にしていこうと思っています」と答える。その真意とは?

    突き抜けた個性と目指すまぜこぜエンタメ

    この日、フジテレビの楽屋でバラエティ番組の収録を終えたばかりの東さんは、見本ができたばかりのフライヤーをじっと見つめていた。

    自身が理事長を務める一般社団法人「Get in touch」が手がける、演劇プロジェクト「月夜のからくりハウス」のものだ。

    12月10日に上演が迫っている。出演するのは、いずれも「突き抜けた個性」を持った人たち。小人プロレス、車椅子のダンサー、全盲の落語家……。

    東さんの言葉でいう「まぜこぜ社会」を実践するプロジェクトである。

    「とにかく、いろんな人を巻き込んで、最高の見世物、エンターテインメントの舞台にしたいと思うんです。そしたら意外と費用がかかっちゃった(笑)」

    「だから、クラウドファウンディングでも資金集めをします」

    ここは実務家の顔である。日本の芸能界でここまで行動しようとする人はそんなにいないのでは。

    そんな話をすると、東さんの表情は一転、悪戯っぽい笑みを浮かべて、こう切り返してきた。

    「でも、世界からみれば普通ですよ。外国に行ったら、あなたは女優としてどんな活動をやっているの?って聞かれますからね」

    障害者と一緒になって活動することが「良いことをやっている」と思われる。そんな風潮自体に違和感があるのだ、と続ける。

    きれいな言葉でわかった気になるのはよくない

    《「障害者」の話をすると、途端に「良いこと」になってしまうんですよね。

    つながり、寄り添う、絆——。きれいな言葉で光ばっかりみようとする。

    でも、それって違うと思うんです。現実は、つながりはきつくてしんどいし、深く付き合うことを求められると負担になる。

    私の活動は浅く、広く、ゆるく「依存しあう」社会を目指すこと。いろんな人がなりたい自分でいられること。家族と福祉以外の場所を作ること。

    みんなで、薄く依存しあえる関係を作ろうって言ってきたんです。

    「健常者」って言葉があるけど、常に健やかな人なんているわけない。

    私だって、いざ、なにか起これば弱い立場になることもある。そんなときに依存できる先が少ない社会って嫌だなって思うんですよ。

    一番よくないのは、きれいな言葉でわかった気になることですよね。

    学校の講演でも、障害者についてみんながわかり合う、仲良く支え合うなんていうのはありえないと必ず言います。

    どんな人だって、100%善人はいませんから、嫌いな人はいるでしょう、と。そこで大事なのは、存在を認めることで、排除さえしなければいい。

    嫌いなら、無理に好きにならずに距離を置いて、なるべく関わらないようにすればいいんです。

    障害者を「正しい知識」で「正しい理解」を、なんていうのも無理だと言います。障害者って言葉でひとくくりにまとめても、一人一人、まったく違う。

    例えば自閉症の家族同士でも、100人いたら100人に「正しさ」が違うわけです。

    知識や理解があれば、分かり合えると思うことのほうが危険です。》

    「正しい理解」よりわかろうとすること

    東さん自身、骨髄バンクの啓発に関わり、そこから経験を積み上げていった。

    いまは支援という言葉も使わないのだ、と話す。支援する側とされる側に線を引く言葉になってしまうからだ。

    《あくまで活動は対等で、障害についてもわからないことはわからないと言う。

    今までも重度の障害をもった人に「結局のところ、ちづるさんにはわからないでしょ」って言われてきました。

    昔は「ごめんなさい」って謝ってきたけど、いまは「わかりません」って堂々と言います。

    そして「でも、わかろうとしています。私もあなたに言われたことに傷ついた。お互いわからないもの同士、わかろうとすることが大事じゃない?」って言うんです。

    支援といえば、最近、「支援をさせていただく」という言葉もよく聞くんです。これもきれいだけど、私はずるい言い方だなって思ってしまう。

    活動は自分がやりたいからやる、というのが一番大事だと思うんです。

    「やりたいから、やる」で、なんでいけないんだろう。》

    相模原の事件について言葉にしたいこと

    東さんはふっと息をつき、お茶に手を伸ばす。

    「誰も排除をしない、されない」を活動のコンセプトとして語る東さんに、相模原事件とその後の社会をどう見ているのかと聞いた。

    一息いれて、これはやっぱり言葉にしておきたい、と語り出す。ぐっと真剣な表情にーー。

    あなたは社会の役に立つために生まれた?

    《私、あの事件について社会はもっと熱をもって怒るかと思っていたんです。

    でも、もう風化してしまっている。

    「障害者は役に立たない、いなくなればいい」という加害者の供述が報道されましたよね。

    怒りが見えないのは、この言葉に「わからないでもないな」と思った人が多かったからじゃないかって考えています。

    ある重度障害者のお母さんからも、事件の後に「私の子供も社会の役に立っていない。税金を使われる立場だから」って話を聞きました。言葉に追い詰められているんです。

    私は「じゃあ、お母さんは社会の役に立っているんですか?」と聞き返しました。みんな、社会の役に立つために生まれたわけじゃないですよねって。》

    障害者が見えないことになっている

    《話が逆になっているんですよ。

    みんなが社会の役に立てではなくて、「人の役に立つ社会であれ」でしょ。

    社会が私たちにとって役立つ存在であることが大事で、そういう社会を作るのは私たち。そのために税金を払っているわけですよね。

    「障害者は税金を使っている。社会の役に立たない」と思う人たちは、一生、自分は税金を使われないで、強者として生きられると思っているのでしょうか?

