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障害者が地域で生きられない社会 親は泣きながら「施設に入ってくれ」と言った

重度障害のある参議院議員、木村英子さんインタビュー第2弾は、施設が嫌で家出をし、地域で自立生活を送るようになったこれまでの歩みを振り返ります。

相模原事件が起きた背景には、障害がある人に生きづらい社会がありました。

物心ついた時から施設で暮らし、一生、施設で暮らすのが当たり前だと思っていた、重度障害がある参議院議員の木村英子さん。

なぜ障害を持っているだけで選択肢が狭められてしまうのでしょうか。 19歳の時に街に飛び出し、自立生活に踏み出した理由を伺いました。

18歳の「進路相談」は、次の施設を探すことだった

ーー連載1回目で、施設で自由を制限されて、職員からもいじめを受けていたお話を伺いました。そういう環境に耐えかねて、自立生活を始めたのですか?

養護学校高等部の最終学年になった18歳の時、このまま施設にいていいのか考え始めました。

普通の高校生なら、進路指導で、大学進学や社会に出てどうするかを考えるのが一般的でしょうね。しかし、常に介護の必要がある重度障害者の進路というと、次の施設を探すための実習が始まるんです。

普通の人で言えば「インターン」と言うのでしょうか。

障害者の場合は、いくつかの施設に行かされて、そこで昼間の作業をしたり、そ自分がどこまで身の回りのことができるかを試されるのです。

例えば、トイレとか着替え、お風呂がどこまでできるかを施設側が見るわけです。それによってその施設が、この人を受け入れるかどうかを選択する。

本人が施設を選ぶというよりも、介護の難易度によって、施設側が受け入れるかどうかを決めるわけです。

確か3か所か、4か所、行かされまして、今までずっと施設で暮らしていたので、もう2度とそんなところ行きたくないと思いました。その実習に行ってもかなりひどい扱いでしたから。

ーー生活が窮屈だったりしたのですか?

例えば、今は色々な施設があるので、そんなところは減ってきたとは思いますけれども、トイレはだいたいカーテン越しなのです。男性も女性もカーテン1枚で隔てられているだけです。

普通に人が入ってきますし、見られたり、性的嫌がらせもあったりします。私はそんなにひどいのはなかったのですが、カーテンを開けられて入ってこられるのは日常茶飯事でした。

性的な嫌がらせは多かれ少なかれみんな経験していると思います。それも嫌ですし、職員が疲れての腹いせも嫌ですし。反抗すれば、虐待されます。そして、私たちはそこに入ったら出られないのです。

両親は泣きながら「施設に入ってくれ」と言った

「同じ人間なのに、なんで障害を持ったことで『いなくていい』と言われなければいけないのか」 相模原事件が起きた時、「やっぱり起こったな」と感じたという木村議員。 重度訪問介護の制度などが拡充されない限り、「私たちの生活はいつまで経っても、施設しかないという状況になる」と語ります。

ーーなぜ出ていくことができないのでしょう?

社会で生きるすべがないからです。障害者が住める住宅もないし、働く場もない。公的な介護の制度もその頃はなかったです。それ以前に、ずっと施設暮らしですから、本人にまず地域で生きるノウハウがないのです。

小さい頃から、健常者と生活の場所を分けられているので、地域でどうやって生きていったらいいのかわからない。親は反対しますしね。

ーー反対したのですか?

だいたいみんな反対します。だから施設に預けるのです。

私の親は泣きながら「施設に入ってくれ」と言いました。「このままだと育てられなくなって、介護もできなくなって一家心中するしかないから、お願いだから施設に入ってくれ」と言われたのを子ども心に覚えています。

ただ、親は最初から施設に預けたかったわけではなくて、自分の子が死なないために選択できる唯一の道が施設しかないからです。だから当然、うちの親も、地域に出ることは大反対でした。

ーー地域で暮らすのにどんなバリアがあるのですか?

