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「奇跡は『偶然』ではおきない」 園児を津波から救った保育所長が伝えたこと

「次の災害は近づいている」。

それは奇跡だったのか?

宮城県沿岸部にある名取市閖上地区。東日本大震災の津波により、住宅地が流出し、当時の住民約6000人のうち、753人が亡くなった。その閖上地区で園児54人全員を避難させ、一人の犠牲者も出さなかった保育所がある。名取市立閖上保育所だ。のちに「閖上の奇跡」と呼ばれるようになったが、当時の所長、佐竹悦子さんは「奇跡は偶然では起きない」と話す。なぜ、閖上保育所は助かったのか。

佐竹さんは2016年3月11日、東京にいた。杉並区の防災イベントの講演に招かれたためだ。震災から5年を迎えた日に、佐竹さんは教訓を静かに語り始めた。

3月11日 園児54人をどう避難させるか

2011年3月11日。閖上保育所には、この日、1歳〜6歳まで54人の園児がいた。

海岸から800メートル、漁港まではわずか260メートル、海抜0メートル。船は身近なもので、海は園児たちの遊び場だった。

午後2時46分、園児たちのお昼寝の時間だった。近くの公民館に外出していた佐竹さんは突然の大きな揺れに「大変だ」と車に乗り込んだが、地面が波打ち、アクセルを踏んでも車が動かなかった。

佐竹さんにとって、この保育所は「新卒」として初めて働いた保育所であり、名取市職員として園長を務めた最後の保育所だった。

「名取市出身なんですけど、浜のほうの言葉はわからなくて、はじめは泣いてばかりいました。それを子供に慰めてもらい、励ましてもらう。そんな保育士でした」

揺れが収まるとともに、急いで保育所に急いだ。もしかしたら、この地震で園が壊れて、子供たちに死者がでたかもしれない。

「津波が来るかもしれないのに、内陸から沿岸部に向かうことはありえないことです。でも、私の職責は所長です。子供と職員を守って、いくらのもの」

園に戻ると、園庭にブルーシートを敷き、パジャマ1枚で子供たちが固まっていた。職員10人も外にいた。

決断 3つの指示

園児と職員の目線は、戻った佐竹さんに一斉に注がれた。「園長先生、どうする?」と言われているように感じた。

午後2時55分、佐竹さんは決断を下し、3つの言葉で指示をした。

1・逃げます

2・車を持ってきてください

3・小学校で会いましょう

避難先は園児も良く行っていた2キロ先の閖上小学校。発達障害がある園児もいる。混乱しないよう、マニュアルで馴染みの場所に避難することを決めていた。職員の車に園児を分散させ、各車に乗れるだけ乗せて、逃げた。

「なにもなかったら、笑って戻ればいい。漁港近くに職員の駐車場があったので、もし戻ってこなかったら……。その時は、私たちは全員ダメ」

待つ間、園児たちと歌を歌った。

午後3時20分、閖上小東昇降口に全員がたどり着き、3階建て校舎の屋上へ駆け上がった。津波が到達したのは、その32分後、午後3時52分のことだった。

「もはやここまでか」。死を意識した。津波は閖上小にも到達した。車が流れ、人が流れていた。「助けて」という声が聞こえたが、手を伸ばしても届かない。

その日、名取市は雪が降っていた。3月の雪は珍しい。屋上にパジャマ1枚の子供たち。ここで風邪から肺炎になったりしたら…。

津波の流れをみていると、3階までは届かなそうだ。屋上にとどまるか、3階に戻るか。命を預かる決断を何度も迫られた。

寒さに凍える園児の姿をみて、佐竹さんは3階に戻した。

佐竹さんが懸念した事態は起きなかったが、別の危機が迫っていた。

午後4時10分ごろ、プロパンガスの爆発でそこらじゅうで火災が起きた。火の手が四方から迫る。

この日、死を4度意識した

死を覚悟したのは、この日4度目。わずか1時間20分のあいだに4度だ。それでも園児たちに不安を与えてはいけない。

危機の中、職員たちは視聴覚室で園児を円にし、平常時と同じように一緒に歌を歌い、お絵描きをした。

「思い返したときに、辛い思い出だけが残らないように心がけたのです」

午後6時、あたりは闇につつまれ、自衛隊、報道のヘリコプターの音だけが響いていた。その頃、子供の口から「もっとも聞いてほしくない質問」が増えてきた。

「ママは?」

「必ず来るよ」

と声をかけた。閖上小学校にたどり着き、保護者に受け渡すことができた子供たちもいたが、残る子供も当然ながらいた。

午後8時にはカーテンを外して、床に敷き子供たちを寝かした。「もう遅いから寝ようか」

寒く、辛い一晩だった。この夜、子供たちは誰一人、泣くことはなかった。

流された船をみて、子供は言った。「お船も遊びにきた」

朝は普通にやってくる。朝日はきれいに上がった。やっと到着した避難用のバスに乗り込み、7キロ内陸の小学校の体育館へ移動した。途中、ショッピングモールの近くに津波で流された船があった。

