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「僕らのところによく来てくれたね」 重度の知的障害がある次男と切り拓いてきたこと

障害者の権利を守る活動をしている弁護士、藤岡毅さん。自身の次男もまた、重度の知的障害があります。一人の親として、障害のある我が子とどう生きてきたのでしょうか。

障害者の権利を守る弁護士として有名な藤岡毅さん(59)。次男の駿人さん(24)には、重度の知的障害がある。

弁護士活動について取材を受けると、メディアに「息子が安心して暮らせる社会を作るため」というストーリーを当てはめられることが多い。

でも、そう言われるとちょっとモヤモヤする。駿人さんが生まれるずっと前から、障害者支援の活動は続けてきたからだ。

「親としてそういう思いがあるのも確かですが、仮に障害児がいない弁護士だったとしても、同じことをやっているという自負はある。もちろん僕の中でも客観的に切り離せない現実問題ですが、普段の仕事は子どものためと意識しているわけではないですね」

弁護士ではなく、親として、障害のある我が子とどう生きてきたのだろう。

「僕らのところによく来てくれたね」

1997年11月に生まれた駿人さんの障害に気づいたのは、1歳になった頃だ。

「言葉がないし、ハイハイもなかなかできず、明らかに成長が遅い。そうではないかなと薄々気がついていましたが、正式に診断を受けたのは2歳の時でした」

障害児の療育を行う行政の施設で、発達障害の専門医から「自閉傾向を伴う広汎性発達障害」と診断を受けた。

弁護士になってすぐ結婚した妻の邦子さん(54)とは、学生時代から通っていた障害者のボランティアで知り合った仲。夫婦で結果を聞きに行き、特にショックは受けなかった。二人には温かい気持ちが湧き上がってきた。

「僕らのところによくきてくれたね、選んできてくれたんだねと話しました。かみさんも私と同じようにボランティアを長くやってきた人なので同じ感覚を共有している。むしろ、僕らのところに来てくれて良かったよねと、嬉しく思うような気持ちもありました」

邦子さんも「障害児を授かることは特別なことではないし、友人に障害者がいることも特別なことではない。肩に力が入っているわけでもない。私も夫もそれは当たり前のことだと思っていました」と話す。

同級生や保護者に理解してもらうための工夫

就学前は、同じ年頃の子との差をあまり感じずに過ごすことができた。しかし、小学校に上がってからは、言葉でコミュニケーションをするのが苦手で、食事、トイレなど身の回りの世話が必要であることから、様々な工夫が必要になった。

登下校に付き添うために、妻の邦子さんは作業所の職員を辞めざるを得なかった(現在は子育て支援のNPOを運営)。

普通学校に通った小学校低学年の頃は、毎月のように夫婦で校長室に通っては、校長、副校長、教務主任、担任、養護教諭ら7〜8人と話し合いをした。お願いしたい配慮を伝え、息子のためにどんな教育を望むのかを語り合った。

もう一つ大事だったのは、一緒に学ぶ同級生や保護者に駿人さんの特性を理解してもらうことだ。

「毎年手紙を書いて他の親御さんに配っていただくように学校にお願いしていました。全校集会で登壇して、かみさんが駿人のことを児童に説明したこともあります」

そんな努力もあって、学校の同級生たちは「はやちゃん」と呼んでは、困ったことがあったら手を貸してくれるようになった。

「はやちゃん、今日こんなことできたんだよ」と、学校での生活ぶりを教えてくれる同級生もいた。

弁護士として言えても、親としては言えないこと

それでもやはり集団生活の中で、もどかしいことはたくさんあった。

弁護士としては闘えても、親としては言えないこともある。

駿人さんのような重度の障害がある子どもや、医療的ケアが必要な子どもは、保護者の付き添いを通学の条件にされることがあるが、それは差別だと訴えた訴訟もある。藤岡さん夫婦も、遠足などの行事では親の付き添いを求められた。それには従うしかなかった。

「弁護士の立場と親としての立場では、親としての立場の方がものを言えないのです。弁護士としてならば、『こんなの差別じゃないか!』と強く言えますが、親としてはなかなか言えない」

