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対話で殻は破くことができるのか? 植松被告の裁判で聞きたい言葉

1月8日に開かれる相模原事件の初公判で植松聖被告が何を話すのか注目されています。自身も傍聴するという雨宮処凛さんはどんな言葉を聞きたいと求めているのでしょうか?

1月8日に初公判を控えた相模原事件の加害者、植松聖被告の裁判。

勾留中も障害がある子どもを育てる研究者やジャーナリストらが植松被告に面会を求め、対話を試みてきたが、伝えられる限り、植松被告の心に大きな変化があった様子はない。

対話や裁判でのやり取りで、植松被告から、事件の真相を明かす言葉や、自身の行ったことに真摯に向き合う言葉は聞けるのだろうか?

作家の雨宮処凛さんに、対話や裁判の可能性や「第2の植松被告」を生まないために、私たちには何ができるのか、一緒に考えてもらった。

対話は植松被告の心に波紋を広げることができたか?

ーー雨宮さんの対談本『この国の不寛容の果てに』(大月書店)で対談された、ジャーナリストの神戸金史さんや和光大名誉教授の最首悟さんら重度の障害がある子どもがいる人たちが植松被告と対話をしようと試みています。しかし、その内容を見ていると、植松被告の心に影響しているように見えません。

より、自分の思考が強化されているという気までしますね。

ーー面会に行っている人からは、とても切実な思いを持って対話に挑み、彼の心に波紋を広げたいという気持ちを強く感じます。しかし、そういう言葉と対峙しても逆に自分の考えが強化されていく。対話の可能性を信じたいのですが....。

判決が出てからじゃないでしょうか。たぶん、今は自分の命のことを彼自身がリアルに感じていないのでは。もし、一番重い刑を言い渡されたとしたら、変わるのではないでしょうか?

衆議院議長への犯行予告の手紙には、「逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい」などと書かれていましたね。しかも、出所後に金銭的支援5億円を請求してもいました。自分への報酬のように。

ーー自分がやることが国に評価されるぐらいの書きぶりでしたね。

でも、裁判を経て、このまま行けば刑務所の中で命を終える、ということがリアルになって彼が弱った時でないと、考えの変化は起こらないような気がします。

今はまだ、虚勢を張り、自分の事件を正当化しようとしている。彼のファンのような人もいるようですね。そういう人たちに手紙をもらったりして、自分を保つための強化はされている。

あるいは、裁判などで遺族の話が出てきて、そういうものを突きつけられた時に、彼が殺した人が彼の主張する「心失者」じゃなかったと気づいた時ですよね。そういうことでも変わる可能性があるかもしれないですね。

ーーそれを公判に期待したいですか?

そうですね。

本人から聞きたいのは借り物でない素の言葉

ーー公判で、植松被告が何を話すことを期待されますか? もし、同じ主張の繰り返しだとがっくりくると思うんですよね。

結局、持論を展開して、しかも財源論による犯行の正当化を語ることになる可能性もありますね。今まで、どこかから持ってきたコピペの空っぽの言葉しか聞いていない気がするんです。

私が、唯一、植松被告の生の声かなと思ったのは、神戸さんに対して言った「(事件を起こして)少しは、役に立つ人間になったと思います」という言葉です。この言い方は彼の素が出ているかなと思うんですけれども、素の言葉を聞きたいし、何があったのかを聞きたい。

子供の頃、障害者を見てどう思ったかという話もありましたが、詳しい生育歴のようなものを聞きたいですし、コピペのつぎはぎの言葉ではなくて、自分の言葉で、自分はこういう風に生きてきたということを聞きたい。

彼は醜形恐怖もあったようですし、生活保護を受けたりもして、いろんな問題を抱えていたと思うのでそれを詳しく知りたいです。それは、「役に立ちたかった」という言葉あたりから掘れるのかなと思うのです。

