2018年8月9日

    8月9日、長崎から奪われたもの。原爆投下後の街をカラー写真で振り返る

    人工知能を使った自動色付け技術によってカラー化した写真で振り返る。

    戦後73年目の長崎原爆の日。

    時事通信

    広島・長崎での悲劇を二度と繰り返すまいと、長年にわたって原子爆弾の恐ろしさを語り継いできた被爆者の平均年齢は今年、82.06歳となった。生きた記憶は、遠ざかりつつある。

    あの日、きのこ雲にのまれた街には、どのような景色が広がっていたのか。そして、8月9日を境にどう姿を変えたのか。

    東京大学の渡邉英徳教授(@hwtnv)は、人工知能を使った自動色付け技術で、白黒写真からかつての風景を蘇らせるプロジェクトに取り組んでいる。

    渡邉教授はこうした技術による「記憶の解凍」はまだ間に合うと語る。教授らがカラー化した写真などで、当時の長崎を振り返る。(写真キャプションは渡邉教授による)



    東京大学・渡邉英徳研究室提供 / Via Twitter: @hwtnv

    73年前の今日。1945年8月9日、香焼島からみた長崎原爆のきのこ雲。松田弘道氏撮影。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供 / Via Twitter: @hwtnv

    73年前の今日。1945年8月9日、香焼島からみた長崎原爆のきのこ雲。松田弘道氏撮影。

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    73年前の今日。1945年8月9日、香焼島からみた長崎原爆のきのこ雲。松田弘道氏撮影。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供

    1945年8月9日11時02分、長崎原爆投下。このきのこ雲は、爆心地の北東18kmの地点からB-29によって撮影されたもの。

    73年前の今日。1945年8月9日11時02分,長崎原爆投下。長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡,約36%の建物が全焼・全半壊した。動画は16mmカラーフィルムで撮影されたもの。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供 / Via Twitter: @hwtnv

    貴重な長崎の被爆写真。軍医・原清さんが撮影。このアングルで撮られた写真は他にない。和歌山大学の原祐二先生からご提供

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    左は被爆前の長崎の街。右が被爆後。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供 / Via Twitter: @hwtnv

    左は被爆前の長崎の街。右が被爆後。

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    左は被爆前の長崎の街。右が被爆後。

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    1945年9月24日、長崎原爆の焼け跡に残された、爆風で折れ曲がった十字架。

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    1945年末に撮影された、原爆投下によって廃墟となった浦上天主堂。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供 / Via Twitter: @hwtnv

    1945年末に撮影された、原爆投下によって廃墟となった浦上天主堂。

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    1945年末に撮影された、原爆投下によって廃墟となった浦上天主堂。

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    原爆で破壊された長崎・浦上天主堂の南壁入口付近。 入口の柱に亀裂および台座にずれが見られる。 中央奥は北壁。米軍が撮影したカラー写真。

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    被爆後の長崎。アメリカ軍が爆心地近くの飛行場に掲げた「ATOMIC FIELD」の看板。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供

    長崎原爆投下の翌日の朝、日本軍カメラマン山端庸介氏によって撮影された写真。「ラッキー・ガール」という見出しで「LIFE」誌に掲載された。実際は創作写真だったとのこと。

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    アルバム、はさみ、陶器のかけら。1945年に長崎で撮影された写真。

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    長崎、爆心地から南へ約1.5km。爆風により破壊された路面電車。原爆により21両の電車が破壊された。

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    1945年8月10日、長崎原爆投下の翌日、破壊された街を歩く人々。山端庸介氏撮影。

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    被爆一ヶ月後の長崎で撮影された写真。奥にみえているのは浦上天主堂。手前にある動物の白骨は馬のものだろうか。

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    1945年8月9日11:02、長崎原爆投下。写真は爆風で破壊された山王神社の鳥居。いまもこの姿で現存している。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供

    西方から西中町天主堂を見る。手前は大黒町一帯。 中央は西中町天主堂(現在のカトリック中町教会)。その左手前および右端の建物は焼け残った土蔵。米軍撮影。

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    1945年8月9日、永井隆博士は長崎医科大学で被爆。右側頭動脈切断の重傷を負いながらも救護にあたった。その後、被爆前から発病していた白血病の療養のため「如己堂」で過ごし、1951年に亡くなった。写真は長崎原爆の焼け跡を眺める永井博士のカラー写真。

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    1945年9月24日、長崎の被爆地に残された仏像。右手奥に山王神社の「片足鳥居」がみえる。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供

    1945年9月24日、長崎原爆の爆心地から北東に100m、松山橋のたもとの食糧配給所に並ぶ人々。右奥に浦上天主堂が見える。

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    被爆二ヶ月後の長崎。1945年10月5日、被爆地を視察する人々のカラー写真。

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    長崎への原爆投下後、破壊された浦上天主堂と、再建のために働く人々。

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    終戦直後の長崎。裂けたセンダンの巨木と山里国民学校(現・山里小学校)。学校の側に,被爆後に建てられた木造の家がみえる。爆心地から北へ800m。1945〜46年のカラー写真。

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    被爆後の長崎・元船町電車通りのカラー写真。大波止方面に至る市内電車の軌道。 中央は食糧の配給を受けるために集まった人たち。 米屋(配給所)の屋根には被害のあとが見える。

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    終戦直後の長崎駅前。線路の上を荷物を背負って歩く女性たち。トタン屋根のバラック小屋が多く建てられた。1945〜46年にかけて撮影されたカラー写真。

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    終戦直後,長崎・佐世保の女性たち。1945年9、10月に米軍が撮影したもの。

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    戦後1年目の長崎。Blair A. Walliserが撮影した通学風景。

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    戦後1年目の長崎。Blair A. Walliserが撮影した通学風景。

    東京大学・渡邉英徳研究室提供 / Via Twitter: @hwtnv

    戦後1年目の長崎。Blair A. Walliserが撮影した通学風景。

    UPDATE

    一部キャプションを修正いたしました。


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