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相模原事件後も止まらない「命の選別」 医療の世界の「自己決定」と「自己責任論」

相模原事件から4年。命を選別する思想はその後も繰り返し現れ、ALSの女性が医師二人に薬を投与されて死亡する事件まで起きた。相模原事件の裁判を傍聴し続けてきた作家の雨宮処凛さんがこの流れに対抗するために実践していることとは?

相模原市の知的障害者入所施設「津久井やまゆり園」で、元施設職員の植松聖死刑囚が2016年7月26日未明、入所者19人を刺殺し、職員を含む26人に重軽傷を負わせた「相模原事件」から4年が経った。

今年3月には死刑判決が確定し、事件としては一区切りしたように見える。

しかし、事件後も命を選別する思想の蔓延は止まらない。

元アナウンサーの長谷川豊氏は「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ! 無理だと泣くならそのまま殺せ!」とブログに書き、2018年7月、自民党の杉田水脈議員が「(LGBTは)生産性がない」とする発言をした。

2018年8月には、公立福生病院で人工透析をしていた女性が医師から中止を提案されて止め、女性が再開を求めたにもかかわらず、そのままにされて死亡した。

同年12月、若手論客の落合陽一さん、古市憲寿さんは雑誌の対談で「(高齢者に)『最後の一ヶ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」と語った。

そして今年7月にもまた、れいわ新選組の大西つねき氏が「命の選別」発言をして除籍処分となり、京都ではALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性の求めに応じて、医師二人が薬を投与して死なせたとされる嘱託殺人容疑で逮捕されたばかりだ。

こうした状況に危機感を抱き、無条件で生きるための草の根の運動を続ける作家の雨宮処凛さんは植松死刑囚の裁判もずっと傍聴し『相模原事件・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』(太田出版)を出した。

ALS女性の嘱託殺人事件が明るみになった翌日の7月24日、お話を伺った。

医療の世界の「自己決定」と「自己責任論」

ーーALSの女性の依頼に応じて医師二人が薬で死なせたとされる事件は衝撃でした。この医師らが、認知症の高齢者などを「今すぐ死んでほしい」人として殺すことを肯定したり、「オレはドクターキリコ(手塚治虫の漫画『ブラックジャック』の中に登場する安楽死させる医師)になりたい。というか世の中のニーズってそっちなんじゃないのかなあ」と書いていたりします。相模原事件と重なって驚きました。

断片的にしか見ていないのですが、植松死刑囚の言い分と近くて驚きでした。

植松死刑囚は日本の財政難を勝手に憂いて、「日本はもたない」とか、こんなに大変な人がたくさんいるのだから障害者を生かしておく場合ではないとか、こんなに無駄に税金が使われていると言っていました。

そういう話を、本来命を救うべき医師がそのまましています。

一定数の医師がそのような考えを持っていることは漠然とは知っていました。7月22日には公立福生病院の人工透析中止事件で遺族が病院を訴えた裁判の第一回口頭弁論に行き、報告集会にも行きました。

あの事件も医師が透析中止を提案し、それに違法性がないかが争点になっています。集会では被告側の「自己決定権」という言葉についても触れらましたが、医療の世界の自己決定は、一般の世界で言う「自己責任論」に近い印象を受けました。

色々な選択肢と十分な情報が与えられて、自分の自由意志で選べる状態が担保されていて自己決定と言えると思うのですが、それらが担保されている人はごく一部です。

選択肢も情報もないのに、「自己決定なのだから、仕方ない」という言い方はすごく危険だなと思います。

ーー要は実質一つの選択肢しかなくて、そこに誘導されるような状態での「自己決定」を迫られるということですね。

そうです。人工透析の中止事件でも、あの件を擁護する医者の中では「医療費が莫大にかかる」という問題意識があるということを聞いていました。でも、現場の医療者がそういうことを言ったらアウトでは、と思います。

そうしているうちに、新型コロナが流行し、「トリアージ(緊急度や重症度に応じて治療の優先順位をつけること)」「人工呼吸器を誰に優先的につけるんだ」という議論が出てきました。非常時の中で、露骨に命の選別がなされるようになってきたと感じます。