ーーなぜ役に立ちたかったかと言えば、逆に自分は役に立たない人間だという強烈な自己意識があったからかもしれないですよね。その自覚がなぜ作られていったのかということを、もっと本人の言葉で聞きたいですね。

そうですよね。

対話で自分の殻を破ることにメリットがない

ーー対談本にも出てこられた、「浦河べてるの家」の精神科専門のソーシャルワーカー、向谷地生良さんは、「無差別殺人をしたい」と言う青年と粘り強く対話を続けて心をほどいていきますね。なかなかここまでやれる人はいませんよね。

まあ、普通は説教してしまいますよね。

ーー最近、何か分断する問題が起きると、対話、対話と簡単に言ってしまいがちですが。

なかなかできないですよね。

ーー裁判はある意味、言葉のやりとりだと思います。一方で人を裁く場でもありますから、対話とは違います。そういう意味で、裁判で彼が変わる可能性があるのか、興味を持っています。

もしかしたら、自分の「見せ場」だと思って、作・演出、植松聖のような感じで、持論を繰り返すかもしれません。そこでまた、障害者の命を冒涜するようなことを言ったり、捕まった時のような笑顔などを見せたりする可能性を思うと....。

ーーあの影響のされなさを見ると、ものすごく自分の殻が硬いのだと思うのですが、あの殻を彼が破る可能性はあると思いますか?

でも、彼にとって、殻を破るメリットはないですよね。

ーー確かに。殻を破ったら崩壊するかもしれないですね。

持論を言い続けている限り自分は保てます。すでに19人殺してしまっているので、正当化から逃れられないのではないかと思う。それぐらい、重過ぎることをしてしまった。その自覚はものすごくあると思いますから。冷静なところはものすごく冷静ですよね。ちゃんと計算し、どう見られるかもわかっている。

どうしたら「第2の植松被告」を止められるか?

ーー植松被告でなくても、苦しい自分の精神を保つために人を貶めたりとか、もっと弱い人を攻撃的したりということが今の社会では増えています。今後、同じようなことが起きないために、今、私たちが打てる手は何だと思いますか?

「第2の植松」みたいな人を止める術ですよね。でも難しいですよね。どうやったら止められるのか...。

ーー強がって、自分の心を保つ、というのが大勢ですね。そして、人には攻撃的になって。

相模原事件に限らず、今の様々なヘイトや、「弱者特権」「障害者特権」という主張は、この20年の経済状況がすごく関係あると思います。

バブルの頃は、それなりに頑張れば報われる社会だったと思います。みんなそんなに剥奪された感覚を持っていなかったし、バブル末期には、一杯のかけそばを親子で分け合う「一杯のかけそば」の話などがブームになって、思いやりがもてはやされたりもしました。

でも今なら、「一杯のかけそば」の話を聞いたら、立ち食いそばなのか普通のそば屋なのか、そこを追及されバッシングされそうです。「立ち食いそばじゃなかったら贅沢だ」と言われそうな空気がある。そばの値段問題が勃発しそうです。

頑張ったら報われるという社会への信頼があれば、いろんな対立が起きなくなる気がします。植松被告の事件も、社会に対する信頼が薄れたことが濃厚に関わっているのではないかとは思いますね。

ーー頑張っても報われない絶望みたいなものでしょうか。

今の世の中は、何をどうやっても、どう努力しても、絶対に一定数の人は報われない、最初から「無理ゲー」のような状態に何割かの人が置かれています。その歪みがいろんな場所で出ていて、どう頑張っても野垂れ死にしない保証が誰にもない。

植松被告はそんな中、何に向けて頑張ればいいのかわからなかったのではないか。それで、すごく間違った方向に頑張ってしまったのではないかなと想像します。

ーー高齢者バッシングも目立ちますが、雨宮さんは世代間対立は避けたいとおっしゃっています。でも若い世代ほど剥奪感を持ち、「年寄りいい思いしやがって」とか「逃げ切り世代」という恨みの目を向けますね。

