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あの日、津波で亡くなった娘へ 父が贈るあたたかく、少しふしぎな手紙

まるで生きているかのように語りかける手紙だった。そこに散りばめられた、とても優しい言葉。

ふしぎな手紙

「これ読むと、インタビューの限界を感じるんです」

2017年1月末、取材先の社会学者からこんな言葉とともに何通か手紙が送られてきた。

研究の一環で、喪った大切な人や土地への思いを手紙にしてほしい、とお願いした。

集まった手紙には、インタビューではおよそ出てこないような繊細な言葉が並んでいた。

仙台を拠点に、学生とともに被災者のインタビュー調査を重ねている彼が、限界を感じている。

そこに興味を持った私は、さっそく手紙を読みはじめた。

束の先頭にあった手紙に強く心が揺さぶられた。それは、A4用紙でわずか4枚ほどの手紙だった。

書いたのは、宮城県石巻市立大川小学校で次女の真衣さん(当時小学6年、12歳)を亡くした、鈴木典行さん(52歳)である。

手紙はこんな書き出しで始まる。

真衣、いまどこにいるの?もう5年半も帰って来ないから心配しています。

真衣のところに行きたいけど、簡単には行けそうも無いので手紙書きます。

たまにさ〜、真衣が夢に出てくるんだけど、六年生のままなんだよね。ちっちゃくて、丸顔で、ちょっと出っ歯で。もう18才だよねー。

あと半年で高校卒業なのに見た目は小学生かい。

インタビューで語られない言葉

真衣さんは3人姉妹の次女だ。

手紙には、2歳年上の長女の星奈さん、今年、小学校を卒業するという妹の澪さんの近況も綴られる。

大川小では、2011年3月11日、東日本大震災の津波で74人の児童と10人の教職員が死亡・行方不明となった。

鈴木さんは大川小の元遺族会会長だ。事故の原因究明を求め、石巻市などと交渉の先頭に立ってきた。

二度と同じことを繰り返してはいけない、と語り部活動も続けている。

私が一方的に知っていたのは、メディアを介して発信することへの責任を背負った「語る遺族」としての鈴木さんの姿だった。

そのイメージと手紙から受ける印象は異なる。

例えば、少し不思議な体験を語るこんな一文はどうだろう。

たまに澪がね、真衣そっくりの顔になったり、そっくりの声になるんだけど、その時って近くに来ているの?

