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性急な物語化やラベリングは危険 安倍元首相の銃撃報道に精神科医が抱く違和感

衝撃的だった安倍元首相の銃撃事件。感情的な物語を引き出そうとしたり、犯人の属性を事件と結びつけようとする報道も目立ちます。そんな報道が受け取る側にどんな影響を与え得るか、精神科医に取材しました。

衝撃的だった安倍晋三・元首相の銃撃事件。

SNSでは、ショックや不安を語る人だけでなく、さまざまな憶測や対立を煽る言葉も飛び交っています。

さまざまな情報に翻弄されそうになった時、私たちはどう対処したらいいのでしょうか?

BuzzFeed Japan Medicalは、筑波大学大学院社会精神保健学分野教授の精神科医、斎藤環さんに聞きました。

デマ情報や煽る発言には打ち消しのカウンターも

——安倍元首相の銃撃と死亡のニュースに多くの人がショックを受けました。これは当たり前の反応でしょうか?

安倍さん自身が最も長期の政権を担った人で、一般の人の日常の一部になっていた時期があると思います。そんな普遍的な存在感を持った人がこういう形で命を奪われたことに、その政策に賛同する人も批判的な人も大きな喪失感を持つのは当然だと思います。

——先生はリアルタイムでご覧になっていたかわかりませんが、報道をどう見ていましたか?

その時は診察中だったので、空き時間にTwitterを通じて情報を把握していました。基本的には報道機関のツイートを追いかけていたのですが、狙撃されたことと、心肺停止状態であるという断片的な情報が入ってきました。

とんでもない誤情報が入ってくるということはありませんでした。

——様々なデマ情報や誤情報も錯綜したのですが、それはご覧になっていましたか?

私のフォローしている範囲だと、むしろ起こり得るデマや起こり得る反応を予測して、「こういうことは止めましょう」という注意喚起が目立っていました。大事件の報じられ方について免疫がついてきた、受け止める構えができてきたなと思いました。

発生日の時点でも既に「『今度の選挙は弔い合戦だ』ということにならないように注意しましょう」という呼びかけも拡散されていましたので、そういう冷静な態度は好感を持って見ていました。

——逆に「安倍政権批判をしてきた人たちのせいだ」という発信も見られました。

そういう発信はただちに炎上したようで、支持者よりも圧倒的に批判者の方が多かった印象です。これは健全な反応だなと思って見ていました。Twitterはデマを吹聴する装置でもありますが、すぐにそれに対するカウンターが出てくるのもTwitterです。その健全さが今回発揮された印象です。

感情的な物語作りはトラウマにつながる危うさも

——銃声や倒れている様子、犯人をSPが抑え込む画像が繰り返し流れました。それを見る影響についてはどう考えますか?

震災や他の災害、事件の映像と同じで、見た人に対してトラウマティックな痕跡を残す可能性が高い映像だったと思います。

ただそういった映像を報じないことも難しいので、報道する側として、そういうショッキングな映像や音声が出ますよ、とあらかじめ知らせた上で流すなどの配慮があってもいいと思います。

ただ全く映像を流さないのも逆に不安を掻き立てると思いますので、ある程度はやむを得ない。私はNHKしか見ていなかったので、民放がどういう映像を流していたのかはわからないですが、こんなものだろうと思って見ていました。

安倍元首相の蘇生をした奈良医大の先生たちの記者会見も聞いていましたが、そっけないほど冷静な対応で非常に好感を持ちました。

メディアが家族の様子を尋ねても「知りません」と一蹴していましたよね。メディアが一生懸命、ナラティブ(物語)を作ろうとしているのだけれども、医師側はわかっていることとわかっていないことをはっきり分けて、分かっていることだけしか言わないのは正しいと思いました。

メディアもああいう姿勢で報道してほしいものです。

——逆に感情的な物語を作ろうとする報道側の質問には違和感を覚えたということですか?

他の事件でもそうですが、近親者や肉親の悲嘆反応を捉えて、それをフレームアップして報道しようという姿勢がどうしてもあります。人々が物語性を求めるからという面もありますが、物語性はトラウマティックな情報につながりやすい危うさもあります。

そこは抑制的に取材、報道してほしいところです。

私は見ていませんが、NHKが事件現場にいた女子高生のインタビューを流したことが批判されていましたね。これはさすがにちょっとまずいなと思いました。現場にいた人の話や近親者に直後に取材に行くのは精神科医の立場からは控えてほしいです。

事件現場での取材にも配慮を

——目撃者の話を聞くのは、何が起きたか知る上で重要な取材の一つです。その取材自体も控えた方がいいと思われるのですか?

