知的障害者の入所施設「津久井やまゆり園」で入所者19人を刺殺し、26人に重軽傷を負わせた元職員、植松聖被告が1月8日に初公判を迎える。
事件が起きた3年半前よりも、日本社会の空気は殺伐としていると感じる作家の雨宮処凛さんは、未来への希望がないか問う私に、当事者自身が声を挙げることの意義を語った。
社会運動は有効か?
ーー2015年の安保法制強行採決の時には、若者も含めたあらゆる層がデモに参加していました。しかし、抗議の力によってひっくり返すほどの大きなうねりにはなかなかなりません。運動が社会を変えられるのかという疑問に対して、運動を続けてきた雨宮さんはどう答えますか?
もちろん、今も運動を続けている若い人はいます。しかし、生活はますますひどい状況になっているのに、それに対して若い人や非正規の人で声をあげられているのは、非正規雇用者が2000万人以上ということを考えると1パーセント以下だと思います。
それは怒ることのできる人が、ある意味で「恵まれている」ということでもあります。
「自分は大切な人間である」とか、「自分はこんなひどいことをされて黙っているような人間じゃない」という、自己肯定感のようなものがあれば怒ることができます。
しかし、ほとんどの人はそんな自己肯定感すらもうない気がします。酷いことをされても、何度もそういう目に遭ってきたし、社会は所詮そういうものだし、自分の人生なんてこんなものという諦めを刷り込まれている気がします。
声をあげて立ち上がれる人は、精神的に健全で、社会に対する信頼もまだあるということかもしれません。それにいろんなことを調べ、学べる時間やお金や文化資本もある。
社会運動は、実はすごく色々なハードルをクリアしないとできない。しかし、当事者はそのハードルを超える力も残っていないし、学校教育の時点で全部芽を摘まれています。
普通に日本で教育を受けたら、率先して過労死するような人格になりかねないし、言うことを聞いて、空気を読んで、企業戦士になれ、ぐらいしか教えられていない。そこで逆らえるのはすごい力です。学生時代に完成している気がしますね。
ーーそうすると、権力を持つ側の思うつぼですよね。
ブラック校則などで、そういう人格をさらに強化しているわけですよね。理不尽でも、とにかく言うことに従わなくてはやっていけないぞと言われ続け、自分の意思を徹底的に否定される。
ーー横でつながったり、一緒に声を上げたりしづらくなっているわけですね。
逆に声を上げた人をみんなで貶めてバッシングして、再起不能になるまでたたきのめすような教育を受けているので、自分の生きる社会をなんとかして変えようとする動きには合流せず、社会を変えようと動いている人たちをバカにして、引き摺り下ろすことに命をかける。
そういう心性は、日本において今では当たり前になっているどころか、圧倒的多数派になっていると思います。
成功体験がない時代に何ができるか
ーーなんだか絶望しかなくなってきますね。
成功体験があまりにもないのです。
私もずっと運動をやってきていても、何かを根本的に変えられたことがないので、何も変えていないことをバッシングされます。
「お前らがやっても何も変わらなかったじゃないか。この疫病神」みたいなことを、突然知らない人からTwitter上で言われたりする。
もちろん個別に積み上げてきたものはたくさんあるのですが、何も成功しなかったという、徒労感だけを植え付けられている気がしますね。
ーー事件から3年半経ちましたが、問題はさらに深まっているのでしょうか?
良くなったことが一つも思い浮かびません。電車の中の不機嫌度もどんどん増しているし、舌打ちをする人が増えていると思いませんか。
高齢化が進み、お年寄りに対して「モタモタしてるんじゃねえ」のような視線はすごく感じるし、子どもや障害者ヘイトもそうです。特に東京は酷い。
消費税も上がり、ずっと絞り上げられて、生きられる人の数が制限される空気が強まっています。そこにまた、老後資金を2000万用意しろと降りかかってきて、何となくみんな、のたれ死にするかもと感じている。
だから、その中でしがみつかざるを得ないし、人を蹴落とさざるを得ない。無駄な情は切り捨て、人間らしくあったら生き残れないという思いが今後、もっと強まる気がします。
判決で得るものはあるか?
