主語は「私」 産んでも産まなくてもこれで良かったと思えるように

    『産まないことは「逃げ」ですか?』を出版した吉田潮さんインタビュー

    子育ての苦労はよく見聞きするが、産まなかった人の居心地の悪さはあまりクローズアップされない。記者もそうだが、「気ままに生きている」と見られるのはまだしも、少子化が問題になる時代、「大人としての義務を果たしていない」と批判されることさえある。

    「欲しくてもできなかった人」「はなから子供を産むことを選ばなかった人」など、産まない理由も様々だ。

    そんな中、自身も子供がいないコラムニスト、吉田潮さんが不妊治療を経て、産まない生き方に納得するまでの考察を綴ったコラム『産まないことは「逃げ」ですか?』(KKベストセラーズ)を出版した。子供のあるなしに関わらずじわじわと共感を広げているのはなぜか。お話を伺った。

    「結婚したら子供を持つのが当たり前」という圧力

    ーー産まなかった人の悩みや苦労ってあまり取り上げられることがないですね。酒井順子さんの『子の無い人生』が話題になったぐらいでしょうか。

    今の時代、世の中全体が「子供がいるのが当たり前」。特に「結婚したら子供を産むのが当たり前」という、目に見えない圧力があるんですよ。そこに抗う勇気もないですし、自分がマイノリティーであることを自覚しているからかもしれないですが、あえて子供がいないことを大声で言わないし、言えません。

    ーー言わないのか、言えないのか。どちらが大きいですか?

    言えない、の方でしょうね。産まない選択について語っても、「産んでないくせに何言っているんだ」「産んで一人前」という声がまだ幅を利かせていますから。今は、結婚に関しては割と自由な空気になってきて、「結婚しない人生もありだよね」と言えるようになってきました。だけど、「結婚して子供を産まない」は少数派。結婚と子供はセットになっています。

    ーーご自身は不妊治療をした後に、本当は子供が欲しくなかったのだと気づいたのですね。

    最初の結婚の時は、仕事が楽し過ぎて、ピルも飲んでいましたし、一度も子供を欲しいと思ったことがありませんでした。今の夫と付き合ってから初めて妊活を始めたのですが、今の夫との結婚はいわゆる震災婚です。後から考えると、東日本大震災の時は、テンションが普通ではなかった。

    あの時は津波の映像や、原発が大変なことになっているのを見て、唐突に命のことを真剣に考えました。私も夫も生き残り、そこに子供がいたらちゃんと命に向き合うかなと思ったんです。それは後から振り返ると、本当に子供が欲しいと思ったわけではなく、エキセントリックになっていたせいだと思います。

    ーー「子供が欲しい」という気持ちの正体を深く掘り下げています。本当に欲しい人もいるでしょうし、吉田さんのように本当は欲しくなかったと気づくと、楽になるかもしれない人もいると。

    私は体外受精を2回やって、2回目で妊娠しましたが流産しました。私はそれだけで挫けましたが、周りには不妊治療から抜け出せなくなっている人もいますね。私の場合は、子供がいる人生やその先の子育てを全く考えたことがなかったことに気づき、単純に熱に浮かされていただけなのだとわかりました。

    おこがましいのですが、私が気づいたことを伝えることで、子供がいなくちゃ人生が始まらないと思っている人がふと違う視点を持てたら、全然違う人生が見えてくることもあるのではないかと思ったんです。

    不妊治療をしていると、先が見えないので視野がとても狭くなる。時間もお金もかかるし、精神的な負担も大きい上に、自分に対して不全感を抱いてしまいます。そもそも女性って視野が本当は広いのに、こと不妊とか結婚しなければならないという考えにとらわれると視野がぐっと狭くなりがちです。

    ーーその視野を広げるにはどうすればいいのでしょう?

    自分の視野を狭めているのは、世間体とか自分の親や義理の親とか、自分ではない人を主語に置くことなのではないでしょうか。自分を主語にしたら、ぐっと見える世界が広がって楽になるのではないかと思います。

    産んだ人、産もうと思っている人からの意外な共感

    ーー本の反響はどうでしたか?

    「今、読みたかった本だ」という声が多かったのですが、これから子供を産もうと思っている人や、すでに子供を産んだ人など属性がバラバラなのが意外でした。想定していたのは、産まなかった人や、30代で結婚もしていなくて、子供を産むのはもう遅いかなとモヤモヤと焦りがないまぜになったような人でした。でも、幅広い人から「こういうの読みたかった」と言ってもらえた。

    ーーこういうのって何なのでしょうね?