ちょっと配慮がほしいところだと思います。事件現場で何を見たのかは、それを話した人のトラウマティックな経験でもあります。情報が欲しいのはわかりますが、直後に聞き出し、顔を晒して報じる意味があるのかと思います。

少し時間を置いてやるとか、きちんとフォローできるなら許容できるかもしれませんが、おそらく取材しっぱなしでしょうから。

——事件直後は興奮気味でいろんなことを話したとしても、それが後からその人にマイナスに働く可能性もあるということですか?

そうです。人によっては現場にいただけで罪悪感を持つ人もいるわけです。ましてやそれに関して世間にコメントをしてしまったとか、その時言ったことは必ずしも自分の本意ではなかったとか、などの後悔は起こり得ます。

現場にいたことの興奮や取材を受ける興奮が相まって、取材を受けた人はつい喋りすぎてしまうことがあります。あるいは自分の心とは少し違うことを喋らされてしまうこともあります。さらに、その場面だけが切り取られて動画サイトで晒されるリスクもある。

私も経験がありますが、取材はサービスさせられてしまうんですね。どうしても。取材者の意向を忖度する。結局、喋りすぎてしまうことが起きてしまう。そういうリスクを考えると、事件直後の興奮状態での取材は、精神科医としては謹んでほしいとしか言いようがないです。

例えば、顔を映さずに匿名で現場ではこういう声が聞かれました、という紹介でもいいわけです。映像があった方が説得性が増すかもしれませんが、そういう生々しさ自体が見る人に対してもトラウマティックな経験になり得ることを踏まえて、慎重にやってほしいです。

加害者についての報じ方 ラベリングにつながる情報を小出しにしないで

——加害者については早い段階で取り押さえられ、顔も名前も出て、宗教団体とのつながりなど彼の人となりや供述も断片的に報じられています。精神鑑定の可能性も出ていますが、加害者像の報じられ方についてはどう見ていますか?

私が見た範囲でも、特定の宗教団体の名前や精神鑑定の必要性、以前、引きこもりがちな生活だったなど、ラベリングにつながりやすい情報が断片的に出ています。これはよろしくないと考えています。

そういうことが、「精神障害者だから危険だ」「精神障害だからと言って免責されるのは許せない」とか「宗教カルトはヤバい存在だ」などの偏見につながります。そこから、外国人差別やヘイトスピーチの方向に発展する可能性もあるわけです。

もちろん私の専門である引きこもりに対しても、やっぱり引きこもりは危ない人間、という空気ができてもおかしくない。

事件との関連がよくわからないうちから、ラベリングにつながりやすい情報を小出しにするのは慎んでほしいですね。

——ただ加害者がなぜこうした事件を起こしたのかは、皆の最大の関心事でもあります。

私もこう話しながらも、分かっていることを断片的に出さざるを得ない状況なのは理解できます。それを抑え込むのは報道の自由の侵害かもしれないので、あくまでも精神科医としての要請ということです。

ただ最低限、分かっていることと分かっていないことは、はっきり分けて報道してほしい。また、複数見解が分かれることは両論併記してほしい。報道する側で一つのストーリーを作らないでほしいとは思います。

その死を選挙で利用すること、政策と重ねることの問題

——今、選挙期間中でもあり、元首相の死が選挙にどう関わるかが気になります。それを利用しようとする人もいるでしょうし、それに引きずられないようにしようとする人もいると思います。政治的な要素として使われやすいタイミングだと思います。これについてはどう思われますか?

タイミングとしては非常に選挙結果に影響しやすい時ではあったでしょうね。心情的には、「弔い合戦」のように話が進みそうな嫌な印象も受けています。

これは自民党側がそういうことは自粛してやってほしいところでしたが、そういう声もちらほら聞こえましたから、やはり利用はされるのでしょう。残念な気はします。こうした事件によって政治の方向が左右されてしまうことはあまり健全ではありません。