そんな時って真衣と一緒にいる気分になったりします。そのときは悲しいんじゃなくて嬉しい気分です。なんか変だね。

亡くなっているのに、どこかで生きているかのようであり、亡くなっていることを受けて入れていながら、またどこかで会いたいと願っている。

インタビューにはでてこないような言葉が、なぜでてくるのか、インタビューをする。

2017年2月、私は大川小に向かった。

20分で書けた手紙

2月4日午前9時50分。指定された待ち合わせ場所に着くと、ベンチコートを着込んだ鈴木さんが待っていた。

「東京からきたら、やっぱり寒く感じますか? ちょっと風がありますよね」

立春を迎えた石巻はからっとした青空が広がっていた。風はやや強い。

最高気温が8度ちょっとまで上がったこの日の天気を、朝のニュースは「立春らしく寒さは和らぐ」と伝えていた。

2人で車に乗り込み、まずは大川小を案内してもらう。

鈴木さんは、車の中で「あの手紙のことですよね……」と話を切り出した。


手紙を書いてほしいという話をお引き受けしたのは、去年(2016年)の10月でした。書きはじめたのは、その2日後です。

依頼があるまでは、手紙なんて書くことすら考えていませんでした。

依頼をうまく利用させていただいて、娘に手紙を書いてみました。

パソコンでWordを開いて、20分くらいかな。

真衣にいま伝えたいことを書こうと思ったら、すらすらと書けました。

うまく書こうとか、もっと手をいれようとか、そんな風に考えるとダメでしょうね。

あれこれ考えるより「そのとき、思ったんだ」って言えるものでいいなって。

なんであんなことを書いたのって意味を聞かれても答えられないんです。

だから、文章の流れで変なところもあるのも気づいたんですけど、あえて修正せずにそのままにしました。

一度書いてから手を加えていません。


人に向かって何かを語ることと、娘が読むだろうと思って書いた手紙は、決定的に何かが違う。

その時、私の心に浮かんだのは「それは……」という疑問だった。

意味をこえて、溢れてしまう感情が手紙にはある。それは何なのだろう。

大川小学校にて

車は大川小に着いた。午前10時過ぎだ。

周辺の整備は進んでいるが、建物はあの時のまま残っている。

私たちが到着する時間と前後して、学生とおぼしきグループがいた。

正門前に建てられた慰霊碑に手を合わせ、鈴木さんとともに大川小の中に入る。

手には、語り部をするときに使うという黒いファイルがある。


この中に、震災前の大川小がどんなところだったのかまとめてあります。

私もここで生まれ育ちました。母校でもあります。

大川小は全部残すことになりましたが、周辺の変化はどうしても、わからないでしょう。

その前になにがあったかもイメージができないと思うんです。

だから、これ(ファイル)を見せてます。

建物があって、慰霊碑も整備されたからでしょうね。遠方からも見にくる方がいるんですよ。

慰霊碑を掃除していると、見にこられた方に「ご遺族の方ですか?」と聞かれることもあります。

「ええ、そうなんです」というところからはじまって、少しずつ会話をしているうちに、大川小のことを話すようになっていました。

はじめは毎日、涙がとまらなかったんですよ。

話しているうちに、涙がでてくることもありましたね。


あの日までの日常

津波の被害が残っている校舎を見ながら、話を聞く。鈴木さんは硬い表情で、淡々と語る。

校庭には、桜の木や芝生があり、給食を屋外で食べる時間があったこと。

一輪車が何十台とあり子供たちはそれで遊んでいたこと。

ファイルには、私が知らない震災前の大川小の様子があった。

建物のなかも案内してくれた。

津波をかぶったプリントもネームプレートも残っている。

津波の圧力で持ち上がってしまった1階の天井、折れてしまった渡り廊下。

鉄筋ごと引きちぎれてしまったコンクリートが、ここに起こったすべてを語っている。

鈴木さんの説明は続く。

2011年3月11日、大きな揺れが収まり、児童、教員は校庭へ避難した。

裏には普段から授業で行き来している山があった。6年生は山へ避難したが、校庭へ呼び戻された。

津波がくるまでの約51分間、子供たちは教員の指示に従って、校庭で待機をしていた。

「そして……」と、小学校近くを流れる北上川、そこに架かる橋のたもとにある、わずかな高台、通称「三角地帯」を指差し、歩く。

児童たちは、そこに避難を始めた直後、津波にのまれた。

「大川小がある場所は海抜1メートル12センチなんです。低いでしょ。なんで津波警報がでても避難しなかったのか。それはなぜ?」

気象庁のサイトにあの日の石巻市内の気温が残っている。

午後3時時点で気温は1・4度で、この後、さらに下がる。

それよりも暖かい1日であっても、鈴木さんはグレーのセーターの上からベンチコートを羽織り、私はダウンジャケットを着ていた。

それでも2人とも寒さを感じている。


私たち、こうやって防寒しているでしょう。

あの日は、今日よりもずっと寒い日だったんです。

そんななかで、教室で着ているままの子も、外履きを履いていない子もいたんです。

薄っぺらな上履きで校庭に立っててね。

どんな気持ちだったのかなって思うんです。

寒かっただろうな。大きな揺れの後で怖かっただろうな。

校庭では体調が悪くなった下級生もいました。そんな寒さのなか、三角地帯を目指す。

津波がくる方に向かって、走っていたんです。

高台にでる直前、津波で流れてきた土砂やがれきが川をあふれ、生き埋めになりました。


父は亡くなった娘を自ら発見した

もうひとつ教えてください。3月13日に真衣を見つけたけど、そのときにパパに教えてくれたの?『ここにいるよ』って教えてくれたの?

