• hpvjp badge
  • medicaljp badge

「もうちょっと生きたかった」「みんなのそばにいたかった」 二人の娘を遺して子宮頸がんで亡くなった妻の想い

日本では子宮頸がんで毎年3000人が亡くなるのに、その悲しみは表に出てきません。子宮頸がんで亡くなった妻はなぜ最後まで治療を諦めなかったのか。何を願っていたのか。遺された夫と6歳の双子の娘たちにお話を伺いました。

もうちょっと生きたかったです。

みんなのそばにいたかったです。

がんばったけど......。

そんな願いを子宮頸がんによって奪われ、愛する夫や6歳の双子の娘と別れなければならなかった女性がいる。

渕上直樹さん提供

亡くなる5日前の渕上ルミ子さん(左)と夫の直樹さん。深夜に目を覚まし「大好きな直くんとほっぺたチューです」と頰をくっつけながら、「もうちょっと生きたかった。みんなのそばにいたかった」と、家族へのメッセージを遺した

夫の渕上直樹さん(35)は、9月25日に亡くなった妻、ルミ子さん(享年47歳)の想いを受け継ぎ、子宮頸がんの患者のつながりを作り、予防法を啓発する活動を始める。

「“マザーキラー”と呼ばれる子宮頸がんで、毎年3000人も若い母親たちが亡くなっていることが知られていません。亡くなった妻の声なき声を伝え、妻や私たち家族と同じような悲しみを抱く人を少しでも減らしたいのです」

渕上直樹さん提供

2年前、七五三で家族の記念写真。こんな幸せがずっと続くと思っていた

診断された時は手術不可能 1年続いた不正出血後

がんと診断されたのは、2018年12月のこと。

子宮頸がん検診は欠かさずに受け、1年ほど前から不正出血が続いていたが、どこの医療機関を受診しても見つからなかった。

数軒めのクリニックで初めて「大学病院で精密検査を受けてください」と言われた。診断を受けた時は既にがんは子宮頸部全体に広がり、左坐骨にも転移があった。「手術はできない状態です」と告げられた。

「疲れやすくなっているなとか、階段で息切れしているなとは思っていたのですが、検診も病院も行っていたので、まさかがんだとは思いませんでした。ダンスやバレエが好きで、子どもも41歳で自然に授かりました。むしろ同年代の女性より若々しく健康的だと思っていたんです」

落ち込む間もなく、診断を受けた「ステージ4B」の場合に受けられる治療法を、インターネットで調べ始めた。45歳で人生はまだこれからだし、当時4歳だった双子の娘は甘えたい盛りで母親が必要だ。

坐骨の痛みを和らげる放射線治療での緩和ケアを勧める主治医に対し、ルミ子さんは、「根治を目指したい。絶対に諦めません。最後まで戦いたい」と返した。

「彼女の強い意向で治験を探し始めました。重粒子線、光免疫療法など研究中の様々な治療法を調べ、医学論文を読みました。主治医に『これはどうだろうか?』問い合わせては、なんとかがんを取り除ける方法はないか見つけたくて必死でした」

最終的に、国立がん研究センター東病院で、抗がん剤の標準治療(シスプラチン+パクリタキセル)と、それに免疫療法(キイトルーダ)を追加する治療を比較する治験に参加できることになった。

ルミ子さんは腕のいいネイリスト。自宅で行なっていたネイルサロンも経営が軌道に乗り始めた時だったが、閉めて治療に専念することにした。

効かない治療 子どもたちは「いつか治るよね?」

2019年2月から治療が始まり、副作用で髪は抜け、全身を倦怠感が襲った。

「抗がん剤に負けたくない。体力をつけて効きやすくしたい」

坐骨の転移の痛みで座る時は体を傾けないとならないほどだったが、帰宅した時は、直樹さんと一緒にジョギングや筋トレに励んだ。

「痛みがあったのに、体力が落ちたらがんに負けてしまうと一生懸命でした。もともとスポーツが好きだったのですが、本当にすごかった」

渕上直樹さん提供

3年前、元気な頃に遊びに行ったディズニーランドで。41歳で授かった二人の愛娘をとても可愛がっていた

ルミ子さんが治療を諦められなかった大きな理由の一つは当時4歳になったばかりの双子の娘を遺してはいけないという強い思いだった。

子どもたちには最初から「ママはがんになったけど、治療をしているんだよ」と隠さずに伝えた。

「いつ治るの?」「いつ帰ってくる?」

娘たちがそう尋ねる度に、「良くなるように頑張っているんだよ」と答えた。

入院中は娘たちとLINEのビデオ通話で話すのを楽しみにしていた。感染対策で子どもの面会はそもそも難しく、2020年に入ってからは新型コロナ対策で大人も見舞いはできなくなっていた。

