神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、障害者19人を殺害された相模原事件から7月26日で1年になる。この1年間で「障害者」と社会をめぐる問題は変わったのだろうか。取材で出会った言葉からヒントを探る。
排除の圧力が強まっていないか?
障害者と社会。最大の問題は「障害者」が社会のなかで見えにくい存在になっていること、つまり「障害者」への想像力が働きにくい社会になっていることにある。
共に生きることではなく、社会から見えないところに少数者を排除する圧力。ともすると、そちらのほうが強まっていないだろうか?
この1年、取材をするなかで何度となく問いかけられた。
歴史は反復する。例えば当事者が声を上げると、声の上げ方をめぐって議論が過熱になる。最近ならLCC、かつてはバスの乗り方を巡って……。
横田弘が怒った「愛と正義」、そして炎上必至の運動
われらは愛と正義を否定する。われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且、行動する。
これは脳性マヒ者の横田弘さん(1933年—2013年)らによる運動団体「青い芝の会」が掲げた綱領だ。横田さんは「愛と正義」に徹底して抗おうとした。
彼らの運動には、常に過激という言葉がついて回った。有名な運動をいくつかあげよう。
障害者の「生死」を誰かが決めていいのか?
1970年、脳性マヒの子供を実の母親が殺害する事件が起きた。
この母親は、障害もあり幸せになりえない子供の将来に悩んだかわいそうな母親であり、愛情ゆえに手をかけたのだ。公然と母親がかわいそうだと同情する声が多くあがり、減刑を求める運動まで起こった。
これに横田さんたちは怒り、抗議し、この母親に対して厳正な裁判を求める意見書を裁判所や検察庁にだした。
どうして、他人が脳性マヒで生まれたことを不幸と決めつけるのか。どうして、障害者の生死を誰かが決めることができるのか。
「あなたのためを思って〜」という思想、愛と正義はときに暴力に転化する。横田さんは行動とともに社会に問いを投げかけた。
誰かが「幸せ」を決めつける、それでいいのか?
さらに有名なのは1977年の一件だ。当時は障害者が車椅子のまま、バスを乗ることすらままならなかった。車いすのままバスに乗ることを拒否されてしまったのだ。
彼らは立ち上がって、川崎市とバス会社への抗議活動を展開した。JR川崎駅前ロータリーに停車中のバスに、障害者が一斉に乗り込んで運行を28時間ストップさせた。いまならネットで炎上必至の運動だ。
当時は、脳性マヒ者なら「施設に入ること」が幸せだと言われていた時代でもある。幸せが何たるかは自分たちで決める、それが横田さんの行動原理だった。
自分たちだって、バスに乗って買い物をしたい。多くの人たちが選べることを、なぜ車椅子だからという理由で拒絶されないといけないのか。
過激さの裏にあるのは、多くの人が当たり前だと思っていることを、自分たちもやりたいということだった。
「障害者」は隣近所にいるのか
本人のインタビューを重ねた荒井裕樹さん=二松学舎大講師=は、今年1月に横田さんの評伝『差別されてる自覚はあるかー横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)を発表した。
荒井さんは、私の取材に横田さんは「隣近所」という言葉を使っていたと話してくれた。その意味はこうだ。
隣近所とは日常的に、なんとなく顔も見えるし、生活も想像できるような関係を指す。「隣近所」に障害者が身近にいる社会のことだ。
障害者が身近にいて、リアルに思い浮かべられないと想像力は働かない。隣近所の想像力が働かないと、ともに手を取りあう共生社会なんて夢のまた夢、すぐに排除がやってくるーー。
いま「隣近所」に障害者がいるだろうか?この1年間で変化はあっただろうか。
「障害者」ではなく、個人として捉える
「24時間テレビ的な感動か、バリバラ(※NHKが手がける、障害者が出演するバラエティー番組)的な笑いか。この2つしか障害者の描き方がないと思われるのは、とても、しんどいなぁって思うんです。その両方の間に、多くの当事者がいると思うから」
そう語っていたのは、義足のダンサーであり女優の森田かずよさんだ。先天性の身体障害があり、ある時は義足を身につけ、ある時は車椅子に乗りながら、舞台に立つ。森田さんは両方の番組に出た経験がある。
彼女は、障害者を巡るメディアの問題をこう捉えていた。
「『障害者』と『健常者』という構図、カテゴライズそのものに違和感があります。障害者、といってもお互いの障害のことを理解することはできないと思います。車椅子や義足といった身体障害、視覚や聴覚、それに発達障害や精神障害……」
「それぞれまったく異なる障害です。個人によって程度も違う。『障害者』という人がいるのではなく、ひとりひとり、まったく違う人がそこにいるのです」
頑張る障害者か、障害を笑い飛ばすのかだけでは問いは深まらない。本当の問題は、そこに集約されない個人がいること。つまり障害者、という人がいるのではなく個人がいること。
当たり前のことなのに、広がっていかない認識が残っている。
メディアから消えていく「障害者」
それ以前に、彼女はまだまだメディア上では当たり前に存在する「障害者」そのものが「消えている」とも話していた。
「ある映画のエキストラの募集要項の中に、補助器具や介助者が必要な人はNGだとありました。彼らの意識の中に障害者を排除しようという思いはないでしょう。でも、これを読んだとき『あぁ私は参加できないんだ』と思いました。実際に、エキストラで障害者の姿はほとんどみませんよね」
「こうやって、リアルな世界の中にいるはずの障害者は、メディアからは消えていくのではないですか。私には、日常的に映らないことのほうが大きな問題に思えます」
「障害者を社会からいないことにしちゃいけないし、見えないことにしちゃダメなんですよ」
「障害者」というカテゴリーで括ってしまい個人として見ていないこと以前に、カテゴライズされる属性そのものがなかったことになっている社会。それもなかなか変わっていかない。
事件への恐怖心はある。それでも妄想を口走るような人たちを排除するような社会には抗いたい。
事件への恐怖心はある。動揺もある。それでも妄想を口走るような人たちを排除するような社会には抗いたい。いまから約1年前、東京大先端科学技術研究センター准教授にして、脳性マヒの医師、熊谷晋一郎さんが語った言葉である。
身体障害者の中にだって、精神障害や薬物依存症の人が近づいてきたら、危ないし、怖いというという人はいます。
ましてや、介助者の中にいたらどうですか。妄想を口走る人がきたら、怖いですよ。私だって怖いし、実際に動揺もしました。街を出歩くことだって怖い。
でも、怖いから社会から排除してほしい、というのは違う。私たちは、コミュニティーの中で生きるという選択をして、実際に生きている。
怖いのは、私一人じゃない。みんな怖いから、みんなで解決しようってことを大事にしたいと思う。
彼は、事件から問われているのは、コミュニティーを閉ざすのか、事件が起きてもなお開き続けるのか、だと言った。
言い換えると、多数派からみて異質なものを排除して「きれいな集団」を維持することを優先するのか、それともいろんな少数者も混じって生きている社会を肯定するのか。
それこそが問題なのではないか。「きれいな集団」を肯定する社会は、優生思想と結びつきやすい思考である、と語っていた。
「集団の価値を個人に優先させるコミュニティーは暴力がはびこるコミュニティーだ、というのは強く言いたい」
あの事件から1年が経つ。いま、この社会は集団の価値を個人に優先させる社会ではないと言えるだろうか。排除がない社会と言えるだろうか。
もう一度、彼らの問いかけに耳を傾けてみたい。そこから浮かび上がるのは、事件で新しく見えてきたものではなく、ずっとこの社会のなかで解決してこなかった課題である。