    たぶん、思っていることを素直に言葉に出したということなのでしょう。「私は本当は子供が苦手」など、今の社会で女性がなかなか口に出しづらいことを代弁したという感じなのかなと思いました。子供がいる人からもそんな反応があったのは面白かった。

    ーー「お母さんコスプレ」という言葉で表していますが、母親になるとはこういうことだという「理想の母親像」が女性の意識の中に入り込んで、自分自身を縛ると書かれています。

    女の人って大変です。どんな時も綺麗でいなくちゃいけないし、働かなければいけないし、子供ができたら子供を可愛がって、ご飯も作るわ、洗濯もするわ、やるべきとされているタスクが多すぎる。「これ、私苦手です!」と言えたら、どんなに楽か。子供を産むことだって、子育てだって苦手な人はいるはずなのに、言えないことが、余計女性を苦しめています。

    「理想の女性像」という役割期待

    ーーなぜ女性はそういうプレッシャーが強いのでしょう。

    親の教育だけでなく、社会全体からかけられる役割期待だと思います。ただ、1990年代、私が20代の時に、潮目が変わったと思う時が一瞬ありました。ヤマンバとかコギャルとか汚ギャルが出てきた時で、彼女たちは自分が主語。「男の子にモテる」とか、「可愛いお嫁さん」のような、周囲の視線を基準に自分の理想を決めるという考えはなかった人たちです。

    先日引退を決めた安室奈美恵世代ですね。それまでのアイドルが世間や事務所に迎合する傾向があった中で、安室ちゃんは自分のスタイルを貫き、子供も産んで、自分を貫く、自分で自分の尻を拭う媚びない女の子という姿を見せた。

    その直前はバブルで、男性をアッシー、メッシーと言って使いながらも、結局はみんな結婚して家庭に入って、子供を産んでという前近代的なものをなぞっていただけでした。やっと女たちが自分を主語に声をあげたと思ったら、その後、不景気が来て、意気消沈して、保守的な考えに戻ってしまいました。

    ーーそうすると、また女性は縛られているということですか?

    可愛くてゆるふわでおっぱいが大きくて、料理上手で汚部屋に住んでいない。ニコニコして男の人の愚痴を聞いてあげる、という女性像に戻っている印象を受けます。主従の従の道に入るのをよしとするような流れに戻りつつある。

    それでうまくできる人はいいし、それがまだマジョリティーなのだと思います。でも、うまくできなくて、呪詛を垂れ流しながらキャラ弁を作っているお母さんや、結婚して幸せですと言っているタレントのツイッターにひどい悪口を書き込んでいる人もいます。それは自分が主語で生きていないからじゃないでしょうか? その苛立ちを他者への攻撃に向け、寛容でなくなっている。いろんな人がいていい、という方向になってほしい。LGBTもそうですしね。

    ーー吉田さんは新宿2丁目の近くに住んでいらっしゃいますね。

    ここは人に優しい街なんです。女の子はこうしなさいとか男はこうあるべきだという固定観念から、この街は治外法権という感じがします。マイノリティーに優しいと、結局、みんなが楽に生きられるのだと思います。

    「理想の家族像」から外れたからこそ見えたもの

    ーー産まなかったからこそ、家族や子供について突き詰めて考えた気がしますね。

    自分の生き方について、立ち止まって考えなくてもいいということはすごく幸せですよね。私だって大きな病気をしたことがないから、病気について深く考えたことがない。自然に結婚、出産と進んだ人はそれが当たり前なので、考えないですよね。私は、子供が産めないという事実に突き当たった時に、これだけ子供を持つということについて考える機会を与えられたわけです。

    ーーそこで気づいた言葉が、子育てで行き詰まっているお母さんも励ましているのが不思議ですね。

    子供が苦手という4人の子持ちの私の友人も、子供が好きなふりをしなくていい、と私が言うのを聞いて、楽になったと言ってくれます。それが虐待につながると困るけど、子供は苦手でもやるべきことはちゃんとやっているならそれでいいんじゃないの?って思うんです。

