第二詩集『震えたのは』(ナナロク社)を出版した詩人の岩崎航さん。
社会の只中で生きていく日々を詩で表現したという今作では、家族介護から24時間ヘルパーの介護に切りかえていくための挑戦や、相模原事件など障害者に対する社会の目に抗う姿勢が強くにじむ。
詩作と共に、社会に向かって声を上げる意味について聞いた。
「生き抜いてもらっては困る」という声に抗う
今作の巻頭に置かれた詩はこれだ。
大気を呼吸すること
体に栄養を取り入れること
トイレに行くこと
自宅に住まうこと
おしゃべりすること
珈琲を飲み、酒を飲むこと
外に出かけること
ああだこうだと仕事すること
愛すること
つながりあって
人々の中で生きて死ぬこと
それを人間らしく望んでいるだけだ
(『震えたのは』より)
元となった詩は、東日本大震災の翌年に書かれた。誰もが生きることを脅かされた災害の中で、自身も仙台市の自宅で被災した岩崎さんは、自分の介助で周りの人が疲れていく姿に心を痛めた。一時、詩も書けなくなった。
再びそんな衝撃を受けたのが、2016年7月に起きた相模原事件だ。障害者施設「津久井やまゆり園」で暮らす重度の障害を持つ入所者19人が元施設職員の男に命を奪われ、入所者と職員27人が負傷した。
大きなショックを受け、一時体調も崩した岩崎さん。当時、24時間の介助を求めて行政との交渉をつづったオンラインの連載で、相模原事件の思想に抗う文章を緊急寄稿した。そこに、この詩を置いた。
「自分の暮らしを作っていく交渉を始め、連載で発信し始めた時に、『そんなことをされちゃ迷惑なんだよ』『社会の負担だからそんなことをされては困る』と突きつけられた事件でした。『生き抜くという旗を立てられては困る』と言われたように感じました」
事件そのものもショックだったが、その後、ネットに蔓延る、事件の思想を支持するような言葉にも苦しめられた。
「あの事件に対して賛意を示す言葉が数多くあったのをもろに見てしまい、気持ちが折れかけそうになりました。自分がこうやって24時間人の手助けを借りて生きること自体があまり歓迎されないことなのだと萎れてしまった。衝撃の大きさに怯んだのです」
「どんな障害や病を持っていても人の手助けを借りて、自分らしく自分の人生を生きていけるはずだと信じてうたっていたのに、それが否定されたのです」
それでも、それで倒れなかったのは、周りの人の支えもあったからだ。
「人との関わりによって励ましや人の温かさを感じて、消えそうになる気持ちをまた奮い起こした。声を出すことができた。それでもやはり声を出して抗っていくんだと、勇気を奮い出すことができたのも私の中では大きいことでした」
「これくらい言ってもいいんだ」
いくつかの
線をまたいで
それがある
行き着く先の恐ろしさ
ただ
生まれてきただけで
憎まれるという
悲痛を
見つめている
(「震えたのは」より)
「その後も政治家らが差別的発言や優生思想発言をしましたね。それがあるたびに『違うよ』と声をあげる。そういう発言がおかしいと思えない風潮が広がっていくのはとても怖いので、声をあげ続けていこうと思ったのです」
24時間介助への挑戦、社会に向けて発信すること
2013年に出版された第一詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』から注目され、取材や講演、寄稿の機会が増えた。
夜間の介護を担っていた両親が高齢になり体調を崩していたこともあるが、生きる世界が広がる中「自分で自分の暮らしを作っていきたい」という思いが強まった。そこで挑戦したのが、ヘルパーの介護を夜間も含めて24時間求める交渉だ。
その過程をリアルタイムで自ら書く連載『筋ジストロフィーの詩人 岩崎航の航海日誌』をオンラインで始め、障害者が必要な介護を得るために、行政と粘り強い交渉をする必要があることを発信した。
「仕事などでいろいろな経験をして、心が動いていく中で自分で自分の暮らしを主体的に作っていきたいという思いが強くなりました。そのための行動を外に向けて発信することものも大きな挑戦の一つでした。色々挑戦していく中でぶつかる壁があり、特にここ数年は、毎年、怒涛の年月を生きているようです」
