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「自分にとって当たり前のことをやっているだけ」 障害者の人権のために闘う弁護士がどのように生まれたのか?

障害者が地域で当たり前に暮らす権利を守るために闘う弁護士、藤岡毅さん。大学中退、ビルの清掃員、 司法試験6回不合格など回り道をしながら出会った何が、今の場所に導いたのでしょうか?

障害者が地域で当たり前に暮らす権利を守るために闘う弁護士がいる。

藤岡毅さん。59歳。「介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット(介護保障ネット)」の共同代表で、東京弁護士会高齢者・障害者の権利に関する特別委員会福祉制度部会長を務める。

粘り強く、膨大な手間をかけた証拠集めと熱のこもった弁論で、裁判官や行政の判断を動かしてきた。

今の日本では障害があると、社会の様々な壁に阻まれる。家族が介護を背負い込むことになったり、病院や施設で生涯を送ることになったりすることも多い。社会の冷たい空気や家族の負担を考えて、生きる意欲さえ奪われることもある。

「でも、拳を振り上げて理不尽な社会の壁をどうにかしようという自覚を持ってやっているわけではない。自分にとって当たり前のことをただやっているだけなんです」

大学を中退し、ビル清掃員をしながら7回の司法試験受験で弁護士になった。回り道をしながら出会った何が、藤岡さんを今の場所に導いたのだろうか。

障害児殺しを「無罪」と考える感覚に反発

幼い頃から女の子がいじめられていると、喧嘩が弱いのに立ち向かってはボコボコに殴られるような少年だった。

「高校2年生ぐらいの時に、自分はどんな仕事に向いているかなと考えた時に、そんな青臭い正義感にぴったりなのは弁護士なんじゃないかと思ったんです。たくさんの権力者を敵に回しても正義を実現する仕事というイメージがありました」

障害者の人権を初めて意識したのは、大学浪人中の時だ。北里大学に通っていた親友に誘われて、医学部・薬学部・獣医学部合同の法学の授業の模擬裁判を見に行った。

題材になったのは、脳性まひ当事者の会「青い芝の会」が告発した、障害のある娘の将来を悲観して母親が命を奪った殺人事件。

教授は学生たちに判決とその理由を書かせた。「模範解答」は、障害児を育てる上で母親は苦労し、汲むべき事情があるからとして「執行猶予」だった。

藤岡さんは、人を一人殺した以上、実刑判決だろうと思っていた。割り切れない気持ちを抱えた帰り道、学生たちから「あんなの無罪だよな」という声が聞こえ、背中から寒気が一気にせり上がってきた。

「障害を持った人の立場に思いを致そうという感覚がない。『本人だって本当は生きたいと思ってないんじゃないの』という声も聞こえました。お医者さんになるような人たちは、『重い障害児は殺しても仕方ない』と考えるものなのかと衝撃を受けたのです」

そんな疑問を抱きながら、藤岡さんは自分自身の感覚も疑っていた。

「『じゃあ、お前は実際に友達に障害者や障害児がいて、実情を知っているのか?』と自分に問いかけると、そういう経験がない。私自身も何も知らずに生きてきたと気がつきました」

受験が終わって自由の身になったら、そういう世界を知ろうと決めた。

1982年2月、中央大学合格の通知が届いた次の日、近所の「訪問の家」に飛び込んだ。重度心身障害者が地域で暮らしていけるように支援する草分け的な存在。「手伝わせてください」と頼みこみ、ボランティアとして通うようになった。

団地で一人暮らしをしていた重度心身障害がある女性のバギーを押して、外出を手伝うようになった。

大学でもボランティア活動にのめり込む

大学に入学してからも、大学の「社会福祉青い鳥」というボランティアサークルに入り、重度障害者の支援にのめり込んだ。

大学1年の時は、成瀬史恭さんという重度の身体障害がある男性の外出時に車いすを押したりするボランティアに通った。後に、成瀬さんはやはり重度の身体障害がある君子さんと結婚し、君子さんのボランティアをしていたのが後に藤岡さんの妻となる邦子さんだ。

成瀬さんは「真面目で一生懸命な若者でした」とボランティア時代の藤岡さんを懐かしむ。

「一度、東京都の障害者会館が、『日曜日の夜はここで活動しないように』と閉館しようとした時に、『それはおかしいだろう』と学生の藤岡さんが交渉を手伝ってくれたことがありました。結局、開館を認めさせたのです」

そんな藤岡さんが弁護士になったことについて、「頼もしい存在ですね」と喜ぶ。

成瀬さんは当時、「空飛ぶ車いすの会」という障害者が旅行や外出を楽しむために支援する団体の事務局長をしていた。

そして空飛ぶ車いすの会の事務局は、脳性まひの当事者で、激しい障害者運動を繰り広げた「青い芝の会」の生みの親でもある高山久子さんの自宅にあった。

「そこに成瀬さんが通うから僕も出入りするのですが、言語障害が強いから最初のうちは二人が何をしゃべっているのか全然聞き取れない。だけど慣れてくるとだんだん二人がいつも冗談言い合ってはゲラゲラ笑っていることがわかってきました」と藤岡さんは話す。

「そんな姿に接していると、あの北里大学の模擬裁判で自分が思ったことを飛び越えて、自分も何も知らなかったと気づいたんです。重度障害がある人が死にたがっているなんてばかばかしいことはなくて、こんなに生き生き、楽しく、当たり前に同じ人間として生きているんだと肌感覚でわかった」