どうやって呼吸器を増やすか、病院のベッド数を増やすかという議論にはならず、「誰を優先して生かすか」という議論には非常に違和感があります。

その中で今回、ALSの事件が明らかになりました。ああ、本当に行き着くところまできてしまったのだなと思いました。

またお医者さんの中でも少子高齢化で医療費が逼迫しているということがものすごく危機感を持って語られているのかなと思いました。財政問題と医療資源の分配が結び付けられているのでしょう。

ーー大久保愉一容疑者は厚労省の医系技官(医師免許を持つ官僚)だったので、医療財政はある程度知っていたと思われます。

そうですね。そういう言説には対抗していかないと危ないなと思いました。

刷り込まれてきた「障害=不幸」「高齢者=お荷物」という図式

ーー家族から厄介者に思われている高齢者を医療に紛れて殺して、罪に問われない方法などを電子書籍で出していたり、「自殺幇助がなんで罪になるのかがよくわからん」などTwitterでつぶやいたりもしていました。この事件を受けて、大阪市長ら一部の政治家が「尊厳死の議論を始めよう」と呼びかけているのも的外れではないかと感じます。

しかし、それを的外れと思う人も今の日本では少ないのかもしれません。

本人も「こんな姿で生きたくない」と書いていますね。

本人がALSになるまでにそういう感覚を持っていたのであれば、なおさら辛いのはわかります。

でも、様々な形で自立生活をして自分らしく生きるALSの人や障害者運動をしている人たちの生きる姿を見ていたら、「こんな風に豊かに生きられるんだ」と思えたかもしれない。知っていたら、そんな気持ちにはならなかったかもしれません。

寝たきりだったり、チューブがたくさんついたりする状況になってまで自分は生きたくないと言う人がおそらく多数派でしょうし、「無駄な延命で本人を苦しめているのではないか」と善意で言っている人も多い。

でもそれは、いろんな種類の病気や老いの問題をごちゃ混ぜにしている雑な議論だと思います。チューブだらけになって、胃ろうをして、呼吸器をつけて、そういう治療をして治る人が大勢いる。実際、コロナになって呼吸器をつけて回復している人はたくさんいます。

でも、コロナの感染拡大期じゃなかったら? 呼吸器に「つながれた」その一瞬の姿だけを見て「残酷」と思い、「無駄な延命」と思うかもしれない。治療の一瞬を切り取ったものを素人が見て、勝手に「かわいそう」などと決めるのはあまりにも雑です。

病気の種類によっても違うのに、寝たきりで、食事ができない、自力で排泄できないことイコール不幸、のような考えが広がっています。あまりにも雑に考えている。

私自身も以前は詳しく知らずに「チューブに高齢者を繋ぐのは残酷」という単純化されたものの見方に乗っかっていました。

自分が物心ついた1980年代から、少子高齢化で自分たちの世代は損をしながら上の世代を養っていかなければいけないと植えつけられてきました。幼い頃からある意味で世代間対立を煽られ、「お荷物になる高齢者を自分たち世代がいろんなものを犠牲にしながら面倒を見なければいけない」と刷り込まれてきた。

学校教育でも言われてきたし、メディアも散々煽ってきた。そういうやり方も間違っていたのだと思います。でも、普通に生きていたら、そんな刷り込みをどの段階でも修正することができない。

私はたまたまいとこが障害者だったり、障害者運動を知ったりしたことで、そんな考え方が間違っていることに気づきました。

でも、もしそういう出会いがなければ、普通に「不幸だよね」「医療費も大変だよね」「自分が障害者や高齢者になったら生きていたいとは思わない」という表面的な議論に特に深く考えず乗っていたとも思います。

れいわ新選組内部から「命の選別」論が出てきたショック

ーー雨宮さんが応援しているれいわ新選組の内部から、大西つねき氏が高齢者の増加が介護の人手不足を圧迫するとして「命の選別」を肯定する言葉を発信しました。植松死刑囚が「障害者は他人のお金と時間を奪っています」として障害者の命に線引きしたのと重なります。大西氏はコロナの流行でこういうことを考えるようになったと言っています。

