20歳「夢もやる気もない若者」が20年後、世界注目のデザイナーに 何が彼女を変えたのか?

    海外からも注目される靴下ブランド「Ayamé」。日本製の高い技術、独創的なデザインでビジネスを展開する。気鋭のデザイナーが語るクリエイションとビジネス論。

    「私、20歳のころはガッツもないし、やる気もない。将来のことすら考えていない、でも、親のすねはかじる。そんなどうしようないやつだった」と彼女は笑った。

    阿賀岡恵さん。東京生まれ、今年で40歳を迎える靴下デザイナーである。

    代々木公園のすぐ近くに、彼女が2007年に立ち上げたブランド「Ayamé」(アヤメ)のオフィスがある。

    社員は現在、自分一人。「社長」がデザインから、仕入れ、注文まですべてをこなす。

    規模は小さいが彼女は、ここ最近のアパレル業界でちょっとした注目を集めるデザイナーである。理由は日本製の技術とデザインの質の両立、そしてビジネスの方法にある。

    ポップな色、繊細な技術で世界に打って出る

    デザインは一目見てそれとわかる緻密に計算された編み方と、ポップな多色使いが特徴だ。

    女性ものと男性もので色使いは多少変えてはいるが、基本は同じだ。

    つまり、男性用の靴下にも通常はあまり見かけない、赤や水色、ピンク、ターコイズブルーといった鮮烈な色を幾何学的に編み込んだ商品が並ぶ。

    国内靴下の一大産地である奈良県の工場に足を運び、デザインを形にする。靴下の先端部分は手縫いで仕上げている。

    靴下の質は例えば、ふくらはぎの締め付けにあらわれる。

    質が高くない靴下は、強く締め付けられるか、数回の洗濯で締め付けが弱くなってしまう。素材も耐久性がなく、穴も空くのが早い。それではお客は離れてしまう。

    個性的なデザインである以上、品質も担保されていて然るべきである、と彼女は考えている。

    かかとをしっかりと包み込み、ふくらはぎは甘めに、しかし、ずり落ちることがないように。可能にするのは技術だ。

    何より大事なのは「デザイナーと技術をもった職人が一緒に生み出すこと」だという。

    勝負は海外市場

    ビジネス面で注目されたのは、早々に海外市場で勝負を試みたことだった。

    海外の展示会に出展したとき、連絡を取ってきたセールスエージェントがビジネスパートナーになり、ロンドンに拠点ができた。

    彼は阿賀岡さんの靴下に惚れ込み、熱心な売り込みをはじめてくれた。ロンドンの有名な百貨店やセレクトショップに行けば、どこかにアヤメの靴下が並んでいる。

    気がつけば、売り上げの3割前後は海外からあがるようになっていた。

    彼女が起業してからの10年、アパレルはとにかく冷え込んだ。業界全体が停滞し、消費は伸びない。その中で靴下というアイテム一本で、しかも尖っていて、個性的なデザインで勝負し、海外に販路を拡大した。