24時間の介助申請は仙台市に一度却下されたが、その後、岩崎さんが自分で探した弁護団の協力も得て、交渉を続けた。
どうしようも
なくなった時
勇気は
やむにやまれぬ処から
自発するのだ
自分の命綱を賭け
声を上げる
あなたには
届いたのかもしれない
私は 見ています
絶大な
勇気を振るわなくても
誰もが
穏やかに
生きられるように
(いずれも『震えたのは』より)
「あの経験はやはり大きかった。穏やかに求めて、普通に生きていけるわけではなく、それを許さない壁に阻まれ、いろんな人と交渉することはそれまでの私になかったことです。これまでは、『ダメです』と言われたら、すごすごと従ってしまうところがあった」
「だけど自分で色々制度を調べ、自分で動いて学んだりしたりしていくと、『いや、そうじゃないはずだ』と見えてくる。一歩踏み出して強く言い、生き抜くために声を上げる。そういう思いが五行歌になっていきましたね」
支えてくれた周りの人たち
粘り強い交渉で仙台市は岩崎さんの置かれた状況に理解を深めて、申請を全面的に認め、重度訪問介護という長時間の見守りもできる制度を使った24時間の介助が実現した。
自分で自分の暮らしを作ろうともがく岩崎さんを支えたのは、家族や友人、主治医、ヘルパーなど身近な人たちだ。
母の祈りを聴いた
あなたの
大丈夫だと言った
心に
わたしは賭けます
みのるさん
めげないでくださいね
わたしたちも
がんばりますから
目を拭いてもらう
大丈夫ですよ
これからは
心配するのではなくて
見守るだけで
よいのですよ
(『震えたのは』より)
「辛い時に励ましてくれる人がいるのはとてもありがたかった。一歩踏み出して社会の中で生きようとすると、怯むようなことも出てくる。そんな時に、周りにいる人たちが励ましてくれたことはやはり大きかった」
24時間介助の交渉や優生思想へ抗う発信などで、詩人としての活動が色眼鏡で見られる心配はなかっただろうか。
「生きるということを突き詰めて詩に書いてきたので、優生思想に基づく事件が起きれば、心が揺れ動かされて怯んだり壊れそうになったりもします。しかし、それは違うと声を上げることは、詩にも直結しています」
「世の中の動きに対して距離を置くというやり方もあると思いますが、私はそうはしたくない。黙ってはいられない。自然に両輪で書いていきたい。生きるというのは社会の中で生きていくことですから、社会に向けて言葉を発することと詩を書くことは別々のものではありません」
言葉に
揺るがされたら
言葉に
拠って
身を支える
(『震えたのは』より)
「最初から即座に立ち上がって反撃するような勇ましい感じではなくて、ショックを受けて怯みつつも、踏みとどまって声をあげる。いろんな人の支えがあったからそういう言葉が出せた」
「励ましてくれる人がいなかったら、ぽっきり折れて、俯いてしまって今のようには書いていなかった。今のように生きることに対して前向きな気持ちになれていなかったかもしれないです。それも私にとって心震える経験です」
(続く)
【岩崎航(いわさき・わたる)】詩人
筋ジストロフィーのため経管栄養と呼吸器を使い、24時間の介助を得ながら自宅で暮らす。25歳から詩作。2004年から五行歌を書く。ナナロク社から詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』、エッセイ集『日付の大きいカレンダー』、兄で画家の岩崎健一と画詩集『いのちの花、希望のうた』を刊行。エッセイ『岩崎航の航海日誌』(2016年〜17年 yomiDr.)のWEB連載後、病と生きる障害当事者として社会への発信も行っている。2021年6月15日に、第2詩集『震えたのは』(ナナロク社)を刊行した。
ウェブサイトは「航のSKY NOTE 」。Twitterアカウントは@iwasakiwataru BuzzFeedでの寄稿はこちら。