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医療者よ、街につながれ 「社会的処方」が上から目線にならないためにできること

コロナ禍でますます深刻化し、人の健康を脅かしかねない孤立や孤独の問題。医療者が地域のつながりを紹介する「社会的処方」が、上から目線にならないようにするには何ができるのでしょうか?

人の健康を脅かしかけない孤立や孤独に対し、医療者が地域のつながりを提供して、社会でその人を支えようとする「社会的処方」の取り組み。

医療人類学者の磯野真穂さんは、「人のつながりは、専門家から与えられるものではない」と、医学的な眼差しが病院の外側のありふれた暮らしの隅々に行き渡る可能性に警戒感を示します。

「医療の民主化」を目指す立場から「社会的処方」を推進する緩和ケア医、西智弘さんと磯野真穂さんの議論は、後半、さらに深まっていきます。

医療は孤立・孤独の負の影響を発見する入り口になるが......

西:国の政策の中に取り入れられ、社会的処方について講演で話す機会が増えました。人に説明する時に磯野さんが指摘する違和感は自分でも感じています。

孤立・孤独を放置していると寿命が縮み、認知症が進み、自殺率が高くなるという説明は医療の文脈で話すのですが、その対策については民間のグループの話になります。

医療者なら、「自分達もこういうことに取り組んでいかなければならないのだな」と受け止めると思うのですが、非医療者は「結局、医者からの指示を待てばいいのだろうか」と思ってしまうのではないか。

病院には、社会的な弱さの結果としての体調不良が持ち込まれることが多いので、それが孤立や孤独の問題を見つけるきっかけになります。医療は、その人を社会的処方につなげるための有力な入口の一つであることは間違いない。

もちろんその他にも児童相談所や包括支援センター、学校などが、孤立・孤独を発見する入り口になるかもしれません。そういうことを言っていった方が、みんなに必要性は伝わるのだろうと最近思い始めています。

「社会的処方」という言葉を使うことによって、僕自身、医療の文脈に寄せがちになる問題を感じています。

磯野:逆に、お医者さんはある意味、「処方箋」によって患者さんとつながることができているのかもしれませんね。

患者さんも「処方される」ことを期待しているし、お医者さんも「処方してあげる」ことが仕事の一つです。でも、「社会的処方」の目指すものは、一般的な「処方」では与えられないものを探す試みであると、西さんの試みや迷いを伺っていて感じます。

医療者よ、街に出よ 街とつながれ

磯野:もう一つ「社会的処方」の取り組みを学んで感じたのは、医師が「つながり」を「処方」せずとも、医療者が街に出て、どんな社会資源があるかを知り、そことつながってもらえばそれで事足りるのではないか、ということです。

西:その通りです。僕は医療者向けの本も書いているのですが、その中でも「街に出ていきましょう」と呼びかけています。

ただ、すべての医療者が街に出ていくのは難しい。緩和ケアの領域でも、その人の人生や生き方、生活に目を向けようと呼びかけているのですが、「自分は生物学的な病気に関してしか興味がないです」という医者も一定数います。

それはそれで仕方ないとも思います。

これまで、街と病院は分断され、医療機関には街から病気を隔離する役割も期待されてきたところがあります。もう一度地域とつながっていくためには、こういう「社会的処方」という言葉を使った方が、医療者が理解しやすいのではないかとも思うのは確かです。

磯野:医療の文脈では「処方」という言葉はありふれた言葉ですものね。「社会的処方」が医療の取り組みとして広がっていくとすると、「リンクワーカー(※)」のような人も職業として育成することになるのでしょうか。

※社会的処方をしたい医療者の求めに応じて、患者と面会して希望を聞き、地域の社会資源にマッチングさせる人

西:段階的にそうなっていくだろうと思います。ただ、ゼロから養成していくよりは、今いるケアマネジャーや地域包括支援センターなどが中心になって、ボランティア組織を市民の中に作っていくのがいいのではないか。

医療職が街の中に出て行き、「この街でどんなことが社会的課題になっているのか教えてください」とか、「面白いことをやっていますね。一緒にやりましょう」と街の中で暮らす同じ住民の一人として関わっていく。

「一緒に活動している〜さんは、実は医者だった」という感じのつながりが、あちこちにできていけばいいのではないかと思っています。

磯野:医療者主導で、医師が一般の人に考えを振りまくものではないことは理解しました。

医者が街の人とフラットな関係を築けるのか?