「所長先生、お船も遊びにきたの」

「そうだね、お船もスーパーを見てみたかったのかもね」。

見せたくない光景だと思いながら、そんな会話も交わした。

4日後、やっと最後の一人を引き渡すことができた。

佐竹さんは誰一人、子供の死者を出さずに「所長先生」の業務を完遂した。津波で、保育所は流出していた。がれきの中、子供が大好きだったプールだけは確認できた。

3月27日には、避難所で退所式を開いた。子供たちに「津波のせいでできなかった」と思ってほしくなかった。津波はきても、これからの人生にできないことはない。小さいけれど、そんな思いを込めた式だった。

迅速な避難で、一人の死者も出さなかった保育所。この出来事は「名取市の奇跡」と呼ばれることになる。

「奇跡」が起きた理由

佐竹さんは当初、「奇跡」と呼ばれることに困惑していた。「あそこは偶然、たまたま助かっただけだ」と言われているように感じたからだ。

佐竹さんは2010年4月から避難マニュアル作りをはじめた。避難訓練をしようと思って職員に避難場所を訪ねても、行ったことはない、詳しくはわからないと答えが返ってきた。

「リアス海岸ではない閖上には津波が来ない」。閖上地区ではこんな話が、伝わっていたが佐竹さんは「ここは漁港から260メートル。津波を含めて、海に関係する災害は最悪を想定しました。場所柄、3メートル以上の津波がきたら、まず誰かが助からない」。

口頭伝承よりも、自らの職務である「朝お預かりした命を、夕方しっかりお返しする。最悪の可能性から子供の命を守る」を最優先した。

「マニュアルは作って終わりではない」

近くにある鉄骨の3階建てのアパートはどうか。そこに避難するか。発達障害の子供たちがいて、狭い空間だと不安になる。内陸にある公民館や、中学校はどうか。あまり行ったことがない場所で、なじみがない。だったら、不安を最小限に抑えるためなら小学校が一番だ。

震災後、車で逃げるなんてもってのほか、と批判も受けた。閖上地区では車で避難しようとした住民によって、渋滞が起きている。

佐竹さんの考えはこうだ。現実的に1歳児を抱えて、走って逃げることはできない以上、移動は車しかありえない。ならばどう渋滞を避けるか。あらかじめ渋滞発生しやすい道路かを予測しておく。信号が複雑で抜けるのに時間がかかる5差路は避け、職員同士で、地区内の道路を走り、議論を繰り返して避難ルートを決めた。

大事なのは、すべて自分たちで直接確認したということだ。

「マニュアルは作って安心ではなく、常に確認するもの。私たちはこの日、冷静じゃなかった。非常用の持ち出しグッズも持ってでることができなかった」

それでも助かったのは、日頃、全員が非常時にやるべきことを確認していたことに尽きる、と思っている。

「奇跡って偶然の上におきるものじゃないのです」

「奇跡って偶然の上におきるものじゃないのです」

いま、佐竹さんは閖上地区の住民らでつくった防災教育の市民団体「ゆりあげかもめ」の会長も務めている。

佐竹さんもまた、震災で近しい親族を亡くしている。3月11日という命日を静かに過ごしたいとも思う。子供たちの話をしていると、あの日の顔を思い出し、時々、声が震える。元所長として講演する以上、涙は余計なものとわかっていても、精神的に辛い。

それでも登壇したのは、「あの震災から5年が過ぎたということは、次の災害も近づいている」という思いからだ。

「命をいちばんに」

東京の車道をみて、佐竹さんはこうつぶやいた。「いまここで、地震が起きたらどこに避難したらいいんでしょうね。車もこれだけ走っていて……」

日頃から考えていても、訓練をしていても、災害時にできないこともある。最低、どこまでできるようにしておくか。

「最後は自分で判断するしかないのです。自分で自分の命を守り、弱い立場の人には、できる人が手を差し伸べて、いざという時を考える。なにより、命をいちばんに考えてほしい」

佐竹さんは何度もこう繰り返した。