「今日何食べた?」「保育園で何したの?」と画面越しに親子のたわいもない会話をするのを苦しい治療の励みにしていた。

直樹さんは、近くに住む妻の両親の協力を得ながら幼い娘の世話をし、また4人で元気に暮らせることを祈って過ごした。

だが、治療にほとんど効果は見られなかった。

「1年ほど経った今年1月か2月には、主治医からもう止めましょうと言われました。妻も効果がないのを見て、『もっと効く治療をやりたい』とまた別の治療法を探し始めました」

主治医は緩和ケアを勧めたが、2020年3月には国立がん研究センター中央病院で「小線源療法」という放射線を放出するカプセルを埋め込む治療を受けることを決めた。やはり生きることを諦められなかった。

在宅医療へ 家族で最後の旅行

治療を始めようとしていた矢先の4月、自宅で朝、ルミ子さんが倒れた。

「直くん!助けて!」

叫びを聞いて直樹さんがトイレに駆けつけると床の上は血の海。大量出血を起こしていた。

救急搬送され、緊急入院となった。腸閉塞を起こし、腹水も溜まっている。もう新たな治療をできるような状態ではなくなっていた。

「それでも妻は『最後まで戦いたいんです』と言って、自分に合う薬はないか調べる遺伝子パネル検査も受けました。結果は結局聞きに行けなかったのですが、使える抗がん剤があると言ってくれた別の病院に転院しようともしていました」

積極的な治療を望むルミ子さんだったが、まずは体力を取り戻そうと8月には在宅医療に切り替えた。

「小学校に上がって色々なことをできるようになった娘たちが、絵を描いたり、手紙を書いたり、縄跳びをしたりする様子を嬉しそうに見つめていました。家族と一緒にいられるので『家に戻れて良かった』とも話していました」

だが穏やかな日々も束の間、9月に入ると、主治医から現実を突きつけられた。「冬までもちません。1〜2週間単位で考えてほしい」。

渕上直樹さん提供

亡くなった月に最後に家族で行った伊豆旅行

ルミ子さんが大好きな海を見せたい。思い出をたくさん作りたい。9月上旬に、妻の両親や妹家族と共に1泊の伊豆旅行に出かけた。

「輸液ポンプを脇に抱えて、痛み止めの麻薬を入れながらの旅行でした。体は相当きつかったと思いますが、『来られて良かった』と喜んでいました」

どの記念写真も妻は笑顔で、周りからは何事もない幸せそうな家族にしか見えなかったかもしれない。手をつないで歩く。ご飯を一緒に食べる。家族で過ごす当たり前の一瞬、一瞬が輝いていた。

「それぞれの幸せを見つけて」 家族に遺したビデオメッセージ

旅行から帰ると、ルミ子さんの体調は転がり落ちるように悪くなっていった。痛み止めの麻薬の副作用で朦朧とする日も増えた。

それでも友達と会うと、亡くなった当日の朝さえも「悩みはない?」と相手の相談を聴いてあげていた。自分よりも周りの人。そんな思いやりのある妻の性格は病も最後まで奪えなかった。

幼い娘たちはこれから母親の支えなしに生きていかなければならない。娘たちへの言葉を遺してほしくて、深夜に目が覚めて意識がはっきりしている時、そばに付き添っていた直樹さんは、ビデオを回した。

Naoko Iwanaga / BuzzFeed

亡くなる4日前、最後に撮ったビデオメッセージ。ベッドに横たわりながら、娘たちの幸せを祈る言葉を語った

最後に撮ったビデオで、直樹さんは「子どもたちにどうやって育ってほしい?」と聞いた。

「そうだなあ。幸せになってほしいんだよね」。そうルミ子さんは語り出した。

自分のそれぞれの幸せを見つけてほしい。

ママのそれは結婚だった。

あなたとの結婚が幸せな時間で、短かかったけれど幸せだった。

パパといられる時間があったからママはそれが幸せだったけど、〇〇ちゃんと〇〇ちゃん(娘たちの名前)はそれぞれ違うと思うから、それぞれが幸せだ、この時がずっと続けばいい、止まらずに明日も同じ時間が送れればいいのになと本気で思える時間がいっぱい続くようになってほしい。

人それぞれだから。何が幸せかは。

できるだけ淋しいと思う気持ちがなくなるように生きてほしいな。

(ビデオメッセージより)


娘にあてながら、直樹さんにも伝えるかのような言葉だった。

妻がいなくなった今、ビデオを見せてくれながら直樹さんは涙ぐむ。もうこうやって妻と育児について語り合うことはできなくなってしまった。

「これを見るたびに泣けてしまうんです。どうしても」

このビデオを撮った4日後の夜、家族全員に見守られてルミ子さんは亡くなった。出会って14年。結婚して8年。47歳だった。

(続く)

Contact Naoko Iwanaga at naoko.iwanaga@buzzfeed.com.

Got a confidential tip? Submit it here