磯野:私は摂食障害の研究をしていたのですが、病院に通っても回復しない人は意外と多いです。その辺りの実態を踏まえ、自助グループを作り、地域で地道な活動を続けている元当事者の方たちが何人もいます。

例えば愛媛では元当事者の方が社団法人を立ち上げて、若い女性が社会復帰のためのスキルをつけられるような支援活動を始めました。これはまさに西さんが言う「社会的処方」と近い取り組みではないかと思います。

ただどうしてもお医者さんの中で、「自助グループに何ができるんだ」ということをおっしゃる人がいて、これは実際、私も直接耳にしたことがあります。

「自助グループのパンフレットを待合室に置いてください」とお願いしても、全然相手にしてもらえないといったお話も、ある当事者グループのリーダーから伺いました。

医療者の一部には、「非医療者に何ができるんだ」という視線を持っている人がいる。そういう医療者に対しては、「社会的処方」という言葉の方がむしろ響くのでしょうか。

西:そうかなと思います。まずはそういう医療者にも関わってほしいし、これは自分たちも関わるべき問題なんだと気づいてもらえたらいいなと思っています。

磯野:西さんはお医者さんとしてはかなり珍しいタイプなのだろうと思います。お医者さんはつながりを作るのが苦手な方が多いですよね(笑)。

西:はい(苦笑)。

磯野:トップダウンの組織で立ち回ることには慣れているけれど、フラットなつながりを作るのは苦手なのかなと、医師が教員を勤める医療系の大学で勤務したり、医療現場のフィールドワークを行ったりする中で感じることがあります。

そういう経験からも、つながりを作ることが必ずしも得意ではない人たちが、つながりを処方するというのは本末転倒な印象も受けます.....。

西:実は僕も決して人と人とのつながりを作るのが得意なわけではありません。今、「プラスケア」という一般社団法人を作って社会的処方の活動をしているのですが、スタッフからは僕が一番つながるのが下手だと指摘されているぐらいです。

「あなた、社会的処方を提案しているくせに、つながる気があるんですか?」と叱られたりして、「すみません」と言っています(苦笑)。

医者は病院というヒエラルキーの中でどうしてもリーダーであり、トップダウンで物事を動かすことが多いです。それを長年やっていると、横のつながりを作るのが下手くそになるんですよね。

「つながりを作ってあげましょう」という上から目線じゃない

磯野:でも今回、西さんが「社会的処方」という言葉を使う時の葛藤を話して下さったことは大きく、1年以上前のインタビュー記事をきっかけに、このようにお声がけくださったことをとてもありがたく感じています。

もちろん私は「社会的処方」という言葉にはこれからも反対し続けると思います。

でも、かつてあった社会的なつながりを現代にそぐう形で作り直すにはどうしたらいいのかという問題意識があることは理解できました。

ただ、厚労省が関わってくると変なことが起こりそうな不安があります。

西:磯野さんが危惧されているような、「つながりを作ってあげる」という上から目線のものにはしたくない。

支援という名のもとに、「孤立・孤独になっているのは悪いことで、つながりを作ることはいいことなんだから、つながり下手なあなたのために僕らがやってあげるよ」という感じにはしてはいけない。

引きこもりの人を無理やり家から引っ張り出したり、街の中の支援グループに入れたりする活動なんでしょと誤解されることも多いです。そういうことじゃない。

「支援することは善である」という意識や「寄り添う」ことは、向こうが求めていなければ迷惑です。時折見かける「こちらが正しいんだ」という支援者の固定観念は何なのかと思います。

磯野:本に書かれている中で「愛煙家座談会」の取り組みが面白かったです。どこに行って何をしてください、と指示するのではなく、病院に行ったらたまたま囲碁のセットが置いてあって、ゆるっと趣味を通じてつながっていくような形が面白いのではないかと思います。

※福井県で行われている愛煙家が集まって、タバコや健康について語り合う会。喫煙しながらタバコに対する思いが語られるが、実は健康も気にしている自分にきづき、禁煙につながる人も出てくる不思議な集まり。

フローチャートで支援の流れを描き、社会的処方をした結果、こういう成果が出ました、という話ではない。ただ「処方」という言葉を使った方が、医学の文脈では伝わりやすいわけですね。

西:そこに自己矛盾があるのです。その方がそういう人に関わってもらいやすくなるのですが、「処方」という言葉からにじみ出る、そういう上から目線と実際の活動のギャップは生じてしまいます。

「つながり指数」でマニュアル化? 