    一体なぜ?と業界が注目したというわけだ。

    偶然の連続

    彼女自身、最初から靴下で勝負をしようと思っていたわけではない。

    20歳でなんの夢も目標もなかった女性が、ある意味で時代の先端にいる社長兼デザイナーになったのは、まったく偶然の連続としか言いようがないものだった。

    そもそもの発端は20歳のころ、なんとなくファッション系の専門学校に入学したことにあった。とりあえず、社会にでるまでの猶予期間がほしい。そんな気持ちが強かった。

    たまたま求人があった「福助」

    卒業を前に、これもたまたま求人がでていた靴下の大手メーカー「福助」にデザイナーとして就職する。

    企業の社員デザイナーとして品質管理やコスト感覚を身につけるよう言われ、広く市場で売れるもの、手に取りやすいものを意識するようになる。

    「なんで、お前たちが作ったものは売れないんだ。もっと面白いものを作れ」というバブル時代の名残のような上司もいたが、彼女はどこか冷めた目で見ていた。

    景気がよく、戦略がなくてもモノが売れていく。そんな時代ではないことを、肌感覚で知っていたからだ。

    そして、入社して2年も経たないうちに「福助」は経営が傾き倒産してしまう。これが彼女にとっての転機となった。

    間近でみた「経営再建」

    経営陣は入れ替わり、再建を託されたのは伊勢丹の名バイヤーとして知られた藤巻幸夫(2014年に死去)だった。

    彼のもとで、新生「福助」として再出発をする。

    彼女は藤巻直轄チームのメンバーとして、経営再建の様子を間近でみることになった。藤巻はチーム最若手で、元気のよかった彼女に目をかけ、彼女は藤巻からビジネスのおもしろさを学んだ。

    その後、直轄チームから子供向けの商品の部署に異動したところで、会社員生活を終える。

    このまま会社員生活を続けていても、自分が本当におもしろいと思えることには出会えそうにないと思ったのだ。

    靴下業界の様子、ビジネスの基本は十分に学べた。具体的な計画はなかったが、次は自分が独立してビジネスをやろうと決めた。

    なにを始めるにしても、国内だけでは需要も限界がある。だったら、海外で勝負ができるよう英語を身につけることが必須だ。しかし、留学までするお金はない。

    ワーキングホリデーをつかってロンドンに行けばいい。まずは環境を変えて、向こうに渡りさえすれば、なんとかなるだろうと思っていたのだが……。

    ロンドンで直面した「現実」

    現実は甘くない。待っていたのは、何にもできない自分の姿だった。

    ビザをとる書類も友人に手伝ってもらった。藤巻のツテを使って、ロンドンにある会社を見学するも、ろくに言葉も話せない日本人を雇うような人はどこにもおらず、プランは早々に挫折した。

    貯金もあっという間に底を尽き、仕事どころか、1年程度の滞在では言葉もろく身に付かないまま、帰国することになった。

    何もできないまま、29歳になっていた。

    帰国してから、彼女は実家暮らしに戻り、バイトに明け暮れることになった。親に「家賃」を支払い、もう一度ロンドンに向かうのだとお金を貯めた。

    とりあえずの目標としていた60万円まで貯めたところで、彼女はふと立ち止まって考えた。

    60万円で「業界の常識」に挑む

    一体、自分は何がしたいのだろう。この状態で、ロンドンに戻って何が身につくというのだろうか。60万円は往復の飛行機代やら初期費用で消えていく。

    ちらつくのは、ロンドンに集っていた、ファッションを学ぶ留学生たちの姿だ。彼らは自分より若いのに、当たり前のようにブランドを立ち上げると自信満々に語っていた。

    やりたかったのは自分のデザインでビジネスをやることではなかったのか。

    企業デザイナーの頃から、ポップな色の靴下を世に送り出してみたいと思っていた。

    「靴下に派手さはいらない」という業界の常識とは違う視点で勝負をしたい、と力を身につけてきたのではなかったのか。

    問えば問うほど、もう一度ロンドンに飛ぶという選択肢は消えていった。

    起業へ、勝負の30歳

    2007年、30歳を前に決断をする。この60万円を元手に、東京でブランドを立ち上げる。無謀だと諌める母親を、「もし、ダメならもう一度会社員として働く」と言って説得した。

    いい年になって何をしているのかと思ったが、なり振り構ってはいられない。

    夜行バスに飛び乗り、企業デザイナー時代からツテのあった工場に頼み込み、商品のサンプルを作ってもらうようお願いに回った。

    ブランド名は「Ayamé」と決まった。喫茶店でお茶を飲みながら、学生時代の親友が「10秒で決めてくれた」ものだ。

    幼少期からのあだ名だった。どことなく、かわいらしさがあり、海外でも通用しそうな響きに感じられた。

    バイトの合間、スーツケースに詰めこんで……

    同じように前職のツテをたどり、バイヤーに案内状を送り、とにかく売り込みをかけた。初めての展示会で取れた契約は18件。その中には、国内大手のセレクトショップの名前もあった。

