「世田谷一家殺人事件」から20年が経った。
2000年の大晦日、東京世田谷区の住宅で宮澤みきおさん(当時44)と妻の泰子さん(同41)、長女にいなちゃん(同8)、長男、礼君(同6)の一家4人が命を奪われ、いまだに犯人は見つかっていない。
泰子さんの姉として、暴力的に愛する人を奪われた悲しみと向き合ってきた入江杏さん。事件から20年となるこの12月、にいなちゃんについて初めて知るエピソードや写真を友達親子から偶然明かされた。
周りの人の心にも温かく生き続けている愛する家族と再会した入江さん、そして、にいなちゃんと幼稚園の時に同じクラスで今は新聞記者として歩み始めている滝沢貴大(たかひろ)さん(26)親子にお話を伺った。
20年ぶりに明かされた写真 「にいなちゃんはそういう子だった!」
喫茶店でお話を伺った入江さんが、涙を滲ませ、懐かしそうに微笑みながら見せてくれた写真がこれだ。
幼稚園の年長だったにいなちゃんが、年少の男の子とダンスを踊っている写真。この男の子、滝沢貴大さんの母親、智恵子さんから事件から20年経つ今月、初めて見せてもらった。7年前から地域活動への関わりを通じて友人関係だったにもかかわらずだ
「彼女はこの写真を20年間ずっと家に飾っていたそうなんです。7年越しの付き合いなのになぜ今?とびっくりしました。そして、写真の当時4歳ぐらいだった貴大さんがにいなちゃんのことを覚えているということにも、とても驚いたんです」
初めて聞いたにいなちゃんとの思い出は、入江さんの心を激しく揺さぶった。
当時、貴大さんは卵や牛乳、小麦粉の食物アレルギーがあり、幼稚園の園長から辛い言葉をかけられていた。
引っ越ししたばかりで住んでいる地域に慣れていなかったことや、アレルギーがある中での集団生活は大変だったこともあり、登園を渋っていた貴大さんに、同じクラスのにいなちゃんがいつも付き添ってくれていたというのだ。
「幼稚園で踊るのが嫌だと彼が言った時に、にいなちゃんが『一緒に踊らない?』と言って入ってきてくれた写真がこれなのだそうです。視線を低くして、年長のにいなちゃんが年少の子供たちの中に入っていったと聞きました」
これまで、遺族の入江さんに、周りの人は「バレエが上手でした」「利発な子でした」とにいなちゃんの思い出を語ってくれていた。入江さんは、「それもそうなんだけど、それだけじゃないのに」とピンとこないものを感じていた。
「でも貴大さんが、『自分と一緒に彼女が踊ってくれて、ずっと一緒にいてくれたんだ』と言ってくれた時、『ああ、にいなはそういう子だった!』と腑に落ちる思いがしたんです。どんなエピソードよりも、心のチューニングが合った瞬間でした」
偶然の縁がつないだ大事な人の思い出
にいなちゃんの弟で発達障害があった礼君が、貴大さんと同じように、同じ幼稚園の園長から障害を理由に入園を拒まれた出来事とも心の中でつながった。
「当時海外にいた私に妹が泣きながら『入園できないと言われた』と電話してきたんです。私はすごく腹を立てて『そんな幼稚園ならこちらからお断りしたら』と思わず言ったのですが、そんな時でも、にいなちゃんは常に弟のことを考えて面倒をみてあげていました」
「弟に優しくするのは家族だからなのかなと思っていました。でも、同じ頃、幼稚園で年下の男の子に寄り添って、一緒に踊っていた。周りの子どもたちも、それがきっかけで一斉に笑顔になって、その様子を先生が撮ってくれた写真なんだそうです」
入江さんはこう涙を流しながら語る。
「亡くなったことは本当につらく悲しいけれど、私の心の中に生きている、にいなと出逢い直すことができた嬉しいエピソードです。困っている人を見かけたら真っ先に駆け寄って、その明るさと優しさで自然に周りを変えていく。真の意味で勇気を持っている子だったんです」
貴大さんの母親の智恵子さんは、一家の生前、にいなちゃんが息子に優しくしてくれたことのお礼の手紙を泰子さんに送ったこともある。事件当時はまだ6歳だった貴大さんがにいなちゃんや事件のことを覚えているとは思ってもいなかった。
「これまで息子と事件について話したこともないのです。当時は私も泰子さん一家が亡くなったことに呆然として、心がいっぱいいっぱいで息子の気持ちを考える余裕がなかった。幼稚園の頃の記憶もないだろうと思っていました」
不思議な縁だが、入江さんと貴大さんは国際基督教大学(ICU)の先輩後輩で、その縁から今年の夏、9月号の同窓会誌で編集委員を務める貴大さんの取材を受けていた。その時に、入江さんは貴大さんがにいなちゃんと同じ幼稚園だったことを初めて聞いた。
その後、貴大さんの先輩にあたる記者から、事件後20年の取材を受けた際、入江さんが同窓会誌の記事に触れたことから、貴大さん親子がその先輩記者の取材を受けることになる。
それをきっかけに智恵子さんが入江さんに思い出の写真を見せ、入江さんはにいなちゃんの思い出と再会できたのだ。
20年間、語られなかった思い出
その貴大さんは今、朝日新聞の和歌山総局で入社3年目の新聞記者として働いている。
貴大さんの通っていた幼稚園は、年長、年中、年少の児童が縦割りで一つのクラスとして活動するところだった。年長だったにいなちゃんは同じクラスで年少の貴大さんたちのお世話をしていた。
「幼稚園にとにかく行きたくなかったのをよく覚えていて、幼稚園の人間関係で最もよく覚えているのがにいなちゃん。1番良くしてくれたのです」
よく覚えているのが写真にもある運動会のエピソードだ。