捜索終了の夕方に『この下にいるからもっと掘る』って言ったら周囲の人は『もう居ないって』って言われた。でもパパは『絶対いるよ』って言って掘っていたらみんな協力してくれて……

「ここで真衣を見つけました」と鈴木さんが手を向けた。

左手には山の斜面がある。県道へと続く細い裏道である。

うっすらと雪が残り、枯れた草を覆っている。

私には、それしか見えない。

鈴木さんの目には違うものが映っているだろう、と思った。経験をした人にしかわからないもの、見えないものがある。

鈴木さんが手帳につけていた記録と、手紙にはこんなことが書いてある。

3月13日、消防団員だった鈴木さんは真衣さんや児童の捜索のため、大川小に向かった。

大川小でなにが起こっているかは断片的に伝わっていた。

そこには、前日12日に見つかった遺体がブルーシートにくるまれ、10人ほど寝かされたままになっていた。

「なんで、なんでこんななぐなってんの、なんでこんなに人が死んでいるの」と悲しみと怒りを覚える。

周囲には、流された車のなかに、住宅が流された場所に、遺体が残っていた。

鈴木さんたちはろくに会話もしなかったが、誰ともなく手でがれきを撤去し、土砂を掘った。

他地区からも、応援で捜索に協力する人たちがやってくる。彼らは、スコップで掘りはじめる。

それをみて、鈴木さんは一喝した。

「おいこら、スコップで掘ったら体さ突き刺さっぺ」

「こごで捜索している意味がわがんねんだったら帰れ。自分の子供がここにいると思って捜せ」

自分たちが、なぜ手で掘っているのか。それは遺体を見つけても傷つけないためだ。

自分の子供、知り合いの子供が巻き込まれたかもしれない自分たちには、暗黙の了解がある。

なのに、なんで他の人はわからないんだ。言葉は怒気を帯びる。

現場から、子供たちの遺体は次々に見つかった。

捜索の打ちきりは午後3時と決まっていた。

ここには、もういないだろう。

周囲はそう判断して、そろそろ打ちきろうとしていたが、鈴木さんだけは「あと一人いるはずだ。足が見えた」と主張していた。

「俺には見えたんだ」と確信を持っていたが、周囲は納得しない。

「いや足が見えた子は救出した」「あといないでば。いま掘ったべや」と説得しようとした。

それでも見えたものは見えたのだ。納得できず、食い下がる。

絶対にいる、と言い残し、ひとり現場に戻って、掘り続ける。

周りも折れ、協力する人たちもでてきた。

ほどなくして、足が見えた。「あったぞ、見ろ。あったべや」と叫んだ。

小学校の上履きだ。小学生だ、と確信する。

そして、漢字が見えた。見慣れた文字で名前が書いてある。

「真衣」

子供の名前を大きな声で叫んだ。

そこには、黒いベンチコートをきて、ヘルメットをつけていた娘がいた。

土はいっぱいついていたが、きれいな顔をしていた。

寝ているような顔で、いまにも起きてきそうだった。

しかし、下唇はぐっと噛み締めたまま呼吸は止まっている。

他の消防団員がブルーシートを敷いた場所まで運ぶ。そこには、他の子供たちの遺体も並んでいた。

悲惨な光景、というのは、ここに広がる光景をいう。

道路の上に子供たちの遺体が並び、その中に自分の娘もいる。

もしかしたら、山に逃げているかもしれない。

いまごろ、寒さにふるえているかもしれないが、生きているかもしれないと希望は持っていた。

鈴木さんは、真衣さんの遺体に額を突き合わせ泣いた。

近くにいた女性が、ペットボトルの水を差し出してくれた。

自分が持っているタオルと、その水で真衣さんの顔をふく。ヘルメットと眼鏡を外した。

悲しみとともに、わきあがった感情は怒りだ。それは自分に向けられる。

なぜ迎えにいかなかったのか。山にいるという希望がなくなったことへの苛立ちも同時にあった。

そして鈴木さんは翌日以降も捜索に向かう。

自分の娘を見つけたからもういい、というわけにはいかないという使命感と同時に、一人になりたくないとも思っていた。

子供たちが居場所を教えてくれた

私は再び、大川小に向かって歩いていた。

自分の子供を自分で見つけた人は少なくないのだと、鈴木さんは教えてくれた。

なぜ「まだ足が見えた」と断言できたかはわからない。

いま振り返れば、そんな強い根拠があったわけではない。

だったら、それは子供たちが親に教えてくれたのだろうと考えている。

「周囲はすっかり片付いてしまったけど、大川小だけはあのときのままなんですよ。周囲には、また震災前のように桜を植えてあげたいなぁっておもっているんです」

保存は、鈴木さんが遺族会会長を務めているときに決まったものだ。

当時は大川小を一部保存するか、それとも完全に撤去するのかで議論が揺れていた。