コロナによって、緊急事態だから、「命の選別をしなくてはいけない」という人たちと、緊急事態だから「命の選別に絶対に誘導されないようにしよう」と丁寧に言ってきた人たちが見えてきました。

コロナは分岐点になると思います。

一番衝撃的だったのは、アメリカのアラバマ州で新型コロナの治療のガイドラインが提案され、重度の知的障害や認知症を持つ人たちは、人工呼吸器をつけられない可能性があると書かれていたことです。

これを聞いた時に、「本当に命の選別が始まってしまった」と思いました。これはすぐに撤回されてよかったのですが、イタリアやアメリカなど医療体制が逼迫している国では医療者が引き裂かれるような思いで治療に当たっていることに胸が痛みました。

でも、この議論に乗ってはいけないと自制してきました。この議論に乗る人は、もともと、有事の時は、そんな綺麗事を言っている場合ではないと考えていたのかもしれません。一つのリトマス試験紙ではないけれど、その人のスタンスがすごくむき出しになる問題だと思います。

大西さんの発言を擁護した人もたくさんいました。ただ、擁護するにしても、生命倫理についての無知が露呈している文章が多いとも思いました。

生命倫理の問題は、本当に繊細な問題を孕んでいます。安楽死・尊厳死、出生前診断、「無益な治療」論、代理出産や臓器移植、臓器売買、デザイナーベビー、そして障害者の問題など、どれほど様々な議論がされているか知らない人が多くいることもショックでした。

れいわで当選した二人がまさに重度障害者なのですから、そこから障害の世界に理解が深まった人が多いと思うのです。これほどいろんな議論が知られていなかったことに関しては、もっと発信していかないとという思いです。

ーー大西さんは、自分は高齢者の問題を言っているのであって、障害者や難病の人のことは言っていないと反論しています。

高齢者はだめで障害者はOKとすれば、その高齢者は何歳からで、その根拠は、という話になる。どこかに線引きをすると、その範囲が拡大していく可能性は否めません。

先ほど、「チューブに繋がれている人」という「不幸な人像」がありましたが、多くの人が雑に語っているように、雑にひとくくりにされる可能性がないと誰に言えるでしょうか。そして今、政権についている人たちは、果たしてこの7年以上、命を大切にする政治をしてきたか。

ただ、大西氏が高齢者を命の選別の対象者にしたのは、それほどまでに高齢社会が問題だと言われ続けたことの一つの弊害なのかなとも思います。

生きる気力を失わせる介護のあり方

ーー医師に殺されたALSの女性のブログやツイッターを見ると、「手間のかかる面倒臭いもの扱いされ」、ヘルパーから虐待を受けるなど人間らしい扱いをされないのがつらいという声が繰り返し出てきます。生きる気持ちを持ち直す表現も度々出てきて揺らいでいるのがすごくわかるのですが、死の5日前の最後のツイートはヘルパーにトイレ介助の世話が大変だと責められて、「施設行きになる」と脅され「惨めだ」という言葉で終わっています。

医師は気持ちは分かると言うけれど現状を理解していると思わない
常に身体的苦痛・不快を抱え、手間のかかる面倒臭いもの扱いされ、「してあげてる」「してもらってる」から感謝しなさい
屈辱的で惨めな毎日がずっと続く
ひとときも耐えられない
#安楽死 させてください
#ALS(2019年9月17日、女性のTwitterより)

65歳ヘルパー 体ボロボロなのは私のトイレ介助のせいなんだと責める
施設行きになる あそこに入ったら殺されると脅される
むかついてもやめろと言えない 代わりがいないから
惨めだ(2019年11月25日、女性のTwitterより)

それは辛すぎます。ヘルパーや事業所の介護のあり方が問われる話ですね。

ーー植松死刑囚も、自分が職員として勤めていたやまゆり園で、「ひどい飯を食っている」「命令口調で人として扱っていない」などと入所者が人間らしい扱いを受けていない姿に触れて障害者を見る目が変わっていったことが裁判で語られていましたね。入所者への暴力についても、先輩職員に「2、3年やればわかるよ」と言われ、そのうち自分も入所者の鼻先を小突いたりするようになった。こうした周りからの扱われ方が障害者を「生きていても仕方ない」という方向に追いやっている点でも重なるものを感じます。