ーー3月に判決が出ますが、私たちの社会に得るものはあるのでしょうか? 非常に重い判決が出たとしても、「解決だ」とはならない気がします。
ならないですよね。
ーー未来への教訓は得られるでしょうか?
最後に彼が何を言うかが鍵を握ると思います。「自分がやはり正しかった」で終わるのか、それとも別の言葉が出るのか。想像がつかないですが…。
ーー東海道新幹線での無差別殺傷事件の犯人・小島一朗被告(22)が、無期懲役の判決を言い渡された時に、万歳三唱をしたのも絶望的な気持ちになりました。
そうですよね。
ーー彼も不遇な半生を歩んできて、一生、外に出たくないからやったと主張しています。救いがないです。
京アニ事件の加害者も、典型的なロスジェネの地獄を集めたような人生でした。秋葉原殺人事件の加藤智大被告のように、「死刑になりたい」と自暴自棄になってやったような犯行に思えます。
でも、植松被告は死刑になりたくないし、殺すのが誰でもよかったわけではない。殺すのは障害者でなければならなかったし、殺したことで自分は評価されると信じていました。自暴自棄が原動力ではないところが本当に謎で、「役に立つ人間になりたい」と思って19人を殺せるかとなると、普通は殺せないと思うんです。
俺の人生、最後にめちゃくちゃにして、お前らも道連れにしてやる、のような動機が、無差別殺人で私たちがよく聞いてきたものです。
でも、植松被告の場合は、障害者の社会保障費が重い負担になるとみんなが言っている社会で起きた事件です。それを正当化するためのデータや証拠を裁判で出してきたら嫌だなと思います。
「私の犯行で、国にとっていくらの節約になりました」というようなことを言いかねない気がします。
ーーそれに、賛同する人も出てきそうな危うさが今の社会にはあります。
そうなんですよね。
れいわ新撰組の二人の当選は最強のカウンター
ーー彼が持論を展開することで、再びそれが広まるとすれば恐ろしいですね。
昨年の参議院選で、れいわ新選組から木村英子さんと舩後靖彦さんという重度障害のある二人の議員が誕生したことは、あの事件に対する最強のカウンターだと思います。年が明けてそれを無にするようなことを植松被告に言われたら嫌だなと思いますね。
ーー木村英子さんは、障害者が社会の中で学んだり、働いたり、移動したりして自分らしく生きるために、身のある働きかけを連発されています。
すごいですよね。さすが活動家です。自分がこれまでやってきた障害者運動の集大成ですよね。
ーーああいう姿を、植松被告に見てほしいですね。
知ってはいるでしょう。障害者議員が誕生したことは。
ーー一般の人には、あのインパクトはどれほど届いているでしょう。
木村さん、舩後さんの当選は、私自身は一般の人に広く届いたという気がしています。「ものすごく励まされた」といろんな病気の人や障害がある人から聞きました。
障害者のことを全然知らなかった人が、「寝たきりで文字盤を使ってああいうコミュニケーションが取れるのか」と初めて見て、衝撃を受けたとも聞きました。
その姿は、「どうなったって生きていける」ということを示す、最強の命に対するリスペクトだと思います。
「生産性がないと生きる価値がない」という世間を覆う考え方に対して、「こうなっても、こんなに自分らしく生きられるんだ」と示すのはものすごい大きな希望です。社会保障費のために「無駄な人間を殺せ」という考えに、大きな一石を投じたと思います。
「生きることに条件はいらない」 そんな当たり前過ぎることを改めて問い直したい
ーーこうした動きが重なれば、一つのムーブメントになりそうです。まず、私たちがやれることは何でしょうね。
日本に生きている全員がうっすらとした優生思想の教育を受けてきているというのは前に述べた通りです。
「社会に貢献しろ」という圧力が強く、「税金や年金を払って国の役に立て」「少子化に対して子供を産むのも国のためだ」というように、全て意味付けされ、それができないと失格者のように見下げられる。
でもそんな条件をつけられなくても生きていていいし、無条件に命は肯定される。そんな究極の当たり前のことが、競争社会や資本主義に歪められて、「金がかかるやつは死ね」「金稼げなかったら死ね」という思想が広がっています。
そして、それが全員の生きづらさになっています。「生きていることに条件はいらない」というただそれだけのことが、どうしてこれほど難しくなってしまったのか。改めて問い直したいです。
ーー雨宮さんはへこたれずに運動を続けていますが、何が原動力ですか?