それからは「自分は何も世の中のことを知らない」と、せきたてられるような思いであちこちの障害者支援の現場に飛び込んだ。

「弁護士になれば、すぐに『先生』と呼ばれるような存在になると知っていたし、実際にそういう姿を見てきたので、弁護士になってから知ろうとしてもバイアスのかかった世界しか見られない。弁護士になる前にと強く思っていました」

障害者だって同じように学ぶ権利がある 大学2年生で行政と交渉

法律の知識を使って障害者の権利のために初めて戦ったのは大学2年生の頃だ。

ボランティアサークルへの依頼に応じて、後に目の見えないピアニストとして世界的な名声を勝ち取る梯剛之さんのところに、点字を教えるお兄さんとして通っていた。

6歳だった梯さんは当時、地元の八王子市立小学校への入学を望んでいた。しかし、市の教育委員会は「全盲の児童を受け入れると、他の児童の教育の妨げになる」と入学を拒否していた。

藤岡さんは一緒にボランティアに通う同級生と共に、まずは内容証明付きで教育委員会に手紙を送ることを提案し、下書きを用意した。

それでも教育委員会は拒否の姿勢を崩さない。

そこで、入学予定の子どもの保護者や地元住民から、「梯くんが入学することに賛成する」という署名を集めた。

「僕らは教育委員会の偉い人が出てくる会議にその署名の束を持ち込んで、ドンと目の前に突き付けたんです。青ざめていました。他にもいろいろやったのですが、これが決定打になり、全盲の小学生が補助教員付きで入学することを認めさせました。八王子市では初めてのことです」

また、同じ大学2年生の時に、脳性まひの小野広司さんという男性が、都立高校を受験し、定員が満たないのに不合格になったのに疑問を投げかけ、「障害のある人も教育を受ける権利がある」と交渉を重ねたこともある。

試験の成績が悪かったわけではない。「障害のある人は障害のある人の施設に行くべきだ」という理由で不合格にされていた。教育委員会と現場の教員らが「負担が増える」と、重度障害がある小野さんの入学に反対していたのだ。

結局、二次募集の試験に合格を出す形で受け入れが認められた形になった。

梯さんの件も取材してくれた新聞記者が、熱心に行政側と交渉する藤岡さんたちの姿勢を意気に感じてくれて、熱心に報じてくれた。

「建前上、一次試験の判断が間違っていたとは認めませんでしたが、事実上、そこで手を打つ形で我々の主張が認められました」

小野さんはその後、ボランティアの手を借りて無事卒業した。卒業を報じる新聞記事には、「ボランティアの人たちのおかげ。これからも前向きに進んでいきたい」という小野さんの言葉が残る。

ビル清掃と焼肉屋のウェイターと

法律の知識で障害がある人の役に立てる。そんな実感を得ながらも、その後、大学を中退したのは、権威や学歴社会への反発のような気持ちからだった。

「学歴なんてなくても生きていけると自分で実証しなければ、『学歴社会や学歴差別はおかしい』と言えないんじゃないかと思いました」

3年まで通って、司法試験受験に必要な教養課程を履修して、4年生の4月に退学届を出した。

大学を辞めても司法試験に受かるためには受験団体や予備校に通わなければいけない。お金がかかる。

中退の翌月、ビル管理の清掃会社に正社員として就職した。昼間は新宿の超高層ビルの窓を拭き、午後5時に仕事が終わると愛車のカワサキZ400で有楽町に駆けつけて焼肉屋のウェイターをした。

横浜の自宅から通うのが大変で、清掃の仕事をすると同時に、高山久子さんの自宅に格安で居候させてもらった。

司法試験合格 障害のある仲間が祝ってくれる

大学中退から7年後の1992年11月、司法試験に合格。7回目の挑戦だった。

「法務省前で男泣き」を合言葉にして試験勉強を頑張ってきたが、合格発表の中に自分の名前を見つけても涙は出なかった。しかし、4、5日経って、寝床に入った時、自分を励ましてくれた仲間たちを思い出すと涙が止まらなくなった。

合格を誰よりも喜んでくれたのは、藤岡さんがボランティアとして関わってきた障害のある仲間たちだ。

目黒区の公民館を借りて、障害当事者や関係者60人ぐらいが集まってお祝いのパーティーを開いてくれた。

「障害を持った人たちの中で生きてきて、僕の人間関係は基本的にそういう場所で培われてきました。だから、障害者のために弁護士活動をやるのは当たり前のことなんです」

「パーティーではみんなの前で、弁護士になっても、今の私がすっかり変わってしまって、『藤岡どうしちゃったんだよ』と非難されるような人間には決してならないと誓いました。私を支えてくれた人たちに恥ずかしくない弁護士活動をすると」

1995年4月に弁護士事務所に雇ってもらう「イソ弁」としてスタートを切り、初めての顧問契約を結んだのは、大学を中退して居候していた重度障害のある高山久子さん。

「弁護士になる前から、高山さんの代弁者として行政の書類を書いたり、区長宛の抗議文を何度も書いたりはしていたので、その流れです。まだイソ弁時代でお客さんもいないわけですから、第1号になってもらった(笑)」

障害者の権利を守る弁護士として、第一歩を踏み出した。

(続く)

【藤岡毅(ふじおか・つよし)】弁護士

1962年生まれ。1985年4月、中央大学法学部中退。ビル管理清掃会社でビルの窓拭き作業に従事した後、1992年10月、30歳の時に司法試験合格。1995年に弁護士登録。2001年4月、独立して藤岡毅法律事務所を開設。障害者の介護時間を行政と交渉する介護保障事案などを中心に、障害者の権利を守る弁護活動をライフワークとする。

介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット(介護保障ネット)の共同代表、東京弁護士会高齢者・障害者の権利に関する特別委員会福祉制度部会長も務める。