——私などは子どももいないので、いずれは一人になる可能性が高いのですが、「孤独死」を社会問題のように論じられると、「孤独死上等じゃん」とイキリ立ってしまいます。お二人が指摘する「孤独に手を差し伸べるのは善」という上から目線が広がると、「孤独な哀れな人間」とみなされそうでうんざりします。制度が作られる過程で、処方すべき人かどうかを決めるマニュアルなどができそうな嫌な予感がするのですが、どうなのでしょうか?

磯野:それは絶対にそうなるんじゃないですかね(笑)。

西:一応、マニュアルを作ろうという流れはあり、研究も進んでいます。孤立している人をすくい上げるツールを作ろうという動きがあって、質問紙で答えてもらい、引っかかった人には社会的処方のプログラムに乗せる形になっていくと思います。

人によっては、ありがた迷惑かもしれませんね(苦笑)。

磯野:社会的つながりと、孤立支援のマニュアル化はもともと合わない性質のものです。でも、エビデンスを出して効果を証明しなければならないとなると、絶対にそういうマニュアルが必要となるでしょう。

「つながり指数」のように数値化しないと、制度化する際に説得できないでしょう。でもそうなると本来やろうとしていたこととずれていく可能性があります。

医療制度や文化の違いは?

磯野:社会的処方は元々イギリスで始まったわけですが、日本と医療システムが違います。その違いはどう考えていますか?

西:イギリスは文化も違うし、医療制度も保健制度も違います。日本は日本のやり方があると思いますが、どういう形にすべきかはまだ明確になっていません。

少なくとも専門家だけが孤立・孤独に取り組むべきではありません。市民活動の中でつながりを作ったり、活動同士がつながったりし、社会的弱者とつながりやすい医療機関が市民活動とつながっていって、お互い協力してやりましょう、という形になるのが大事だと思います。

お互いに足りない部分を埋め合いながら、何ができるか一緒に考えていきましょうという方向性に向かって進んでいる感じです。

磯野:イギリスと日本では「個人」に関する考えが異なりますし、またGP(家庭医)制度があります。同じ人を長い間診ているお医者さんが「この人には社会的資源が欠けている」と気づく中で手段を繰り出すのはアリなのかなと思います。

日本の場合は「かかりつけ医」が必要だと言われ続けているのに、実現していません。みんなが好き勝手色々な病院にかかってしまうような国で、同様の社会的処方を実現する難しさはあるのかなと思いますがどうですか?

西:磯野さんがおっしゃったように市民活動は僕ら医療者がどうこうするものではなく、自然に立ち上がってくるものです。そこに参加したい個人がつながって、自由な市民の動きの中で勝手につながりができてくるものです。

今、僕らがやっていることは、民間セクターに専門家が入っていって、一緒にやるという方法です。

僕は「地域を耕す」とよく言うのですが、みんなで耕していって、少しでもいい芽が出てくるといいし、道が整備されて活動同士がつながりやすくなったらいいなと思います。

医師はシャーマンのような存在に 地域に戻っていく

磯野:人類学っぽ言い方をすると、「社会的処方」における医師は、シャーマンのような存在に近いのかなと思います。

一般的にシャーマンというと、奇妙なおまじないをしたり、呪いをかけたりといったおどろおどろしいイメージがありますが、そうではなく、その地域に根付き、伝統的な治療法を用いながら病いの治療にあたる人のことをここでは指しています。

もちろん西さんのような標準医療を用いる医師は、現代医学を治療に用いるわけですが、医師と地域のつながり方という意味で似ていると感じました。

民間セクターの中に専門職が戻っていく発想ですね。

西:僕が緩和ケア医だからかもしれませんが、いわゆるシャーマン的な医療のあり方も勉強したことがあります。その人の人生に関わっていって、時々助言を与えたり、科学という神の教えをお告げのように伝えたりする。

それに従うかどうかはその人の自由ですが、そういう関わり方を僕はやりたい医師なのだと思います。デジタル的な、エビデンスだけで治療方針を決める考えは遠ざけたいのです。

磯野:他方で社会的処方を制度化するとなると、どうしてもエビデンスを求められるのではないでしょうか?そこが難しそうです。

西:「社会的処方の効果はどう評価するのですか?」と聞かれて、いつも困っています。人と人とのつながりの成果は数値化できないと僕は思っています。

でも行政としては、何件関わったか、それによってどれぐらい医療費が削減されたかなど、デジタル化された指標を単年度で求めます。

磯野:大学の教員もそうやって短期的に可視化・数値化されることに疲れ切っていました。そういう官僚主義的な発想が人と人とのつながりを切っているのに。

制度化することで質が変わる懸念

——「アドバンスケアプランニング(人生会議)」を国が推進することになった時に、「医療費の適正化」が目標として掲げられたように、「社会的処方」も国の制度に組み込まれていくことで、質が変化することが懸念されます。