先日、国会で新幹線の車いすスペースについての質問を国交省にさせてもらいました。それ一つとっても、1車両に車いすスペースは2枠しかない。

交通機関を使う時にもものすごくバリアがあるし、食事をしたくても全てのお店が車いすが入れるわけではない。住宅を探したくても障害者であることを理由に貸してくれないことが多いですし、仕事をしたいと言っても、24時間介護の必要な人を雇ってくれるところは少ないです。

作業所もかなり満杯で難しい状況もある。私が地域に出て、初めて得た職業は国会議員です。

そのように障害者にとって地域で生きていける環境が、ほとんど備わっていない。障害児を持った家族にとって、自分の子供を地域に出せるような状況ではないですし、だから施設に入ってほしいと思うのは当然だと思います。

でも私自身は当事者ですから、入りたくないわけです。でもそこしか命を保てるところはないので行くしかない人はたくさんいると思います。

親に全て負わされる責任 愛情から施設を選ぶ

ーーご両親の反対を押し切ってまでやらないと地域で生活できなかったのですね。自宅で暮らすのも難しかったのでしょうか。

卒業した時に、施設を拒否して出て、家に帰ったらうちの家も介護ができない状況でした。親は離婚していました。子どもに障害があることで家族が崩壊していくのです。

私に限った話ではなく、障害者がいる家庭というのは複雑です。もちろんそうではない人もいますが、私の知り合いの障害者たちはみんな複雑な家庭環境にいます。離婚してどちらかがいなかったりします。

ーーそれは社会から適切なサポートが受けられなくて、疲弊するということもあるのですか?

そうですね。障害児や障害者がいる家庭に対して、社会は障害者の責任を家族にだけ負わせます。だから24時間365日ずっと介護し続ける生活で、身体的にも精神的にも家族は限界を抱えながら生きています。

そのような状況だと、経済的にもかなり逼迫してきます。仕事がなかったり、子供の介護のためにできなかったり。今は減ってきたでしょうけれども、障害者が生まれたことで家族が白い目で見られるという、偏見もあります。

障害者が地域で生きるための保育や学校教育や地域のサポートもない、就職先もないとなれば、結局は障害者が地域で生きるための責任を全部親が負ってくださいということになります。

しかし、親は当然、年をとって、面倒をみられなくなります。そうなった時に、社会には受け皿もない。そうなれば施設しかない。社会がしてくれることは施設を作ることになってしまいますよね。

殺すわけにはいかないでしょうから、施設を作るわけです。施設を作ってほしいと願う親もたくさんいます。それは施設に入れたいわけではなくて、施設しかないからなのです。

命を保っていけて、自分の子が死なないように、しかも安全に暮らせるのは施設しかないと思っている親はたくさんいますから。

ーー愛情からなのですね。

もちろんそうですが......。

ーーそういう背景から、施設寄りの政策になってきた。

昔はそれが当たり前でしたね。施設が少なかったからかもしれません。

地域で戦ってきた先輩に助けてもらう

ーー木村さんは、まだ、在宅で暮らす障害者に対する公的な介護制度がない時に、ボランティアを募って自立されたのですね。

私の先輩で、東京・国立市に三井絹子さんという方がいました。

東京都の府中療育センターの移転阻止闘争(※)がありまして、そこでの施設の非人間的な扱いに対して告発運動をされた方です。

※1970年、重度の心身障害者を対象とした大規模施設「府中療育センター」の入所者の一部を東京都が別の施設に移すことを独断で決めたことに対し、入所者の有志グループが起こした反対運動。当時、入所者だった三井さんが中心となり、ハンガーストライキや座り込み運動までして、強制的な移転撤回や居住者の生活環境改善などを訴えた。東京都に突きつけた要求は、「外出・外泊、面会の自由」や「トイレの時間制限をなくすこと」など、41項目にわたった。

その方たち数名が、闘争が終わった後に地域で暮らすようになって、介護制度が何もない中で、国や東京都、市町村に対して介護制度を求める運動を始めていたのです。

ーーその運動のことを、どのようにして知ったのですか?

