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「働く人の側に立って考える癖をつけられたら」 人間らしい暮らしを取り戻すためにできること

労働環境の悪化で追い込まれていく家族を描くケン・ローチ監督の最新作『家族を想うとき』。日本の状況に重ねた稲葉剛さんのインタビュー後編では、この状況を変えるために私たちができることについて探ります。

イギリスの労働者階級の家族が、理不尽な労働環境にささやかな暮らしを脅かされていく姿を描くケン・ローチ監督の最新作『家族を想うとき』(12月13日より全国ロードショー)。

日本でも個人事業主として大手企業と契約し、働く者としての権利が守られない労働環境が問題となっているが、それを下支えしているのが、速くて安いサービスを求める私たちの「消費者意識」でもある。

日本のワーキングプアの支援に長年携わってきた社会活動家で立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任准教授、稲葉剛さんに映画を見てもらったインタビューの後編は、私たちが何を変えていくべきなのか伺った。

<あらすじ>マイホーム購入の夢を叶えるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立した父・リッキーと、パートタイムの介護士として働く母・アビー。家族を幸せにするはずの仕事が家族との時間を奪っていき、高校生の長男セブと小学生の長女ライザ・ジェーンは寂しい思いを募らせていく。そんな中、リッキーはある事件に巻き込まれてーー。

日本は特に「お客様ファースト」の国? 

ーー主人公のリッキーを使っている人も、妻のアビーに厳しい条件で仕事を押し付けている上司も、きっとまたその上司から追い込まれていて、自分がそれをしないと逆にその地位を脅かされる、滑り落ちてしまうという不安がありそうです。

映画の中でも、それぞれが競争にさらされている状況が垣間見えますよね。

消費者が「速く」「安く」を求める傾向が強まれば強まるほど、末端の労働者にしわ寄せが行く構造になっています。

日本の場合はそれに加えて、「お客様は神様です」という「お客様ファースト」の文化があるため、ぶっきらぼうな対応をされると消費者が怒ってしまうという問題があります。近年は飲食店などで消費者によるクレームやハラスメントが社会問題化していますよね。

こうした「お客様ファースト」の文化が働く人たちをさらに追い詰めているという面があると思います。

人間的な交流を殺しながら働いて

この映画を見ていて思ったのは、主人公のリッキーにしても、妻のアビーにしても、仕事に行った先での人間的なコミュニケーションが描かれていますよね。

ーーそうですね。介護している人と自分の家族写真を見せ合ったり、配達に行った先でサッカーの話で盛り上がったりなどの交流があります。

サッカーの話はひいきのチームのことでケンカになっていましたけれどもね(笑)。でも、そういう会話は日本ではちょっと考えられないですよね。

宅配を届けにきた人がサッカーチームのユニフォームを着ていて、それに対して受け取る人も半分冗談で口論を楽しむ。介護に行ったアビーが逆に高齢者から慰められる。

日本でも福祉労働の現場では、たまにそういうこともあるかもしれませんが、基本的に労働の現場で個人的なコミュニケーションを取ることが日本社会では許されていません。

感情労働がどんどん洗練されて、マニュアル化が進んでいるので、個人であるよりも前に、日本の宅配業者は言葉遣いや立ち振る舞いを常に要求される。そういう文化が徹底しているため、仕事をしている間は、一人の個人であることを自ら消し去っている人が多いのではないでしょうか。

宅配業者らしく振る舞う、介護士らしく振る舞うということを、働く側も内面化してしまっていて、そうするとこの映画で描かれていた人間的なコミュニケーション自体が奪われている。

映画の中ではこういう人間的なやりとりが彼らを救っているところがあると思うのですが、日本ではそれも生まれないし、マニュアル対応が徹底した社会になっている。それが日本社会の生きづらさにもつながっていると思います。

映画の中でも客から、「娘を宅配の車に乗せるな」という苦情が入るシーンがありました。でも、日本だとそもそも車に乗せるなんてことは自分でも最初から思いもつかないと思いますね。

しかも、消費者の苦情がもっと強い形で現れます。

例えばSNSで書かれるなどが実際にありますよね。荷物の渡し方が悪いとかウーバーイーツでも中身がぐちゃぐちゃになっていたとか。それをSNSでさらして、それを見た業者はさらに働く人を締め付ける。そういう状況です。

人間的な情を働かせると追い詰められる

ーー逆に辛いのは、休日でせっかく一家揃って食卓を囲める時に、アビーの携帯に介護している女性から緊急の連絡が入ってきて、介護に出かけていきますね。人間的な情があるからこそ放っておけなくて、自分の生活が守れなくなる。

あれは、まさに「やりがい搾取」を描いた場面でしたね。

1日に何人もの家庭を訪問しなければならないのに、給料が安い。介護職として、一人ひとりに丁寧な対応をしたいにもかかわらず、労働環境がそれを許さない。でも、アビーはプロとして意識を持っているので、自らが犠牲になる形で仕事に出かけるわけです。

ーー人間的な情が逆に個人の生活を追い詰める。日本人がマニュアル化を進めて人間的なコミュニケーションを殺してしまったのは、そういう責任や苦しさを引き受けたくないということでしょうか?