結局、そこは裁判でも掘り下げられなかったところで、心残りなんです。

本の中で対談したノンフィクションライターの渡辺一史さんが、やまゆり園で車いすに長時間拘束されていた女性の話をしてくれました。女性は事件後、別の施設に移り、拘束を解かれてリハビリを受けるうちに、歩けるようになって地域の資源回収の仕事までできるようになったそうです。

表情までずいぶん変わったということです。やはり拘束されて生きるのと、誰かの役に立って「お疲れ様」と言われる生活を送るのとでは生きる張り合いが全然違いますよね。

支援の仕方で障害の重さが変わることの証明だと思うのです。

そう思うと、植松が「こんな生活をしている障害者はかわいそうだ」というようなことを言い始めた時、何か他にできることがあるのではないかと介助の勉強をしたり、違う施設に見学に行ったり、障害者運動を学ぶことだってできた。でも彼は、殺す方向に行った。

施設によっては、もし植松のような考えを持っても、じゃあ改善していきましょうと言える空気があったと思うのです。

16年に入ってから、植松は「あの人たちやばいですよね。いらないですよね」と軽い感じで先輩職員に言うようになったのですが、よく考えたら、それはSOSのようにも思えてくるのです。

自分が強烈な違和感を持った時に、あえて軽い感じで疑問を呈するのはコミュニケーションとしてよくあることだと思います。

本当は先輩に相談したり、同僚と話したり、共感し合ったりしたかったのではないか。それまで障害福祉についてまったく学んでいない若者が最重度の成人の入所施設で働き始めたのだから、いろいろと葛藤があったのは当然だと思います。

でも、植松のそんな葛藤に付き合ってくれる人はおそらくいなかった。現場はそれこそ忙しいですし。植松が差別的なことを言った時、上司は「心で思っても口にするな」と答えたそうです。

そんなことではなく、植松死刑囚はもっともっと根源的な話をしたかったのではないかとも想像するのです。

やまゆり園では植松がいた頃から「支援の振り返りノート」を書くようになって、こういう声がけをしようとか、利用者の入浴を急かすのはやめようとか書いていたそうです。

そのことは判決後の園長の会見で知ったのですが、私はそのノートは植松がおかしな態度をしたから始めた試みではないかという気もするんです。みんな植松が悩んでいることには気づいていた。「殺す」などおかしな言動をする以前に、深く悩んでいたと思うのです。

でも答えが出ないような彼の深い悩みに応じられる人がいなかった。もしかしたら、植松死刑囚はものすごく真面目だったのではないかとも思います。融通がきかないほどの真面目さ。

ーー友人たちに対しても、妄言として真剣に取り合ってもらえなかったということも書かれています。彼が時代の中で蓄積していった財政危機意識と、実際に見聞きした介護現場の違和感のようなものが組み合わさってとんでもない思想が培われていったように見えますね。

一つの疑問につまずくとそこから先に進めない不器用さを感じるのですよね。ショートカットに「殺す」という最悪の方法に至ってしまったけれど、あの悩みを前向きに解決できていたら、もしかしたら有能な介護者になったかもしれない。

もしかしたら介助者側から障害者運動の担い手にもなっていたかもしれない。それほどに今の障害者支援のあり方がいびつに見えたのだろうと思います。

(続く)

【雨宮処凛(あまみや・かりん)】作家・活動家

1975年、北海道生まれ。フリーターなどを経て、2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国 雨宮処凛自伝』(太田出版、ちくま文庫)でデビュー。2006年から貧困・格差の問題に取り組み、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(同)でJCJ賞受賞。

著書に『非正規・単身・アラフォー女性』(光文社新書)、『1995年 未了の問題圏』(大月書店)、『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)。『ロスジェネのすべて―格差、貧困、「戦争論」』(あけび書房)。最新作は『相模原事件・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』(太田出版)。