    展示会以外でも「商品を見たい」と連絡が入れば、当時並行して続けていたバイトの合間を縫って、靴下を安物の黒いスーツケースに詰め込み、都内を駆け回った。

    予想外にまとまった契約を得て、彼女は初めて自分に追い風が吹いていることを感じた。

    手応えと同時に勝算も感じ取っていた。1年のうちで靴下を履かない、という人はほとんどいない。靴とセットで日常に溶け込んだ商品である。一定の需要は常に存在する。

    価格に込めたメッセージ

    重要だったのが価格だ。

    百貨店やセレクトショップで靴下の棚でみれば1000円前後の商品から始まり、海外ブランドの輸入物は3000円前後である。アヤメは2000円台中盤という価格にした。

    彼女の言葉を借りれば、アヤメの靴下は「新しい編み地の研究発表のようなもの」である。

    いい素材を選んでいるという自負もあったし、どこにもない新しく複雑なデザインと技術で勝負しているという気概もあった。

    他と差別化できて、技術力とデザインに見合った対価というメッセージも発している、絶妙な価格設定が功を奏した。

    そして10年……

    そして、10年である。

    黒のスーツケースはドイツ製のものに買い換え、実家暮らしも終えて、挫折を経験したロンドンは「ビジネスの拠点」に変わった。

    2017年秋、10周年を記念して表参道に期間限定のショップを出した。ショップ内に並んだコメントが、この間の歩みの全てをあらわしていた。

    一流たちの賞賛

    ロンドンで活躍するスタイリストは「並みのものとはわけが違う。二度と他の靴下ブランドは着たくない」と賛美を送り、イギリスを代表する有名デザイナーは「君のデザインが大好きだ」と直筆のメッセージを寄せた。

    海外にいけば「日本らしい繊細な編み方」に感嘆の声があがり、日本で販売すれば「海外ブランドに通じる色使い」が注目された。

    つまり、と彼女は考える。「いま自分は誰もやっていない、どこにも無いものを作っている」

    商品で一流たちを認めさせたという事実がある。20年前に何の夢もなかった女性は、39歳の秋に大きな到達点に達したと思ったのだった。

    「でも、まだまだ途中なんです」と彼女は語る。

    「どうして?」と私は尋ねた。

    「私たちの世代は、アパレルで大成功ができるという物語は最初から用意されていなかった。ただ好きなだけなら続けられない。新しい成功のモデルは自分でつくらないといけないのです」

    「成功のモデルってなんですか」

    「素晴らしいものを作っているだけではビジネスは成立しない。かといって、売れそうなものを作ったところで、流行はすぐに変わっていく。大事なのは、自分が本当に楽しいと思えるものを作っていくことです」

    崩れた成功の法則、だから問われているのは……

    年を追うごとに、商品を店に卸していくだけではビジネスも成立しなくなってきた。

    例えば、これまで出展していたパリやニューヨークの大型展示会に出展しても、来場者は年々減少し、バイヤーもろくにやってこない。

    つまり、約2週間の時間を割いてもビジネスにつながらない。「ここに出展すれば、次につながる」と言われた常識はとうに壊れているのだ。

    ましてや国内で聞こえてくるのは冷え込みばかり。

    その中で問われているのは、結局のところ「好きなものを貫くクリエイションと、それを届けるビジネス」をどの次元で両立させるのか、だと思っている。

    「だから」と彼女は続ける。

    「自分で販路を確保するためにオンラインショップをグローバルに充実させていくのは当然として、表参道でやってみた路面店も、海外でもできたらいいなぁと思ったんです。たまたま通った人がふらっと入ってきて、何にも知らないけど買っていくのっていいなぁって」

    ちょうど、いまのオフィスには余っているスペースがある。

    駅近くの商店街の一角でもある。そこを改装すれば……。小売店に任せっぱなしにするのではなく、自分がやってみることもできる。

    「自分一人、独立してやっていこうと思えば、新しいことはできる。そう思うんです」

    そう力強く言い切った彼女の顔には、この10年で積み上げた自信、そして次の10年に向けた期待を感じさせる——そんな微笑みが浮かんでいた。