福祉現場では真面目な人ほどバーンアウトしやすいと言われます。クライアントに真摯に向き合うためには時間的、経済的なゆとりが必要なのに、それがない環境で働かざるをえないため、アビーのように自分を責めてしまう人がたくさんいます。

長時間労働で低賃金という働き方が当たり前になっているため、ケア労働においてもマニュアル人間になってしまう方が長続きできる、という状況になってしまっているのではないでしょうか。

ーーでも昔から日本は「お客様は神様」というマインドはありますね。東京五輪でも「おもてなし」が強く叫ばれていますけれども、おもてなしをするために内側で働く人はぞんざいに扱って、外面を良くするのだったら、それは過酷なおもてなしです。

東京五輪では、無償労働のボランティアにまで「おもてなし」を求めていますが、これは究極の「やりがい搾取」だと思います。「スマイルはゼロ円」という価値観を変えないといけませんね。

消費行動をする時に、末端で働く人のことを考える

ーーいろんな問題が複雑に絡み合っていて、どこから手をつけたらわからなくなります。過剰なサービスを求める私たちも悪いし、企業も悪いし、制度も悪いでしょう。複雑な仕組みになり過ぎています。

そうですね。私もよくAmazonで買い物をしてしまうのですけど、消費行動をする時に、末端で働く人のことを考えることは一つ重要ですよね。

ネット通販ではなく、地元の商店街で買い物をすることで、マニュアルではない、人間的なコミュニケーションも生まれやすくなります。

ーー弱いところにしわ寄せが行くわけですが、今回の映画では家族にクローズアップしています。前作の『わたしは、ダニエル・ブレイク』では疑似家族のようなものを作って助け合う。疲れやストレスを解消する場として家族があるはずが、それができないほど過酷になって家族自体も壊れていきます。

それは日本でもあると思いますね。特にシングルマザーで働いている人はダブルワーク、トリプルワークで子どもと一緒に過ごす時間がない。映画でもありましたね。ヘトヘトになって子どもと過ごす時間が作れない。

ただ、日本の場合は長時間労働がデフォルトとなっているので、映画の中では午後9時に帰ってヘトヘトだという話が出てきますけれども、日本の労働者から見ると、「まだ早いじゃん」と思ってしまう。「こっちは徹夜だよ」とさえ思ってしまう。

その感覚が日本は麻痺している感はありますね。

ーー外で過酷な労働をさせて、家族でストレスや疲れを解決しろという考えはどう思いますか? そもそも過酷な労働環境に置かれて、家族を持てない人さえいます。

日本はそこまで行っていますよね。特に若年層で言うと、20代、30代でどんどん晩婚化が進んでいますし、未婚率は上がっています。経済的要因だけではないですけれども、働く人たちの平均給与が下がって、一方で長時間労働がなかなか改まらない。家族を作ること自体が難しくなっているところがありますね。

「中流意識」を持ちながら当たり前の暮らしができない社会

ーー今作も前作も主人公たちは人間として最低限度の生活もできない状況に置かれています。主人公はマイホームを失ったという設定でしたね。私は昭和生まれなので、「真面目に働いていれば、家族も持てるし、家も買って、定年まで働いてのんびりと老後が過ごせる」という「一億総中流」と言われた時代を覚えています。今は「それは無理だろう」という状況になりました。しかも、「老後の生活のためにそれぞれで2000万貯めておけ」とも言われてしまう。

前提として、「一億総中流」は中流意識を揶揄した言葉ではありますが、1990年代の半ばまでは「日本型雇用」が機能していて、会社に入れば、終身雇用・年功序列で定年まで勤め上げることができた。

それは男性中心の仕組みではあったのですが、そうやっていれば、食いっぱぐれることはないという人生モデルがありました。

そのモデルがバブル崩壊後、崩れ始めて、じわじわと非正規雇用が広がっていたのですが、なかなか人々の意識がそこまで追いついていなくて、未だにアンケートを取ると、自分は「中の下」と考える人が一番多い。まだ中流意識が多い状況です。

