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「子どもを守れなかった父の死を悲しみきれない」 あの年、中学生だった21歳が口にしないこと

石巻市立大川小学校の教師として逝った父の死をどう受け止めたらいいのか?あの震災が問いかけること。

「僕は教員だった父の死をどこか悲しみきれていない」

東日本大震災でのこされた遺族のなかには、大切なその人の死を受け止めきれない人がいる。小学校教師だった父を亡くした佐々木奏太さん(21歳)もその一人だ。

父(当時55歳)はあの時、児童74人、教員10人が死亡・行方不明になった石巻市立大川小学校にいた。2年の担任だった。

大学生になった佐々木さんはいま、児童の遺族とともに大川小に立って、訪れる人たちに何が起きたのかを語っている。

ここだけ強調すると、「辛かった父の死と向きあい、乗り越えた遺族」にみえる。

しかし、6年という時間はまだまだ足りなかった。

2017年3月11日、彼は生まれ育った南三陸町でその時を迎えた。

「いってらっしゃい」と父を見送った

震災当時、佐々木さんは中学3年だった。朝はいつもと同じようにやってきた。

仕事にいく父を「いってらっしゃい」と見送り、登校する。

進学先も決まっていて、中学生活は残りわずかだった。

大きな揺れがやってきた。中学校も自宅も高台にあったため、津波はみていない。

しかし、断続的に被害は伝えられ、そのまま中学の体育館で避難生活が始まった。その日、母は沿岸部に仕事にいっていた。

父は他よりも安全なはずの小学校にいるから、まず心配なのは母だ、と思っていた。しかしこの時、母は別の避難所にいて無事だった。

数日後、体育館に迎えにきた親族から「大川小が孤立して、大変なことになっている」と伝えられた。

1カ月後に見つかった身元不明の遺体、それが父だった

そのまま、父を探しに大川小に向かったが、道路状況が悪く南三陸町から現地にいくことすらできなかった。近隣の避難所もまわったが、父の姿も名前もない。

探している途中にすれ違った大川小の校長が、すべてカタカナで書いた手書きの行方不明者リストを見せてくれた。

その中に父の名前があった。

約1カ月後、大川小の近くを流れている北上川河口付近で、身元不明の遺体が見つかった。損傷が激しく、外見だけでは誰かわからない。

震災から1年4カ月後、2012年の夏、遺体は父だとわかった。

父が行方不明だったあいだ、母は「長期出張に行っているみたいだ」とよく言っていた。

当時、高校生になっていた佐々木さんは、警察官からこんな言葉をかけられている。

「君はまだ高校生だね? だったら見ないほうがいい」

口調は優しかったが、有無を言わせぬ様子を感じとる。

遺体は骨壷になって帰ってきた。

佐々木さんは「辛くて、悲しかった」というが、母の前で、その気持ちを打ち明けることができなかった。

そして、大川小は社会的な問題になっていく。

児童の遺族は、避難をめぐって石巻市や学校側に問題があったのではないか、と投げかけた。

大川小で何が起きたのか。なにか報じられるたびにテレビをつけたが、母は「チャンネルを変えてくれ」といった。

家の中にいた父とは違う、教員としての父はどうだったのか。

高校を卒業した佐々木さんはいま、宮城県内の教育大学に通っている。

「よく言われるんですけど、父の背中をみていたから、とかではないです。震災直後からボランティアもしていて、そこでも子供と接することが好きだったので、選んだんです」

フェイスブックには自炊した様子をよくアップしている。

その中には「学校の給食をイメージしたものです」とシチューとサラダ、パンを並べた写真があった。

児童の遺族とともに語る。しかし……

口調ははきはきとしている。質問にも丁寧に答える。

児童の遺族と語るようになったのは、大川小でみた夕日の写真をフェイスブックにアップしたことがきっかけだった。

「写真をみた、ひとりのご遺族から連絡がきました。とても嬉しかったです。実際にお会いしたときに『あなたの父親が守らないといけなかった』と言われました」

「僕もそう思っていたので、言われてよかった」

