全国紙の「成人の日社説」離れ?
今年も「成人の日」がやってきた。
若者論に詳しい後藤和智さんの検証をみると、数年前まで、大手全国紙はこの日にあわせて、ここぞとばかりに若者に向けてお説教あり、訓示ありの新聞社説が掲載していた。
今年は朝日と産経のみ
今年、全国紙で「成人の日」社説を書いたのは朝日新聞と産経新聞の2紙のみ。見送る新聞社のほうが多くなった。これも時代の変化だろうか。
中身を見ていこう。
「若者に寄り添う」朝日
朝日新聞の社説は「希望と不安と焦燥と」というタイトルで、漫画家の水木しげるさん、小説家の朝井リョウさんらのエピソードを並べた。
不安があっても、夢に向かって道を切り開くことの大切さを強調するというスタイルだ。そして、メッセージはこうなる。
20歳という通過点での生き方で、一生が決まるわけじゃない。自分は自分の道をいけばよい。大人に、ましてや新聞に「かくあるべし」なんてお説教されるのはまっぴらだ、と思うくらいでちょうどいい。
新聞なんて、と思う若者に、あえて目線を下げて寄り添うことを忘れず、最後の締めは、「いまを生きる者同士、ともに七転び八起きしましょう」。
「大人の自覚」を求める産経
産経の社説は冒頭で成人の日を祝いながら、問いかけから本題に入る。
そこで忘れないでほしいのは、法律上の成人年齢であるからといって一人前の大人といえるわけではないということだ。祝日法が示すように、大人の自覚があるかどうかが重要なのだ。
では、この社説が考える自覚とは何か。
自らの人生は自らの力で切り開くと決意することこそ、大人の階段を昇る第一歩なのではなかろうか。
若者に向かって、自覚を求めるスタイルを貫く。そして、なぜか献血キャンペーンが事例として取り上げられ、締めのメッセージへと突き進む。
成人の日を迎えた皆さんには、積極的に社会に関わり、たとえ微力であっても自らの力で社会に貢献していく役割と気概が求められている。
成人に求められる「役割と気概」が打ち出され、社説は終わる。
他の全国紙は……?
日経、読売は社説ではなく、各社の一面コラム欄で成人の日に触れている。
読売新聞は……
読売新聞「編集手帳」は、留守番の寂しさを表現した園児のつぶやきから入り、詩人の長田弘さんや、イスラエルの作家アモス・オズの言葉から、人のつながりとは何かを考える。
「成人とは、自分がつながる<大陸>を自覚し、社会の荒波にさらされる覚悟をすることだろう」
日経新聞は……
日経新聞「春秋」は20歳を「情報への感度が高い世代」と定義。詩人、谷川俊太郎さんの言葉を引いて「スマホ世代」のやりとりへの懸念を示す。
誰もが当たり前に情報を発信する。しかし人をうなずかせ、なるほどと思わせる言葉や映像を世に問うのはなかなか大変だ。
そして、新成人へ願う。「立ち止まり、じっくり考え、道を探す。二十歳を機にそんな習慣を身につけてくれれば」、と。
毎日新聞は…
ちなみに、毎日新聞「余禄」は1988年生まれの若い起業家を取り上げ、彼女の取り組みから希望とは何かを問う話。
「どんな時代でも、自分や社会を信じる人の心には希望がともるのだ」
地方紙はどうだろう?
オンラインで読める地方紙で目立つのは、ともにブロック紙の「中日新聞」と「河北新報」だ。異なるスタイルで論を展開している。
中日新聞はエピソードを散りばめるスタイルでメッセージを発する。
新成人、おめでとうございます。すでに選挙権を持つ皆さんには、実感が薄いのかもしれないけれど-。ところで皆さん、今伝えたいもの、ありますか。
と、唐突な問いかけから社説が始まる。
次の段落から、ある大学生の卒業制作「故郷をもとめて~原発事故から7年、女子大生が視た福島」を取り上げられ、大人になるというのは「教えられるだけでなく、考え、伝えられる人になれること」と定義する。
新成人の皆さんにも今日を機に、伝えたいものを探してほしい。伝えたいものがある人は、伝える場所を見つけてほしい。
最後は、新成人へのこんなメッセージで終わった。
河北新報は…
河北新報は若者への呼びかけではなく、成人年齢の引き下げへの疑義を論じるスタイル。
中学生で東日本大震災を体験し、貧困やいじめなど厳しい現実に接し育った先頭世代だろう。そんな若者らの自立を社会の側が性急に求めてはいまいか。
民法改正や、少年法を巡る議論を取り上げ「社会」の問題として、成人年齢を考えようと問う。
少子化は進み、若者の将来負担は重くなる一方だ。不安は自立を妨げる。若者が働く意欲を見いだし、家族と安心して暮らす希望の未来を描ける社会に変えていきたい。
若者に「期待」を求めるのではなく、先行世代としてどんな社会を築いていきたいのか。そこを打ち出すメッセージで締めていた。