遺族の中でも意見がわかれていた。ここでリーダーシップが問われている。

そう考えた鈴木さんが決めたのは、こうだ。

遺族会としては保存についての結論を出さない。決定は最終的に石巻市に委ねる。

しかし、それには一つ条件をつける。

選択肢は一部保存か、撤去の二択ではない。

もう一つ、遺族の中に強い希望がある全部残すという選択肢をつけて三択で議論してほしい。

結果的に、大川小はすべて震災遺構として保存することが決まり、いまに至る。

再び車に乗り込み、場所を変えて続きを聞いた。

「たまには遊びに来てシュート練習でもしたら。ボールも置いてあるから。二人で練習したのが懐かしいね」

道の駅の一角にある、休憩スペースでコーヒーを飲みながら、私は鈴木さんに手紙のことを質問した。

鈴木さんは、自分でまとめた震災後1年の記録と、3人姉妹の成長の記録をまとめたファイルを持っている。

写真を数十枚つかい、少しずつ書き足して、印刷した。

今回の手紙もまとめてとじ込んだら、ついに留め具にヒビが入ってしまったんだと笑う。

手紙は近況報告から始まっている。

庭に作ったバスケットボールのゴールだけど、高さはミニバスのままだよ。(中略)たまには遊びに来てシュート練習でもしたら。ボールも置いてあるから。二人で練習したのが懐かしいね。

これはどうしても伝えたいことの一つだった。

「成長の記録」を開き、バスケットゴールを指差す。

「これですね。自分で作ったんですよ。中学生用の高さに調節することもできるんです。ちょっと迷ったんだけど、結局、そのままにしたんです」

鈴木さんは女子のミニバスケチーム・大川ウイングスのコーチを務めていた。

真衣さんも所属し、コーチと選手としても接していた。

練習場所は津波で壊れた大川小の体育館だ。

バスケはまったくの素人だったが、もともと中学時代、バレー部で県大会優勝したことがあり、スポーツは好きだった。

前任コーチが辞めることになったとき、「鈴木さんでどうだろう」と親たちから頼まれ、迷わず引き受けた。

その年、真衣さんは入団したばかりの4年生であり、鈴木さんは新人コーチだった。

そこからの約3年は、2人の大切な思い出である。

「なんか泣けてくるし悔しくなるからね」


あの頃は大変でしたよ。ミニバスのコーチって大会の審判もやらないといけないんです。

ルールも覚えないといけないし、子供達の指導もしないといけないし……。

上のお姉ちゃんもミニバスやってたから、家の庭にバスケのゴールを作ったんですよ。

真衣とも2人でよく練習しましたね。真衣は娘だからって特別扱いはなし。

たぶん、一番怒ったんじゃないかな。休みは、お互いに練習や試合でしょ。

親がコーチって嫌だっただろうなぁと思いますよ。

でも、努力してみんなと一緒に上手くなりましたよ。


真衣さんだけでなく、大川ウイングスのメンバーも亡くなっている。

鈴木さんはコーチとして彼女たち一人、一人にも、お別れの言葉を述べている。

あの震災後も、女子のミニバスチームから指導の依頼はあったが、結局、引き受けることはなかった。

震災後、中学男子の指導を2年間だけやって、いまはやめている。

男子チームはできても、どうしても、女子はできなかった。

「なんか泣けてくるし悔しくなるからね」と手紙にその気持ちを綴っている。

「パパはちゃんとタバコをやめたよ」

自分の体はまだまだ動くし、やろうと思えばできる。

でも、身体的な問題とは別にどうしても、ぬぐいきれない悲しみがある。

ウイングスを思い出さずにいることはできない。だから、と鈴木さんは思う。

他の子たちを思い出したり、重ねたりしながら指導するのは、教える子供に対してとても失礼ではないか。

ならば、潔く引き受けるのはやめよう。


そうそう、手紙の中でタバコやめたって書いてあるでしょ。

それまでは吸ったり、やめたりを繰り返してたんです。

ちょうど、やめるって言ってた時期にバスケの試合の合間に、他のコーチと吸っちゃったんですよ。

そこを真衣に見つかって……。

「あぁ、パパ吸ってる」みたいな顔でみるんですよね。だから、ちゃんとやめたよーって報告しておこうって。


「ほんとうに些細なことばかり、書いていますね」と笑う。

ふしぎな言葉の奥にあるもの

鈴木さんの顔から、大川小を案内していたときの険しい表情はすっと消えた。思い出を語りはじめた、その表情には柔らかい笑みが浮かんでいた。

たまに澪がね、真衣そっくりの顔になったり、そっくりの声になるんだけど、その時って近くに来ているの? そんな時って真衣と一緒にいる気分になったりします。そのときは悲しいんじゃなくて嬉しい気分です。なんか変だね。