——こういう殺され方は政治家でなくても悲しいことですが、それと安倍元首相がやってきたことや評価が一緒くたになりがちです。

Twitterを見ていて思ったのは、いわゆるリベラル寄りの人であっても、皆一様に追悼はしていました。それは文化的な進歩だなと思って見ていたところはあります。

数十年前であれば、「坊主憎けりゃ」ではないですけれども、思想信条に賛成できない場合は、亡くなった場合も嘲笑する人もいたように思います。

1960年に社会党委員長の浅沼稲次郎氏が右翼少年の山口二矢に刺殺された事件では、右翼団体が鑑別所で自殺した山口の慰霊祭を行っていますが、そうしたことも現代ではありえないでしょう。


でも最近のネット上の発言を見ていると、影響力の大きい人ほど政策には賛成できなくても安倍氏の死を悼む発言や、テロを否定する発言が大多数で、政策評価と追悼は分けて考えるのが一種の常識として共有されている印象です。こうしたマナーは広く共有されてほしいですね。

情報を制限し、日常生活を普段通り送る

——この事件が起きて、昨日から「眠れなかった」という声や、「不安で仕方ない」という声がよく聞かれます。身体症状が出ている人もいます。そういう人へのアドバイスはありますか?

自分がショック状態であったり、トラウマティックなストレスにさらされたりしていることをまず自覚することが大事だと思います。「今、自分は危機的な状況にあるかもしれない」ということを自覚することから出発してほしい。

そういう人は情報との接触を少し絞っていただきたい。しかし、情報遮断は逆にまずいです。情報を完全に切ってしまうと、それは別の不安や思い込みの膨らみにつながります。

情報との接点は残してほしいのですが、ネット情報はつい取り込みすぎてしまうし玉石混淆過ぎるので控え目にするほうがいいでしょう。特にSNSは不用意に危険な話題が入ってくるので、控えてほしいです。

個人的なおすすめは、情報の取り入れ口をラジオに一本化して、ニュースはそこからしか聞かないことです。これが一番安全だと思います。私自身も東日本大震災後の一時時、情報源をラジオに絞って心を鎮めた経験があります。

——信頼できるニュースソースに絞って、画像は見ない。

心が不安定になっている時は、情報を制限することも心の安全を守るために必要かもしれません。

その上で日常生活を普段通りに送ることが非常に大事です。日々のルーチンは粛々とこなす。変わらなさを大事にしてほしい。

もちろん休養は十分とって、睡眠時間もしっかりと確保してください。できるだけ薬物やアルコールに頼らないで乗り切ってほしいと思います。とくに寝酒などが習慣化しないように注意してください。飲むなら、一人ではなく誰かと一緒に飲む方がいいと思います。

——コロナが増えてきたタイミングなので、人と飲むのがやりづらいですね。

家族がいる場合は家族と話すこともいいですね。とにかく一人で溜め込まないことです。自分が思っていることや感じていることを誰かに吐き出し対話をする。

ただし、今回は政治家の死なので、油断していると議論になってしまいます。アベノミクスの功罪とか、議論や対立に発展してしまって、口論などになってしまったら意味がありません。

そこは意識して、議論や説得はしない前提で、思いをお互いに吐き出しあうことが大事だと思います。政策評価はいったん脇に置いて、非業の死を悼み、不安と悲嘆を共有する時間を持つことです。

統計や事実に基づいて判断を 軽々な分析は控えるべき

——日本は治安のいい国だと言われているわけですが、選挙の応援演説で、SPがついている中、手製の銃で重要人物が撃たれて死んだということは、自分の足元が揺らぐ感じを覚えるかもしれません。社会に抱いていた信頼感がぐらついた場合はどうしたらいいでしょうか?

確かにそういう印象を持ってしまうことは避けられないと思うのですが、そういう時は統計を冷静に見ることが大事です。犯罪白書(法務省)や警察白書(警察庁)などですね。

そうした統計を見る限り、日本の社会の安全性は揺るぎないですし、青少年犯罪の減少傾向を見ても、20代の犯罪は国際的にも異常な低さだという特徴は揺らいでいません。

そういう統計に変化が現れたら懸念すべきですが、今回のように非常に特異な現象をもって治安が悪化していると考えるのは、特異な少年犯罪を大きく報道して「青少年が凶悪化している」と書きたてる報道と同じです。

統計的な事実を確認しながら、今回の特異な事件は別の枠で考えることが必要だと思います。

——こういう大きな事件があると、社会背景や社会不安と結びつけて解説しようとする動きが出てきます。どう思いますか?

