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サイドミラー越しに見た空爆。泣きながら電話をかけてきた娘。戦火を逃れて避難した親子が過ごした「あの日からの1年」

ロシアがウクライナに対する本格的な軍事侵攻を始めて1年。日本へ避難した親子は葛藤しながらも、一歩ずつ新しい暮らしを歩み始めている。

温かな光が差し込むこじんまりとした和室。水色のテーブルクロスが敷かれた机の脇には、ウクライナ語で書かれた児童書が積まれている。

小学生の頃に見たような「ひらがなひょう」が壁に貼られているのを見つけ、懐かしさが込み上げる。

「これでひらがなを勉強しているんですか?」と11歳のタイーシャさんに尋ねると、「It’s my moms(これは母のものです)」と控えめな返事が返ってきた。

「何度言っても、日本語を勉強したくないと、娘は言うんです。難しい年頃ですよね」。母親のスニジャーナさん(38)は、困った表情ではにかんだ。

ふたりは昨年8月、戦火を逃れて、ウクライナの首都キーウ近郊の街から、日本へ避難してきた。

いま暮らしているのは、千葉県内の公営団地。ロシアが本格的な軍事侵攻を開始した日からの1年は、とても一言では言い表すことができない。

2月24日の出来事

2022年2月24日。ロシア軍がウクライナへの攻撃を始めたその日、海外旅行から帰国したばかりだったスニジャーナさんは、忙しい1日を送るはずだった。

弁護士で、自分の旅行会社も経営するシングルマザー。溜まった仕事を片付け、美容院へ行き、娘をバイオリンのレッスンへ送るはずだった。

しかし午前5時ごろ、大きな物音と建物ごと揺さぶられるような振動で目が覚めた。

「最初は、軍事訓練でもやっているのかな?と思ったんです」

その時は信じられなかったが、ロシア軍が空爆を始めた瞬間だったことを後に知る。日が昇る頃には、街中がパニックに包まれていた。

Huge explosion seen in sky over Ukraine's capital Kyiv https://t.co/TwBcexXHZJ

Twitter: @BBCWorld

すぐに切迫した様子の弟から電話があり、500kmほど離れた街で暮らす家族のもとへ帰りたいが、自分の車はガス欠だから、家まで送ってほしいと頼まれた。

スニジャーナさんは躊躇した。だが、きっとすぐに戻って来られるだろうと、わずかな荷物と書類だけを手に、娘を連れて街を出た。

サイドミラー越しに見た空爆の恐ろしさ

自宅に戻ることができたのは、その約3カ月後だった。

その間、戦況は日に日に激化。弟の家を出て、娘とともに隣国モルドバの友人宅へ転がり込んだが、正式に国外へ避難するためには、一度自宅に戻ってパスポートを更新する必要があった。

手続きを終えて自宅を後にしたとき、見知った街並みはすでに、戦場と化していた。

友人宅に預けてきた娘のもとへ、一人で車を走らせるなか、今来た道に爆弾が落とされ、真っ黒な煙が立ち上る様をサイドミラー越しに見た。

「そこにいた人々は無事だろうか。戻って何か手助けをした方がいいだろうか--。色々な考えが頭をよぎり、どうしたらいいかわからなくなりました。涙が出て、ただ目を逸らすことしかできませんでした」

それまで、努めて明るく話していたスニジャーナさんだったが、このとき初めて言葉を詰まらせた。

「娘には私しかいないから」

スニジャーナさん親子が日本で暮らし始めて、半年が経つ。「いつか観光で行ってみたかった」と選んだ避難先だが、実際の暮らしは決して、“いい日”ばかりではなかった。

最初の1カ月は、日本政府が提供したホテルに滞在していたが、いきなり知らない国へやってきた11歳の少女にとって、慣れない食事や冷たいお弁当ばかりの毎日は、ひどくこたえた。

「どこでもいいからなるべく早く、キッチンのある家で暮らしたい」と、千葉県の公営住宅に入居した。いまは毎日、スニジャーナさんが手作りしたウクライナ料理などが、食卓に並ぶ。

娘のタイーシャさんは平日、毎日午後3時半から午後9時まで、元々ウクライナで通っていた学校の授業に、オンラインで参加する。

現地に残った生徒たちと各地へ避難した生徒たちのために、ハイブリッド型で授業が続けられているが、戦況によっては、休みが続くこともめずらしくない。

スニジャーナさんは現在、求職中だ。

一時はウクライナ人コミュニティで紹介された都内のコンビニでアルバイトをしていたが、自宅からの往復が2時間ほどかかることや、夜勤のシフトもあったことから、どうしても続けられなかった。

「ある日、私が働いている間に大きな地震があったんです。日本の方々は地震なんていつものことじゃないかと思うと思いますが、私たちは地震を経験したことがほとんどなかったんです」

「家に1人でいた娘は怖がって、泣きながら私に電話してきました。そのとき、やっぱり娘を長時間1人にさせるような仕事は、まだできないと感じました」

「私たちは二人きりで日本へ来たので。娘には私しかいないんです」

「いつかわかってくれる日が来る」

軍事侵攻が始まって1年が経ち、ウクライナ国外へ避難した人の数は、807万人を超えた。

日本にも約2300人が避難しており、スニジャーナさんたちと同じように、新しい暮らしを一歩ずつ歩み始めている。

故郷へ帰れる日がいつ来るかもわからない中、葛藤は続く。スニジャーナさんは言う。

「日本の支援には本当に感謝しています。タイーシャにも日本での暮らしを楽しんでほしいと、できる限り色々な場所へ出かけ、人々と交流しようとしていますが、娘は頑なに『日本語は勉強したくない』『家へ帰りたい』と、毎日ふさぎ込んでいます」

「幸いにも、私たちはすぐに避難することができたので、娘は戦争の現場を目撃せずに済みました。でも、だからこそ、実際に何が起きているか、わかっていないんだと思います。そして、これが私たちの現実であるということが」

今ある人生を楽しまなければ。娘にそう伝えるために、スニジャーナさんは明るい声で笑う。

小さなことで喜び、先行きのわからない毎日を恐れる素振りを見せようとしない。

「今はウクライナでの暮らしが恋しいかもしれないけれど、日本へ避難したのも、すべては娘の安全のためです。いつか、そのことをわかってくれる日が来ると思います」