「結局、駿人が通うためになんだかんだ配慮をしてもらったり、手がかかったりしています。もし、権利を強く訴えて、モンスターペアレンツのように思われたら、子どもも不利な扱いを受けてしまう。学校とは仲良く、うるさくない親だと思われたいわけなんです」

泣きそうになったアンパンマンのプール事件

忘れられないエピソードがある。

小学校1年生の時に初めてのプールの授業があった。駿人さんは水遊びが大好きだ。

だが、おむつが外れていなかった駿人さんは、プールの中でおしっこをしてしまうかもしれない。

藤岡さん夫妻は学校に呼び出され、「不衛生だから入れるわけにはいかない」と言われ、さらに校長はニコニコしながらこう言った。

「校長の裁量予算でアンパンマンのビニールプールを買いました。だから駿人君は、プールの中には入らずに、私が買ったアンパンマンのプールの中で遊ぶようにしてください」

良かれと思っての「善意の配慮」だ。だが、藤岡さん夫妻は強いショックを受けた。

「校長先生としては『私は良いことをやっている』という感じで言うんですよ。みんながプールで楽しんでいるそばで、駿人は幼児用のプールしか入れないという。夫婦で涙をこらえるのが精いっぱいで、何も言えずに帰りました」

一晩考え、校長室に再び行った。

「『うちの子は誰よりもプールが大好きなのに、一人だけ入れないのは耐えられません。なんとか入れさせてください』とお願いしたのです。弁護士として差別に抗議するのではなく、親としてのお願いです。それでも断られました」

そしてプールの授業の日。友達が入るプールのそばに置かれたアンパンマンの小さなビニールプールに駿人さんは満足しなかった。

「もう入りたくて入りたくて、現場にいた先生も入れざるを得なくなって、結局入れたんです。誰も本人の意思を止めることはできなかった」

藤岡さんは誇らしそうに言う。

「本人が切り拓いたんです。親が、弁護士とかみさんの二人がいくら抗議しても切り拓けなかったのに、小学校1年生の駿人自身が切り拓いた」

この経験は、弁護士として活動する時も、「当事者が主役。当事者の思いが壁を動かす」という教訓として心に刻まれた。

藤岡夫妻はこの時の校長と小学校にはとても感謝している。駿人さんが楽しい学校生活を送ることが出来たのは間違いないとも感じている。それでも時にはそんなすれ違いが起きた。

地域で一緒に暮らす 実際には綱渡り

学校生活は、手の空いた教員が交代で補助に入るなど当時としては最大限の配慮をしてくれた一方、知的障害のある子どもを一緒に学ばせることを快く思わない教員もいて、実際には綱渡りのようだった。

「給食はどうしても一人で食べられないので、1年生の時は理解ある副校長が毎日のように個別支援に入ってくれていました。しかし、『本来やるべき仕事ではない』という風当たりも強く、2年生以降は難しくなりました」

2年生以降は、障害児の修学支援をしているNPOや臨床心理学を学んでいる大学院生に依頼して、お金を出して個別支援に入ってもらった。

「今の公立学校には支援員制度がありますが、当時は義務教育であっても親のポケットマネーで対応するしかありませんでした。支援員を雇うために毎年150万円ぐらい払っていましたね」

小学校4年生ぐらいになると、都会の学校ではクラスのほとんどが進学を意識することもあり、授業中の雰囲気も変わってくる。駿人さんは何もできずに教室で固まっているようなことが増えた。

「そろそろ限界かなということで、5年生からは特別支援学校に移りました。中学、高校も特別支援学校に通い、卒業後は生活介護をする通所施設に送り迎えの車で通っています」

長男は「かっこいい、尊敬する父」

長男の遼さん(26)は家族のそんな姿を見て、今は障害児の放課後デイサービスの支援員として働いている。

「駿人の方を優先して長男をおろそかにしたつもりはないし、そんなことはないと思いたいけれど、面と向かって聞いたことはないです。それは正直わからない」と藤岡さんは語る。

遼さん自身は、両親が障害のあるなしにかかわらず子どもたちを思い切り可愛がってくれたと感じている。

「小さい頃から弟との扱いに差をつけられたことはありません。土日になると親子4人で自転車に乗って公園などに遊びに連れて行ってくれた。家族のことをいつも大事にしてくれる優しい父です」と語る。