「年長、年中、年少とそれぞれ別の演目を披露するのですが、にいなちゃんが練習の時から一緒に年少の演目に参加してくれました。本番の時もそばについていてくれてとても心強かったのを覚えています」
にいなちゃんは学芸会の発表でも、みんなの前でバレエを踊る憧れの存在だった。
「かっこいいなと見ていたのを覚えています。姉のように慕っていました」
そんな存在がいつも面倒を見てくれたことで、貴大さんはだんだんと幼稚園に馴染んでいった。
「年中の頃には仲のいい友達もできて、楽しく幼稚園に行けるようになったのです。にいなちゃんのおかげだと思っています」
事件後、リビングにはあの写真が飾ってあった
あの事件が起きたのは貴大さんが年長になった2000年大晦日のこと。
新潟の祖父母の家に帰省していた時に、テレビのニュースでにいなちゃん一家に大変なことが起きたことを知った。
「とにかくショックでした。人が死ぬという経験をしたことがなかった頃でしたから、死がどういうものなのかは本当にはわからなかったかもしれません。でもそばにいた母が取り乱しているし、あのにいなちゃんたちが殺されたのだという詳細が報じられて、ただショックだったのを覚えています」
その後、家族の中であまりにいなちゃん一家について話すことはなかった。でも、毎年12月のこの時期、テレビや新聞で「未解決事件」として報じられるのを家族で食い入るように見ては、早く解決することを願い続けてきた。
リビングには、一緒にダンスをしているあの写真と自分がにいなちゃんに抱っこされている写真が飾られていた。
「悼むような写真というより、お世話になった優しいお姉さんとの楽しい思い出として、ポジティブな気持ちで受け止めていた気がします」
一方で、事件をセンセーショナルに報じ、にいなちゃん一家を凄惨な事件の悲劇の主人公として扱う報道を見る度に、違和感も覚えていた。
「事件の衝撃や恐怖心を煽り、未解決事件という一つのカテゴリーとして消費されているのを見る度に、宮澤さん一家やご遺族の無念な気持ちが置き去りにされている気がしていました。ご遺族に真摯に寄り添った報道ができないのだろうかとモヤモヤしていました」
記者として遺族取材を経験 「自分ごととして事件を伝えたい」
大学時代、学生新聞の記者として活動していた貴大さんが朝日新聞に入社したのは2018年。初任地の山口県では西日本豪雨の犠牲者遺族や、事件被害者の取材を経験した。
「頭では大切な人を亡くしたばかりでショックを受けている人たちだとわかっていても、取材して報道しなければいけない。被害者報道の繊細さを実感しました。書くことによって誰かを傷つける可能性もあるのだと再認識しました」
そんな時、NHKの番組で、にいなちゃんの小学校の同級生が遺族であるにいなちゃんの祖母、宮澤節子さんとずっと手紙のやり取りをしていることを伝えているのを見た。
「これまでとは違う報道の仕方で、自分自身が揺さぶられました。記者になったわけですし、僕もそうした報道をしたい、自分ごととしてあの事件と向き合ってみようと思ったのです」
親交のある母親を通じて、入江さんの話や活動は聞いていた。事件の解決を願いながら、幅広い分野のグリーフケアの活動をしていることを知っていた。
「あの事件を受けて、前向きにと言ったら言葉がそぐわないかもしれませんが、活躍していらっしゃることが素晴らしいと思ったのです。これを紹介したいと同窓会誌の取材を申し込みました」
入江さんと話すうちに、にいなちゃんの思い出が蘇った。入江さんからは、「滝沢さんの話も盛り込んでください」と言われ、記事にも入れ込んだ。
「自分としても初めてあの事件のことを語り、自分の経験として言葉が浮かんできました。もっと早く向き合っても良かったと思うのですが、まだ消化しきれていないところがある。ただ20年経って、ようやく記者として、自分ごととして、今後も世田谷事件に関わっていきたいと思えるようになりました」
社会の片隅で困っている人を助ける にいなちゃんのように
入江さんが、貴大さんが20年ぶりに語ってくれたエピソードを受け取って、泣いて喜んでいたことを伝えた。
「にいなちゃんはしっかり者で、明るくて、頼もしくて、優しいお姉さんだった。僕自身もあの事件で傷ついるのかもしれません。でも僕よりずっと傷ついている入江さんにそういうことがあったのだと伝えられて良かった」
そして、自分自身の持ち場での仕事にも、この思いを活かしたいと願っている。
「入江さんの活動のように遺族や被害者の傷ついた気持ちに寄り添う記者でありたいですし、僕が幼稚園の片隅でにいなちゃんに救われたように、社会の片隅で困っている人を助けられるような記者になりたい。にいなちゃんは入江さんや自分の中に生き続けていると思います」
二人のおかげで愛する人と出逢い直すことができた
入江さんは20年を経て届いた貴大さんの言葉に、当時子どもだった貴大さんにとってもこの歳月は大事なグリーフケアの時間だったのだろうと感じている。
「滝沢さんがはっきり記憶していながら、言語化できなかったことは『子どものグリーフケア』の課題とも考えられます。報道の仕事に就きながら、あえて事件への関わりを心の中に温めてくださったことは、記者としての倫理観に関わることなのかもしれませんね」
「私のことをよく知る滝沢さんのお母様も、にいなちゃんとの関わりをこれまで大切に心に留めてくださっていた。グリーフケアは亡き人との出逢い直し。20年目に二人のおかげでにいなとまた出逢い直すことができて、とても嬉しく思います」
UPDATE
写真を差し替え、一部、幼稚園時代の描写を変えました。