「大川小で起きたことを繰り返したくないという思いは、児童のご遺族も、僕も同じです。だからこそ、同じ遺族として語り継ぎたいと思っています」

大学卒業後についてもよどみなく語る。

「生まれ育った南三陸町で働きたいと思っています。町の復興に少しでも貢献したいんです」

目標は明確で、自分のやりたいことを自分の言葉で語る。

しかし佐々木さんは、その卒業に必要な教育実習を前に、うつ病と診断されている。どうしても、大学にいきたくない。体が重くなり、自分の思い通りに動かなくなった。

原因をたどっていくと、実習先が父が担任していたのと同じ、小学2年生に決まったことにいきつく。

集合写真に写っていた父と子供たちの顔が浮かんでくる。

父は教員として、子供を守れずに亡くなった。

いまの自分の知識や経験で子供たちを守れるのか? どうやって?

振り返ってみれば、これまで受けてきた講義の中で、学校の安全や、教員が子供を守るべきであるという話をしているときから、心は落ち着いていなかった。

自分は教育大に入ったときから、このときが来るのを恐れていた。そう思った。

周囲は当然だが、教員を志望する学生が多い。

父のことや悩みを話したところで誰がわかってくれるのか。

教育実習を楽しみにしている同級生に水を差したくない、と思ったら余計に体は動かなくなった。

その頃、フェイスブックの投稿はほぼ止まっている。

そして、2016年8月25日から実習が始まるという1週間前、ついに医者から実習参加にストップがかかった。

大川小児童の遺族が起こした学校の責任を問う裁判の判決も迫っていて、亡くなった「教員としての父」が起こしたことを、嫌が応でも考えるようになる。

そんな時期と重なっていた。

必修単位の教育実習を特例で免除してもらうよう、大学にだした書類の中で、指導教官は彼の学生生活をこう記していたという。

「復興に関わるボランティアに熱心に取り組んでいるが、大学内の授業等の評価で苦しんでいるのもまた事実」

外でのアクティブな印象とは全く異なる様子が綴られている。

「僕は辛いと言ったことがない」

「いま思えば、僕は辛いとか苦しいって言ったことがほとんどないんです。どうしてなんでしょうね」

そして佐々木さんは、「まだまだ、わからないんです」と言う。

わからないとは「父の死」が、だ。

自分が知っている家族としての父、大川小の教員としての父。

ひとりの人の死がつながってこない。

もちろん、家族としての父が亡くなったことは悲しい。

しかし、大川小で子供を守りきれずに亡くなった父の死をどう受け止めたらいいんだろう。それを悲しんでもいいのだろうか?

どうしても、割り切れない思いが残ってしまう。

「だから、辛いでしょって言われてもわからないんですよ。(父の死を)乗り越えようとしているねとかって言われてもわからないんですよ」

「わからない」の意味

この日、はじめて「わからない」という言葉を言いつづけ、佐々木さんは少しだけ声を荒げた。

「乗り越えてなんていないですよね。みんな、わかりやすい話で理解しようとするから……」

「なんか、せっかちなんですよね」

「僕は大川小とどう向き合っていくかを決めようって走っているのに、『どう?疲れてる?』って聞かれている気分です」

「一生懸命、走っているのに、疲れているかどうかなんてわからないんですよね。走っている僕にはまったくゴールがみえないのに……」

実は周りは、そんな彼の苦しさを察しているのかもしれない。

教育実習を断念したことを告げると、母は「わかってたよ」と言った。苦しんでいるのはわかっていた、と。

ある児童の遺族に「葛藤が強く、正面から向き合うことはできていないかもしれませんが、少しでも自分ができることからやっていきたい」とフェイスブックで打ち明けた。

こんな返事がきた。

「現実から目を背けず、向き合って生きていきましょう! その先には良い事が待っていると信じています!」

6年という時間で得たもの。まだまだ時間がかかるもの。

大川小で語っているのも、児童の遺族と一緒に活動しているのも、彼にとっては父の死と向き合っていく過程なのかもしれない。

その苦しさを受け止め、姿を見守っている人はいる。そして、向き合う時間もある。