両親が根気強く理解を得るために働きかけたこともあり、学校でも兄としてつらい思いをすることはほとんどなかった。

「たまに僕の同級生から、からかわれることはありましたが、駿人は同級生たちに恵まれていたこともあり、周りから爪弾きにされたようなことはありません。みんな『はやちゃん、はやちゃん』と言って仲良くしてくれていたし、僕はむしろ『はやちゃんのお兄ちゃん』と呼ばれていたぐらいです」

父の仕事を意識したのは、高校の推薦入学の時に作文で父のことを書いた時だ。

「障害者のために働く父を素直にすごいなと思いましたし、尊敬しました。僕が今、障害児の支援員の仕事をしているのも、弟のこともあるし、父の仕事にも影響を受けていると思います」

成人した今、障害者の弁護活動を続ける父と、子育て支援のNPOを運営している母と、障害児の支援をしている自分と3人で仕事の話をしながら酒を酌み交わすこともある。

「今、何よりすごいと思うのは、父は利益は関係なく、世の中を良くしたい、障害者や社会のために、ということを優先に仕事をしていることです。割の合わない仕事を引き受けることが多いのですが、そんな父のことを僕も母もかっこいいなと思いますし、人として尊敬しています」

地域で共に生きることが、偏見を取り除く

駿人さんが20歳になった時は、中華店の一画や近所の蕎麦屋を借り切って、歴代の先生や援助者を呼んで感謝の集いを開いた。皆、駿人さんの成長を我ことのように喜んでくれた。

24歳になった駿人さんは今、将来のグループホーム生活の準備として月2回のショートステイの宿泊と、駿人さんが小学校3年生のときから担当してくれているヘルパーさんとの月2回ほどの外出などを楽しみに生活している。自宅に帰ってからは、両親が食事や風呂などの身の回りの世話をして、寝かしつける。

親亡き後に駿人さんがどう生活していくかは、藤岡さんはそれほど心配していないという。

「親亡き後にこの子がどうなるのか心配でたまらないというのが障害をもった子の親の定番なのでしょうが、私たち夫婦は、私たちが死んだらそれはそれでどうにかなる、なってもらわないと困ると開き直っています」

「地域で支援者と共に当たり前に暮らせるようにするということですから、今やっている弁護士としての活動とそんなに変わりません。障害のある人が自分の生活は自分で切り拓くことを理解しているサポートさえあれば、将来、一人になったとしても地域生活は営めるはずだと思うのです」

2016年7月に起きた相模原事件はショッキングなできごとだったが、それだけに一言では語れない。この国にじわじわと広がる優生思想に抗うには、重度障害のある人たちが自分たちと同じように生きているということをリアリティを持って感じてもらうことが必要だと思っている。

「制度論で言えば、学校は出会いの場として大きいのです。たぶん駿人と小学校で4年間親しく付き合った子どもたちは、理屈抜きで知的障害者に対する偏見は持っていないし、大人になっても変な距離感はないと思います」

「自分の思いが理解されずにイライラして興奮することもありましたが、同級生は『はやちゃんはこういう時にイライラするんだ』と、接し方をわかってくれていました。これが大人になってから出会って『危害を加える人』という目で見たら、仲良くするのは難しい。遠ざけたくなるでしょう」

「知的障害のある人に対して、『ああ、はやちゃんのような人が大きくなったんだね』という感覚を持ってくれれば、社会から排除する行動には出ないでしょう。大人になってから頭で理解するのは厳しいので、教育を分けないこと、肌感覚で仲間だという意識を持つことは大きいと思います」

駿人さんが地域の人と交わりながら生きてきたことで、きっと障害がある人の居場所は広がっている。親としてそんな祈りのような思いがある。

(続く)

【藤岡毅(ふじおか・つよし)】弁護士

1962年生まれ。1985年4月、中央大学法学部中退。ビル管理清掃会社でビルの窓拭き作業に従事した後、1992年10月、30歳の時に司法試験合格。1995年に弁護士登録。2001年4月、独立して藤岡毅法律事務所を開設。障害者の介護時間を行政と交渉する介護保障事案などを中心に、障害者の権利を守る弁護活動をライフワークとする。

介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット(介護保障ネット)の共同代表、東京弁護士会高齢者・障害者の権利に関する特別委員会福祉制度部会長も務める。