世代間対立というより、持てる者に対する憎しみは強まっている気がします。「ベビーカーヘイト」や赤ちゃんの抱っこ紐はずしをする人がいるという現象からは、「こんな格差社会の中で子供を持ちやがるのかお前らは」のような空気を感じますし、実際そんな言葉を耳にしたこともあります。

ベビーカーが邪魔だとか、赤ちゃんの鳴き声がうるさいとかよりも、今の日本で安定した収入と職があって、子供を持てるぐらいに将来の展望が持てる特権階級への憎しみみたいなものを感じる。

でもそんなことを正直に言ったら怒られるから、ベビーカー問題にすり替えている印象も受けます。

弱きを見下げ、強きを崇める

ーー一方で、先日の稲葉剛さんのインタビューでも出たのですが、苦しい生活をしている人は、ホリエモンや前澤社長が好きですね。資本家に剥奪されているように見える人ほど、資本家を好きなのはなぜなのか驚きます。

それは、まさに貧困運動で関わっていてもそうですね。本当に厳しい人は、反貧困運動のことなんて一切知らないし、稲葉剛さんのことも私も知らないし、もちろん政治家がどんな政策をしているのかも知らない。

でもものすごい自己責任論を主張して、経済的にダメなやつはダメなんだと話すホリエモンはすごく好きですね。

ーーどういうことなのでしょうか?

「いつか自分も」と一発逆転を夢見ているところもあるんだろうし、正社員や貧乏人など立場を問わずいろんな人をバッシングする彼らに自分を重ねて、スカッとしているのかもしれません。それが自分に向けられているとは決して思わずに。左翼バッシングみたいなものも、代理で毒を吐いてくれるという意識ではないでしょうか

ーー敵を見誤っている気がします。

それも一つの特徴のような気がしますね。植松被告もそういう人たちが好きなのではないでしょうか。

ーー弱い人は見下げるのに、強い人は逆に仰ぎ奉る。

一体化しているのではないでしょうか。権力や力や、金のある方と一体化した気分になり、その人と一緒になって世間を罵倒している気持ちよさなのかなと思います。若い人の自民党支持も似たような構図もあるのではないでしょうか?

野党をバカにしますものね。「何も対案を出さないし、ギャーギャー言っているだけだ」みたいな罵倒の仕方です。

権力と一体化して、虎の威を借るではないですけれども、一瞬強くなったような錯覚が常態化しているわけだから、そこであえて自分を客観視して見ようとはしない。野党は愚かだと言っていた方が楽だ、ということですね。

ーー自分を弱者だと思うことを避けているのでしょうか。

それはすごく感じます。

ーー対談本では、自分の弱さを開示しあって支え合う、ということを皆さん言ってますが、むしろ、辛い人ほど逆の志向を強く持っていますね。

そうしないと、自分の心が保たないからじゃないでしょうか。14年前に反貧困運動を始めた時から、「自分が虐げられてて犠牲になっている」「社会の弱者だ」「踏みにじられている方だ」なんてことは絶対に思いたくない、という意識を当事者と話していると強く感じました。

一番の拒絶反応ですね。「いや自分は違うんだ。この境遇を自分で選んでいるんだ、選んでたまたま今そうなだけだ」と、常に自分を騙している。

自分を騙して強がっていないとしんどいという状況にある人に「現実を見ろ」と言ったら死ぬかもしれないので言えません。いじめられている人に「いじめられているよ」と言っても、それを認めた瞬間に自殺するかもしれないから言えないのと同じですよね。

(続く)

【雨宮処凛(あまみや・かりん)】作家・活動家

1975年、北海道生まれ。フリーターなどを経て、2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国 雨宮処凛自伝』(太田出版、ちくま文庫)でデビュー。2006年から貧困・格差の問題に取り組み、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(同)でJCJ賞受賞。

著書に『非正規・単身・アラフォー女性』(光文社新書)、『1995年 未了の問題圏』(大月書店)など。最新対談集『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)には、記者の岩永直子も参加している。