自分が見捨てられたくないという気持ちがあります。
植松被告のような優生思想を突き詰めると、ちょっとでも働けなくなったり、自分が利益を生み出せなくなったりしたら、すぐに死んでくれという社会になります。
私はそんな社会が嫌です。自分はずっと勝ち続けられると思っている人もいるでしょうけれども、その人でさえ、友達や家族の中には必ず勝ち続けられなくなる人がいます。
そこで「死んでくれ」という社会は恐ろしいし、そういう社会を許してしまうと、いずれ役に立たないと自分が判断されたら、廃棄されてしまいます。
国家が自分を使うのではなく、自分が国家を使う
植松被告を肯定する人は、自分がいずれ役に立たなくなるということを一切想定していませんが、それはある日突然来るはずです。
交通事故や病気に見舞われて働けなくなることはいくらでもあるので、ある日突然、切り捨てられていいのかと問いたい。
そうなった時に「自己責任」と言われたら、税金を払っている意味がないですよね。これは、国家をどう捉えるかという、考え方の話でもあります。
日本人は、あまりにも国家がどういうものなのか習っていないので、国に迷惑をかけちゃダメだとか、お上の世話になっているやつはダメだと思いがちです。
でも、そんなことはない。破綻しているシステムを、なんとか自分たちが快適に生きられるように自分たちの手で作り変えていくという議論が全くないままに、なぜか国の財政難ばかり語っています。
だから、国に迷惑かけちゃいけないんだ、だから生活保護はいけないんだと、自分たちの命より、国家を優先してしまっている。
そうではなく、ではどうやって国家を使って一人一人が生き延びるか、サバイバルするかという話にできるはずです。反貧困運動でもそういうことをやってきました。
役所で生活保護が申請できなかったら、こうすれば申請が通るというノウハウを積み上げてきました。それ以外にもこういう第二のセーフティネットがあるのでこうすれば使えるとか。
そういうノウハウ、つまり、「国家の使い方」のようなものを覚えていくと、世界は全然違うふうに見えてきます。
声をあげて、一人一人の命をないがしろにさせない
ーー他に希望を感じるような動きはありますか?
人工透析を中止させられた公立福生病院の遺族が提訴しましたね。
すごく重要なことと考えていて、「希望」ではないですが、一瞬話題になってすぐ消えてしまったことを、裁判を通じてもう一度きちんと考えたいと思いました。
人工透析も、医療費の財源問題としてお金がかかるということが言われがちな問題なので、とても気になっています。
ーー確かに日本の医療費は過去最高の42兆円で、どうにかしなくてはいけないのは間違いない。出生数も90万人割れして、また不安が煽られると思います。出生数のニュースはどう思われました?
それはそうだろうと思いますし、この子育てしづらい国でよく90万人も生まれたなと逆にびっくりですよ。
ーー86万人ぐらいと推定されていますね。
今、出産できる人の生活状況も厳しいと思います。最近、子育て世代の年収が97年と比較して97万円も下がっているというデータを見ました。20年ちょっとで子育て世帯は100万円近く貧しくなっているわけです。
ーーしかし、あの数字でまた危機感は煽られるでしょう。少子高齢化ますます加速、どうする?と。
少なくとも医療分野で、命を守る医師が財源で人の命を左右する発言をするのは大問題です。もう発言では済まず、実際に手を下してしまっている。それは、法的に規制できないのでしょうか。
ーーあの事件をテーマにしたシンポジウムで、透析を続けるとかえって命が危険になるような心不全患者の事例が紹介されていました。ただ、止めるためには手続きが必要で、丁寧な話し合いが必要となりますし、福生病院はそもそも必要な手続きがなされていなかったのですけれども、止めるのは絶対だめというのも危険です。それでも、医療費削減のために外すことを検討するというのは本末転倒です。
そうだとしたら、植松被告の発想ですよね。
ーー一方で、患者本人の人生観や価値観で私は人工透析を受けないというのもあり得るかもしれません。しかし、周りがそちらの方向に誘導するのはおかしいですね。ご遺族の提訴は、そんな流れが強くならないようにするための歯止めになり得るのでしょうか?