昔から日雇い労働者とか貧困状態にある人はいて、ホームレスの方も建築現場などの日雇い労働者として働いてきた人も多いのです。よく「怪我と弁当は自分持ち」と言われていて、保障がない状態に置かれていました。

でも、映画を見て一つ思ったのは、無権利状態で働いている人は昔はマイノリティーだったわけです。「一億総中流」になんらかの理由で入れなかった人が、社会の周縁で不安定な仕事をせざるを得なかったわけですが、現代はそんな労働環境がもはや主流になりつつある時代だと思います。

自己責任論が強まる社会

ーーそれでも中流意識を持ってしまうのは、なぜなのでしょうね。色々な失策が積み重なってこうなったのに当事者が気づかされていない。「こんなに苦しいのは自分のせいじゃない」と異議申し立てをしない。

うーん。諦めているのか......。貧困問題で言うと、2006年にワーキングプアが社会問題になって、2007年ぐらいからネットカフェ難民が話題になってきて、2008年から09年にかけて「年越し派遣村」がありました。

その中で「反貧困運動」をやってきたわけですが、当初の問題は「貧困問題を可視化する」ということでした。その頃の認識は、「日本には貧困問題はない」でしたし、そういう社会意識を変えるところから出発したんです。それは一定程度成功して、派遣村の映像を見て、「日本には貧困問題はない」という人はいなくなった。

じゃあ、それからどうしていくかとなった時に、貧困があるのが当たり前の社会になった。そして、そこに足を取られないように各自気をつけて歩きましょう、個人で気をつけましょうという社会になってしまいました。

ーー自己責任論ですね。

はい。「老後の資金を2000万円貯めろ」問題もそうですけれども、4年前に藤田孝典さんが『下流老人』という本を書いて、社会の構造として高齢者に貧困が広がっているということを問題提起したわけです。

ところが、「貧困を生み出す社会構造を変える必要がある」という問題提起を、「老後に貧困に陥らないためにファイナンシャルプランニングしましょう」というビジネスが営業として利用するという現状があります。

個人、あるいは家族で、貧困リスクの高い社会をどうやって泳ぎ切るかというメンタリティーが社会全体に広がっていますね。そこには社会のシステムを変えることに対する深い諦めを感じます。

「命が選別されても仕方ない」というメンタリティー

ーーもう一つ不思議なのは、ネットで目立つ資産家が「金儲けができない奴がバカなんだ」と語るのがもてはやされたりします。しかも、生活が苦しそうな人ほどそういう発言をする人が好きだったりする。

先ほどもスタッフとその話をしていたのですが、私たちの行なっている生活困窮者支援活動の中で、相談に来てほしいけれどアクセスできていないのが、ネットカフェなどにいるワーキングプアの人たちなんです。

特に若年層の人たちにどうアプローチするかが課題なのですが、SNSなどで情報発信して、「こういう相談会があるから来てください」と言っても、本当に届けたい層は、私や藤田孝典さんのフォロワーの中にはあまりいないんですよね。

逆にホリエモンや前澤社長のフォロワーの中に、メッセージを届けたい人がいるのではないか、という話をしていました。

ーーそして、プライドが邪魔して支援の手をつかめない。

それは世代を問わずですね。

ーー「俺はそっちの側ではない」という意識があるのでしょうか。

中にはむしろ、支援を受ける人を叩いている人もいますよね。

ーー映画の中で主人公のアビーが介護をしに訪ねた高齢女性が「私はもう役に立てない人間なのかしら?」と問う場面がありました。

印象的なシーンでしたね。イギリスでもそうなのか、と思いました。日本社会では「生産性」で人間の価値を測る傾向がさらに強いので、苦しんでいる人はイギリス以上に多いと思います。

ーー自分の存在価値を疑うところまで追い込まれる人がいる一方で、その直前まで行っている人が高齢者や障害者も含めた弱者を叩きながら、支援の手もつかめない状況にある気がします。すごく不寛容になることで、そこに堕ちる恐れが増し、さらに不寛容になっていくという悪循環がありそうです。

それはありますよね。例えば10月の台風19号の時、台東区の自主避難所で路上生活者が追い出されたということにも現れていました。あれはさすがに台東区を避難する声は多かったですけれども、SNS上では「排除して当然だ」という声がたくさんありました。

障害者へのヘイトクライムと一緒で、命の選別が行われています。

あの時、気象庁が「直ちに命を守る行動をとってください」と呼びかけ、外にいると命の危険が迫っている状態だったのに、それを締め出すということは「死んでもいい」というメッセージなわけです。それを肯定する人がいるのは、相模原事件を肯定するのと同じメンタリティーだと思います。

それはつまり、「命が選別されても仕方ない」というメンタリティーです。日本社会全体が地盤沈下する中、どこかで自分も排除される側に行くかもしれないという不安感があるからこそ、「自分はそっちじゃなく、こっちにいるんだ」ということを確認するために叩いている側面はあるような気がします。

抗うために何ができるか?