現段階で、社会不安や社会情勢と結びつけるのは明らかに間違っています。もう少し容疑者の背景などの情報が開示されてからでないと、軽々に語るべきではないと思います。

色々と分析したい人はいるかもしれませんが、まだ何もわかっていない段階ですので、無根拠の煽りが一人歩きするのは危険です。それは避けてほしいです。

個人のストーリーを交換し合う対話を

——これから徐々にわかってくることもあると思いますが、情報とどう向き合うといいと思われますか?

不安を感じている人は信頼できる情報源を1本か2本に絞ってほしいですし、メディアの方もあまり早い段階で特定の物語に当てはめることを避ける報道をしてほしいです。

わからないのであればわからないままにして、そう述べる。いくつかの可能性があれば、複数列挙する形にして、確定的ではないことを伝えるべきです。わかりやすいストーリーに落とし込むのは控えてほしい。

わかりやすい因果関係や物語を求めすぎると陰謀論やデマにつながります。それに対してメディアは抵抗してほしいと思いますね。

——納得できる物語を安易に求められない中、元首相で現役の国会議員が選挙戦の中、公衆の面前で殺された、というインパクトが大きすぎる出来事に、私たちはどう対処したらいいと思いますか?

そうですね。それは本当に大きなインパクトのある出来事で、だから非常に多くの人が影響を受けています。

ですので、私はそれぞれの人がそれぞれのストーリーを交換し合う意味で対話をしてほしい。議論や口論ではないという「縛り」を設けた上で、個人としてこう思うと主観と主観を交換し合うことは意味があると思います。

ただ、くれぐれもネット上ではなく、対面でやっていただくことが大事です。

——自分個人の物語に落とし込むことがなぜ重要になるのでしょう?

基本的には、ナラティブとして統合されない、断片的な記憶がトラウマになるわけです。ある程度のまとまりを得たストーリーを持つことによって、過度のトラウマ化を防げます。

もちろんストーリーのあるトラウマもありますが、断片化された記憶よりは有害ではない。

こういう大きな事件が起きた時に、それによってショックを受けた、傷ついたというのは正常な反応です。それまで否定する必要はないし、むしろ何も感じない方が異常です。

それがとっ散らかった断片化した記憶となって残るよりは、その人個人のストーリーとして収まるべきところに収まる方が影響は少なくて済むと思います。

そして、そのストーリーが変な方向に偏ってしまわないためにも、誰か少数の信頼できる人のストーリーと交換する経験は大事だと思います。

今は悼む時 社会的な分析や業績評価は時間が経ってから

——「民主主義への挑戦」とか、そういうストーリーの発信も控えるべきだと思いますか?

今それをいうのは社会的な分断を煽る結果にしかならないと思います。それは事実かもしれませんが、社会的な分析はまだ早いです。

私は、本来ならば、今は亡くなった人を悼むことをすべき時期だと思っています。そちらを十分やった上で、社会状況に絡めた分析や、背景の報道、犯人への怒りはあってもいいと思いますが、今は悼む段階です。

2019年にニュージーランドのクライストチャーチのモスク銃撃事件が起きた時に、アーダーン首相は「悪名を手に入れようとした犯人の名前は今後決して口にしない」と毅然とした態度をとりましたが、ああいう冷静さを見習う報道があってもいいと思います。

憎しみや分断を煽るような発言や分析は待ったほうがいい。

安倍政権への評価もポジティブ評価が爆上がりで戸惑っていますが、そうした評価に関してももう少し後でいいのではないかと思います。

非常に存在感の大きな政治家だっただけに、政治的な分析や対立を生まない報道は難しいと思うのですが、それは時間をかけてやった方がいい。今の段階で性急に業績の評価や功罪に関して議論するのもいささか慎みを欠いた行為だと思います。

それをやりすぎることで、受け取る側の痛みを加速してしまう可能性もあります。

家族に対する詮索も今はすべきではないでしょう。おそらく喉から手が出るほどほしい情報だと思いますが、いずれご本人の方から何かしらのコメントを出す可能性もあるでしょう。それを待った方がいい。

今は悼むべき時期です。喪が明けてから、という人間らしい作法を報道に関しても守った方がいいのではないでしょうか。

【斎藤環(さいとう・たまき)】筑波大学大学院社会精神保健学分野教授

1961年、岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学研究科博士課程修了。爽風会佐々木病院等を経て、2013年4月から現職。

専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療・支援ならびに啓蒙活動。著書は『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)、『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋』(新潮選書)など多数。