西:国の制度になっていくことで、社会的処方の本質が歪められることは僕たちも危惧しているところです。

僕は、制度化を目指したり、リンクワーカーという専門職を養成すればうまくいくと主張したりはしていません。一人ひとりが自分の街の中で何をするか、困っている人がいたらどうするか、みんなで取り組んでいこうよという呼びかけです。

確かに民間セクターだけでは限界もあると思うので、制度にすることも必要だとは思います。

例えば、人生会議に診療報酬をつけたら人生会議の本質が壊されるような可能性を懸念しています。例えば「人工呼吸器をつけない」という同意書を作成したら何点診療報酬としてつける、というやり方です。

人生会議はそういうものではありません。その人がどういう人生を歩んできて、どういう価値観を持っていて、どういうふうに過ごしていきたいと思っているかをみんなで日々語り合い、考えていくのが人生会議です。

社会的処方も制度に落としていく過程で、そういうデジタルな世界に向かいかねないという懸念はあります。

磯野:社会的処方が診療報酬制度の中に組み込まれたら、医療における「つながり」の規格化が進みそうです。

「つながり」が利益化されるばかりでなく、リンクワーカーが国家資格になり、もしかすると数年ごとに更新が求められ、そのリンクワーカーが「良い社会的資源」と「悪い社会的資源」を分別していく、というようなことも考えられるでしょう。

そうすると、病いに関する場作りをする人々も、「この場はどうやったら社会的処方の対象になるか」ということを考えざるを得ない。社会的処方の効果を評価するためのペーパーワークも増え、官僚主義的な負の側面に取り込まれる恐れがあります。

新しく資格を作るよりも、今いるソーシャルワーカーがよりしっかり活動できるような仕組みを作るとか、医師に自分の地域の社会活動を知ってもらう方がいいのかなと思います。

西:退院後に患者がどういう人生を歩んでいくかに、関心があまりない医療者もいます。社会的処方も、制度化して役割分担化してしまうことで、「リンクワーカーに引き継げば、もう医者が心配することではない」と考えてしまう人がいるかもしれないと恐怖を覚えることもあります。

磯野:「社会的処方」が制度化されたら、孤立していた人が救われる事例も確かに出てくるでしょう。「いい面もあるんだから」と、細かい違和感は気にせず進められるかもしれません。

ただ制度というのは、人の考え方、感じ方、暮らし方を根こそぎ変える力を持ちます。

なので私は、つながりを制度化し、「処方」として上から降らせるのではなく、多少、いびつな部分や、スピード感に劣る部分はあったとしても、日本のさまざまな場所で立ち上がる、下からの多様なつながりのあり方が、横につながってゆくことを願っています。

そして「つながり」の立ち上げ方、維持され方が、「良い・悪い」で制度の中で一元的評価をされない環境を望みます。

(終わり)

【磯野真穂(いその・まほ)】医療人類学者

1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士課程後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。研究テーマは、リスク、不確定性、唯一性、摂取。

著書に『なぜふつうに食べられないのかーー拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界ーーいのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想ーやせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『急に具合が悪くなる』(宮野真生子氏と共著、晶文社)、『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』 (集英社新書)がある。

【西智弘(にし・ともひろ)】川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンター腫瘍内科医

2005年北海道大学卒。家庭医療を中心に初期研修後、緩和ケア・腫瘍内科の専門研修を受ける。2012年から現職。現在は抗がん剤治療を中心に、緩和ケアチームや在宅診療にも関わる。

一方で「暮らしの保健室」や「社会的処方研究所」を運営する一般社団法人「プラスケア」を起業し、院外に活動の場を広げている。日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医。

『緩和ケアの壁にぶつかったら読む本』(中外医学社)、『がんを抱えて、自分らしく生きたい がんと共に生きた人が緩和ケア医に伝えた10の言葉』(PHP研究所)、『「残された時間」を告げるとき』(青海社)、『だから、もう眠らせてほしい 安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語』(晶文社)、『わたしたちの暮らしにある人生会議』(金芳堂)など著書多数。