    みんながキャラ弁作っているからと言ってやらなくてもいいし、刺繍や裁縫が苦手なのに、アップリケを縫わなくていい。手作りをすること、手間をかけることが愛情、という考えは、自分が主語ではなく、世間が主語になっているんだ、世間の圧力なのだと気づいたら楽になるのではないでしょうか。

    ーーしかも、ベテランママや子育てを終えた人ほど、理想的な母親像の圧力をかける側になるのは不思議です。

    子育てで報われていない人が多いのかもしれませんね。主語が自分で生きていないから、他人に寛容になれない。その主語がどんどん大きくなって、国家や生物学が主語になってくると、あらあらあらと思いますね。産まない女性に対して、国に対する義務を果たしていないような言い方をしたり、生き物として当たり前のことをしないなんてと言い出したり、主語が壮大になる。そこに個の尊重はありません。

    ドラマから見る「家族主義」の強まり

    ーーしばらく前から「毒親」という言葉が流行しました。親や子供はこうあるべき、子供のことを思うからこそこうさせたい、という、主語が自分や子供でない子育てが、両方を追い詰めている印象です。

    私はテレビドラマの批評コラムも書いているのですが、最近、テレビドラマの家族礼賛傾向が強くなっているんです。「過保護のカホコ」もそうですけれど、最終的に家族の愛に持っていくのは息苦しい。家族みんなで力を合わせて頑張ろうという価値観が良きものとして描かれることが増えています。

    そういう家族主義に追い詰められ、ストレスが溜まってモヤモヤしたものをみんな抱えているのに、その価値観に戻そうというのは保守政権と同じですよね。しかし、その方が視聴者に受けるというマーケティングがテレビ局にはあるのでしょう。

    ーー冒険したようなドラマはないのですか? 少し前に、ゲイの男性と結婚して家族になることを選ぶヘテロセクシュアルの女性のドラマがありました。

    「偽装の夫婦」ですね。ヘテロセクシュアル同士で結婚した夫婦でも、あの形はありうると思います。セックスしなくても幸せな共同体はいかようにも作れるはずですし、血のつながりのない子供を育てるとか、そういう小さな冒険はパラパラある。でもそれも家族という枠からは抜けきれていません。

    最近では脚本家の倉本聰さんによる、脱家族のドラマがありました。主人公は家族から脱して老人ホームに行くわけですが、孫娘から家族の縁を理由にたかられる。家族の絆や縁を断ち切ろうとするドラマだったので、これは話題になるだろうし、影響は大きいだろうと思ったのですが、やはり難しかった。

    こうあるべきという「呪縛」を脱ぎ捨てよう

    ーー産む産まないから始まって、家族ってなんだというところまで話が広がっているのが面白いと思いました。

    裏テーマは、「家族主義を卒業する」ということなんです。親子の絆が強調されすぎるし、親子が密着しすぎることで、自分を主語にして生きられない葛藤が生まれています。

    ーーご自身は今後どのように生きるつもりですか?パートナーと遠距離結婚が続いているそうですが。

    いずれは一緒に住むことになると思うのですが、夫と一緒に歩きながら、死ぬまで働きたいなと思っています。夫は年上ですから先に死んだらちゃんと看取ろうと思いますが、夫は頑丈だから私の方が先かもしれない。家族という形態にこだわらないので、周囲に友達が多い方がいいですね。

    そして、どちらが先に死のうが、いずれは一人になる。その時に寄りかからず、どっちもが自分の足で生きていける人生にしたいなと思います。

    ーーそのためにどのような社会になってほしいですか?

    世直しするつもりもないし、できないですが、女性誌にずっと書く仕事をしてきて感じるのは、女性誌のテーマってあるべきライフスタイルの提案なんです。女はこうあるべき、女はこうじゃなくちゃというのを言い過ぎてきました。

    そのうち、本当に必要なことだけを自分の人生に取り入れればいいわけであって、「これ本当に必要?」「これやって本当に幸せ?」って個人がもっと自問自答しないと主語が自分になれない。20代の女性でも子供はいらないと思う人はいるでしょうし、40、50代で子供がいない人生でも楽しいと思う人がもっと増えればいい。

    こうあるべきという「呪縛」を少しずつ脱ぎ捨てられたらいいなと思います。たぶん今みんな厚着でフーフー言っているんですよね。一つでもいいから、自分にいらないものを脱ぎ捨てて行くと楽になると伝えたいですね。

    BuzzFeed JapanNews