    いつ、どんなことが起きてもおかしくないのに?

    これは無自覚な優生思想です。

    まぜこぜ、まぜこぜって言ってきたのは、この社会には、明らかな分断があるからなんです。

    障害を持った子供、家族は社会との関わりが弱くなった人がいる。その一方で、無自覚な優生思想もある。

    結局、障害者が見えないことになっているんです。だから想像力が働かない言葉が広がる。そして、追い詰められる人もでてくる。》

    障害者の絵に優劣をつけるのはかわいそう?

    まぜこぜは大切なのだ、と語る。でも、言葉以上に大事なのは伝える方法だ。

    《障害者の表現活動って、福祉のための表現活動になりがちなんです。

    弱い立場の人が一生懸命やる、「健常者」にはできない素晴らしい表現がある。

    だから、みんなが素晴らしいから優劣をつけないでもっと賞賛しよう—こんな風に語られがちです。

    これは、私は優しい考え方だけど、ちょっと違うなって思うんです。

    私は、障害者アートのコンテストもやっているんです。

    始めたときに言われたのが「障害者の絵に優劣をつけたらかわいそうだ。競争で落とされたらかわいそうだ」という批判でした。

    それは違う、と言いました。あくまで作品に優劣をつけるのであって、人格に優劣をつけるわけでないのだ、と。

    私がいる芸能の世界で言えば、ある役のオーディションがあるとします。それに落とされたとしても、私という人格を否定されたわけではない。

    その役にあわなかったというだけです。

    同じように「作品」を審査するのであって、人を審査するわけでない。アートとして良い作品を正当に評価する場所をつくりたい、と言いました。

    障害者を競争させるのか、という批判には、ではパラリンピックはなんですか?と聞きたいんです。

    良い作品はアートして、表現として素晴らしいよねって私は言いたい。障害があるのに、頑張ったから素晴らしいんじゃない。

    だって、アーティストに「あなたの作品は頑張ったから素晴らしい」って言わないですよね。》

    障害者を見世物にするのか!

    「障害者」の語られかたは、どこか固定化されている。

    舞台に障害者をあげようとする。そうすると必ずと言っていいほど「障害を見世物にするのか」という批判がでてくる。

    あくまでエンタメ路線を突き詰めることにこだわる東さんはどう答えるのか。

    配慮はいらない。目指すは最高の見世物

    《「見世物にしようと思っています。それも最高の見世物にしたい」と答えますね。

    大事なことは、障害者のすべての人が豊かな表現ができるわけではなく、そして、障害者全員が豊かな表現を目指すべきでもないということです。

    豊かな表現ができるのに、福祉・教育か、チャリティーのテレビ番組しか出られない表現者がいっぱいいます。

    私が子供のときにあった小人プロレスの中継だって、いつの間にか「障害者を笑い者にするな。かわいそうだ」という声に押されて、画面から消えてしまった。

    ある小人の役者は「生まれ変わったら、もっと小さくなりたい」と言います。

    障害があるダンサーの女性が街を歩いていて、親子連れとすれ違ったとき、子供は興味を持ってじっと見てくる。

    彼女は「子供が興味を持ってくれている」と思って、ニコッと笑う。そうすると、お母さんが子供に「見ちゃダメ」と言う。

    彼女は見られたことがチャンスだと思ったのに、お母さんの一言で、彼女は街の中からいないことになってしまうんですよね。

    自分の身体に誇りを持って表現している人がいる。

    彼らが「私たちはかわいそうだから見ないでほしい」と言っているんでしょうか?そんなこと言ってないんですよ。

    自身の身体の特徴をアドバンテージにして、日々、努力を重ねて、もっとエンタメの世界に出たいって人はたくさんいる。

    でも機会もないし、メディアからは妙な配慮ばかりされているんですよね。

    私はエンタメの世界は基本的に見世物だと思っています。見てもらうことで成立する世界だから。

    リアルな社会には、障害を持った人もいっぱいいる。

    それなのに、テレビの画面にはいない。映画にも舞台の上にもいないんですよ。

    彼らの表現は素晴らしいのに。だから、私は舞台を用意するんです。そこで目指すのは、最高のエンタメです。》

    無駄なことほどおもしろい

    出てみたい、挑戦したいという人がいるのに、舞台がない。ならば、作ればいいーー。

    いろんな人が舞台にあがる。彼らのエンタメを通して見えてくるのは、社会の多様さであり、豊かさだったりするのかもしれない。

    このプロジェクトに「弱者」はいない。

    《舞台もアートも社会の役に立たない無駄なことかもしれません。でも、無駄なことほど、おもしろいんです。》

    そう言って、微笑む。その顔は最初と同じ。やっぱり悪戯っぽい笑顔だった。