ーーこの映画を見て、私も何か行動しなくちゃと思わされました。この流れに抗うために何ができるでしょうね。ずっと考えています。

この前、中曽根康弘元首相が亡くなりましたけれども、あの時代から始まった流れだと思うんです。ケン・ローチ監督の映画でもサッチャーの時代の新自由主義がもたらした弊害がよく出てきますが、サッチャー、ロンヤスの時代に新自由主義が始まり、日本では国鉄の民営化があった。

あの頃から消費者が最優先という意識が強まり、働く人がないがしろにされる風潮が広がったと思います。消費者自身が労働者としての側面も持っていることも多いはずなのですが、消費者としての意識だけが前面に出てしまう。

テレビを見ている人にしろ、ネットを見ている人にしろ、働く人の立場で考えるのではなくて、電車に乗ったり、宅配してもらったりとか、消費者側に立って考えるのが染み付いてしまった。

そこから変えなくてはだめですよね。

ーーどちらの映画でも、生き延びるために犯罪に手を染める人も出てきます。格差が拡大して治安が悪くなれば、格差社会の上にいる人も安心して暮らせなくなるはずです。

近年の健康格差に関する研究では、格差が広がった社会では、格差の下の層だけでなく、上の層の人たちの健康状態も悪化することがわかってきています。常に競争にさらされるストレスが影響していると言われています。

この映画の中には出てこなかったですけれども、ウーバーイーツユニオンのように、権利主張をする人、人間らしい働き方を求めて声をあげる人が出てきた時に、社会全体で応援することが大事だと思いますね。

働く側が苦しいという声を出した時に、SNS等を通して応援する。ともすれば「わがままを言っている」と捉えられがちなのですが、働く側に立って考える癖をつける。そこからしか始まらないかなと思います。

人間的なコミュニケーションを取り戻して

ーーこの映画を見てから、Amazonのお急ぎ便は使わなくなりましたし、スーパーで深夜まで働いている外国人の人に話しかけるようになったんです。なんとなくそうしたくなる映画ですよね。

そうなりますよね。この映画の中で、母親のアビーが苦しいことが重なってバス停で泣き出してしまうシーンがあったのが印象的でした。そこに高齢の女性が声をかける。そういう人間的なコミュニケーションで人は救われることがありますよね。

日本では、東京では特に、知らない人に声をかけるのは難しい。バス停とか駅のホームとかで一人泣いている人がいてもスルーするのが癖になっていますね。

ーー海外だと挨拶も普通に見知らぬ人にしますね。

そうですね。私も不得意なんですが、連れ合いがとても得意なんです(笑)。昨日も、電車の中で赤ちゃんが金切り声で泣いていて、お母さんが困っているんだけど、周りの人がすごく冷たい目で母親を見ている。

その時に彼女が子どもとお母さんに声をかけたそうなんです。なかなかそういうことができる人はいないですね。彼女はコンビニの外国人店員にも名前で呼びかけることをよくやっていますけれども。

ーー素敵ですね。映画は『家族を想うとき』というタイトルなんですが、コンビニで働く外国人でも宅配ドライバーの人でも家族があるんだという想像力を持つと、そんな会話ができそうな気がします。

想像力ですよね。自分が外国に行ってコンビニの店員できるかと言ったらできないですからね。

路上生活者の避難所排除の時にも思いましたが、ホームレス支援の活動を25年間やってきて、上は92歳から10歳まで老若男女の路上生活者に出会いました。そして時折、路上で認知症のお年寄りに出会うこともあります。というか、周りの人が見るに見かねて、支援者のところに連れてきてくれるんです。

本人に許可をとって、財布の中を調べて身元を確認し、九州から家族に迎えに来てもらったこともあります。認知症で家を出てしまって、そのままホームレスになってしまった人でした。そういうことを1回でなく何回も経験しています。

だから、自分の親がいつそうなるかもわからないし、自分自身も失業したり病気したりしたら、住まいを失う可能性だってある。そういう想像力が今、必要だと思いますね。

(終わり)

【労働相談窓口の一覧はこちら(反貧困ネットワーク)】

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