この一節を引いて、私は「とても不思議な気持ちになる文章だと思いました」と話した。

手紙の中に出てくる真衣さんは、亡くなっているはずなのに、まるでどこかで生きているかのように語りかけていて、それを鈴木さん自身が突っ込みをいれている。

書いている当事者ですら、初めて気づいているような感情の揺れがそこにあるように思えたからだ。


確かに、言い回しはおかしいなぁ。でも、直そうとは思わないんですよね。

それは、いつまでも私にとっては3人姉妹だからですよ。

「お子さんは、何人ですか?」って聞かれたら、とっさに「3人です」って答えてます。

仏壇に、真衣のランドセルとか持ち物を置いてあるんです。

そこは「真衣の部屋」って家族で呼んでいます。

お菓子もらったときなんかも、澪に「これ真衣にあげてきて」とか言ってね。

自然とそうなっていったんですよ。ずっといるって感じでね。

だからなのかもしれないですね。澪の顔って長女に似ているって思ってたんです。

なのに、ふとしたときに澪が話しているのに、「あれ、真衣がいまいたよな。声が聞こえたぞ」とか思うんですよ。

そのときは全然悲しいとか、怖いとか思わない。あっいるんだな、って嬉しいんですよ。

変だって自分でも書いてますね。書きながら思ったんだろうなぁ。

冷静に考えたら変だけどね。


「素のままの言葉」が持っている力

鈴木さんは、手紙を書くことで、自分の感情をもう一度見つめ直している。

変だとは思わないと伝えた。

震災に限らず、残された遺族の方の話を聞いていると、まるでその人が生きていて、すぐそばにいるかのように話している人と出会う。

悲しみをあらわす言葉は人それぞれ、まったく違うが、共通点はある。

本当に愛していた大事な人との別れを経験したということ。

そして、深く悲しみ、その経験を社会的な立場とは関係なく、固有の体験として語っていること。

その語り口は優しく、あたたかいこと。彼らは亡くなった人とともに生きている。

私は、鈴木さんの語りにもそれを感じた、と伝える。


これは素のままの言葉です。父親から、娘に贈る言葉。

手紙というのは不思議なもので、書いてみたら、普段は言えないような感情を込められる。


「素のままの言葉」は個人でしか語れない。

それは、自分に起きたことに向き合い、心の深いところからでてくる。

インタビューでは簡単に到達できないような、奥底から。

素のままの言葉に触れ、私は、いまここに「生きた人」がいるというリアリティを感じる。

それこそが手紙の持っている力だ。

それでも言葉にできないもの

一緒に昼食を食べてから、鈴木さんと別れ、私は石巻市内の沿岸部を少しだけ見てまわった。

2012年、この街に取材にきている。

当時、あれだけ被害の大きさを感じさせた道路沿いはすっかり片付き、車の往来は活発になっていた。

その景色を見ながら、私は鈴木さんの言葉を思い返す。

発見したときの気持ちは言葉では語れないのだ、と言っていた。

震災から何年経っても、記録をつけても、手紙を書いても、語り部をやっても、語れないもの、書けないものが残っているということだ。

はたと気がつく。

私が確かに触れたと思っていた「素の言葉」は確かに深い。

その深さは、書いてある言葉そのものにはない。語れないこと、書けないものの大きさを感じさせているから深いのではないか。

当事者ですら、というか当事者だからこそ、言葉にならないものを抱えて生きている。

いままで、それを感じてきただろうか。少しばかり、考え込む。

取材をしながら、人の心も道路と同じように、時間とともにきれいに片づくと思っていなかっただろうか。

当事者が言葉にしたことだけで、わかった気になってはいないだろうか、と。