運動を知ったわけではなくて、高校生の頃に、「国際障害者年(1981年)」や24時間テレビなどで、多少、障害者の自立というものが叫ばれてきて、その中で三井絹子さんの手記も読みました。

福祉の雑誌で絹子さんの自立や運動の経過、子育てに奮闘している現状を読み、カルチャーショックを受けたのです。

17か18の頃、毎日新聞に、三井さんたちが、障害者が地域で生きるための「自立の家」というものをオープンしたということも載っていました。私はその記事の切り抜きを大切に持っていたのです。

もしかしたら、私も自立とか、普通の女性としての生活を望んでもいいのかなと初めて思うようになりました。

それまで結婚したり、恋愛したりというのは、絶対にタブーだと思っていましたし、障害がある自分が望んではいけないことだとずっと思っていました。

施設で一生を終わるというのは当たり前の道筋でしたので、諦めるしかないと思っていたのです。それを可能にした人の手記は、ものすごくカルチャーショックでした。

家出し、三井さんの家へ 「今を逃したら2度と外に出られない」

ーーそこで、自立に踏み出したのですね。

そうですね。車椅子に乗って一人で家出しました。

ーーかっこいいですね。

かっこいいですか?(笑)。施設を拒否して、実家に帰って、家にもいられないのはわかっていたので家出しまして、そこから三井絹子さんのおうちに行きました。新聞の切り抜きの電話番号に連絡したのです。

ーーすごい実行力ですね!

切羽詰まっていましたからね。それが19歳の時ですね。私はまず自立の練習を三井さんのお宅でさせてもらいました。

その頃、自立の家は待機者が10人ぐらいいました。自立したい人がすごくたくさんいて、私が入れる隙間もなかったのですが、絹子さんはどうしても私を救いたいという強い気持ちを持っていたと思います。

自分も差別を受けていて、一人でも多くの障害者を地域に送り出したいというのが彼女の夢ですし、生きがいでしたから。

ーー10人ぐらいの待機者の中で、木村さんはガッツがあると思われたのでしょうか。

「今を逃しちゃいけない」というタイミングがあるんです。その時を逃したら自立できない、というタイミングが。

私もたぶん、あの時に決断していなかったら、施設に逆戻りになっていたと思います。絹子さんから、19歳の時に「今しかないよ」と言われたんです。「今、決断しなければ、もう2度と外に出ることはできない」と言われた。

私もそうしたかったし、とにかく家にも帰りたくないし、施設にも入りたくなかった。地域で生きるしか選択肢がない、三井さんのところに8ヶ月ぐらいお世話になって、自立のノウハウを教えていただきました。

そこからアパートを探して、19歳の2月に自立しました。国立市のアパートでした。

街頭でボランティアを探す 「今日、一緒に泊まってください」

ーー当時は、公的な介制度もなかったのですよね? 24時間、介してくれるボランティアはそろえることができたのですか?

いえ、誰もいないです。

ーーどうやって生活したんですか?

どうして生活したらいいかわからない中で、ボランティア探しをすることだけが唯一の私の生きるすべでした。自分で介護者のボランティアを募集するビラを作り、街頭でビラを撒き、大学でもビラを撒き、「すみません、今日一緒に泊まってください」と声をかけて回りました。

「介護してくれる人がいないので、今日一緒に泊まってくれませんか」とお願いして、一人ずつやってくれる方を見つけていきました。

ーーすごいことですね......。

当時はそれが普通だったんですよ。私だけではなく、地域で自立した障害者はみなそうしていました。絹子さんも、子育ては人を探してやっていました。

ーー卒業して自立するというのは、健常者だとある意味、当たり前の道筋ですが、障害を持っているだけで、とんでもなく大変なハードルがあるのですね。

障害者で自立はありえないです。

ーー公的な介護制度ができた今も、なかなか24時間の介護を勝ち取れない人がいますね。それもまさに戦ってこられたと思います。

そうですね。そしてその問題は、今も解消されていません。

(続く)

【木村英子(きむら・えいこ)】参議院議員(れいわ新選組)

1965年、横浜市生まれ。生後8か月の頃、歩行器ごと玄関から落ちて、障害を持つ。幼少期のほとんどを施設で過ごし、1984年、神奈川県立平塚養護学校高等部卒業後、東京都国立市で自立生活を始める。障害者運動や、地域で生活したいと望む仲間の自立支援にも長年携わり、1994年には「自立ステーションつばさ」(東京都多摩市)を設立。2019年7月の参議院議員選挙にれいわ新選組から出馬し、当選。障害者が生きやすい社会のための政治活動を精力的に続けている。

全国公的介護保障要求者組合書記長、全都在宅障害者の保障を考える会・代表、自立ステーションつばさ・事務局長を歴任。共著に『生きている!殺すな』(山吹書店)『今日ですべてが終わる 今日ですべてが始まるさ』 (自立ステーションつばさ 自分史集)がある。