あの事件は大激論になると思ったのに、何も議論にならずに収まってしまったのが気になっていました。透析には莫大な医療費がかかるという文脈で議論されるなど、植松被告が提示した問題が凝縮されているテーマだと思いました。
そこで問われているのは、究極的には金か命かみたいな問題なので、相模原事件があった年の「人工透析自己責任論」の長谷川豊氏ブログ炎上とも重なります。
少子高齢化や医療費削減を枕詞に出したら、人の命がないがしろにすることも許されるなんておかしい。激論になるかと思ったら、日本透析医学会が問題なしとするような意見を出してすっと終わってしまった。
しかし、ご遺族が提訴したので、議論が終わらなくてよかったと思ったのです。
長寿が喜びではなく、「お荷物」として語られる時代
ーー1973年生まれの私が小さい頃はお年寄りはまだ尊敬されていました。
今では、高齢化、長寿と言うと、医療費が介護費にこんなに莫大な金が必要で、社会保障費の自然増がこんなになる、という話になります。
20年ぐらい前までは、ご長寿イコール寿ぐのような喜びの感覚がありましたが、今は1ミリもないですよね。「お荷物」としてしか見られない。
それもすごい冒涜ですよね。「年寄りには金がかかる」ということは昔は表で言ってはならないことだったはずです。それを突き詰めると「殺す」しかなくなってくるからです。
それが、最近では、テレビでも「高齢化で医療費がかかる」と言われ、そこで寝たきりのモザイクがかかったおじいさん、おばあさんの映像が重なる。とても暴力的だと思います。
もちろん現実問題としてはありつつも、「お荷物感」を醸し出して議論するのはやめられないかと思います。
ーー高齢者の終末期医療を削ることを提案し、安楽死まで持ち出した落合・古市対談はちょうど1年前ぐらいでしたね。
はい。
ーー文藝春秋のようなしっかりした出版社がこうした議論を表に出すのかとびっくりしました。ただ、あれに対しては反対の声もすぐに上がり、まだ健全だとも思いました。今後は、反対の声もだんだん上がらなくなるのかもしれません。
そうですね。「お前がどうにかしろ」「解決策考えろ」という声の方が強くなりそうです。
障害があっても、難病があっても自分らしく生きられることを誇る日本に
人工呼吸器や胃ろうをつけて生き続けたら不幸になるぞと思わせかねない言説が強くなっていると感じます。私もALS患者の支援をしている川口有美子さんに出会うまでは、日本が人工呼吸器ユーザーにとって、ものすごく先進国だと知りませんでした。
そういうのをどんどん宣伝していけばいいと思うんです。日本は、そこで突出して、人工呼吸器ユーザーとかALSの患者さんが生きるための環境を整える世界のトップリーダーとして、それを誇っていけばいい。
分身ロボットの「OriHime(オリヒメ)」のように、日本のテクノロジーと合わせて世界に注目される道もある。医療や介護は高品質のテクノロジーを工夫すれば、いくらでも道があるのかなという気がします。
ーー日本の技術力を、人を生かす方向に使うということですね。
それによって、重度障害者や人工呼吸器の人が、自分らしく生きられるモデルを作ることがどれほど全世界に貢献するか。それは、すごく誇れることですよね。「ニッポンすごい」のようなことが好きな人たちにも受け入れられます。
ーーそういう方向に議論を進めたい。
そして、それは実際に見せていくしかない。重度障害がある国会議員、舩後靖彦さん、木村英子さんの存在はそういう意味でも大きいですね。
いろんな国で、二人の国会議員が誕生したことは世界的なニュースになっています。植松被告の方向に進むのではなく、人がどんな状態になっても生きることを喜び、それを推し進める国になってほしいですね。
(終わり)
【雨宮処凛(あまみや・かりん)】作家・活動家
1975年、北海道生まれ。フリーターなどを経て、2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国 雨宮処凛自伝』(太田出版、ちくま文庫)でデビュー。2006年から貧困・格差の問題に取り組み、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(同)でJCJ賞受賞。
著書に『非正規・単身・アラフォー女性』(光文社新書)、『1995年 未了の問題圏』(大月書店)など。最新対談集『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)には、記者の岩永直子も参加している。