東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県大船渡市で、「岩渕内科医院」の院長を務める岩渕正之さん(62)。
震災後に家族や移動の足を失った人たちのために訪問診療を始め、「医師として命をすり潰すつもりで絶対依頼を断らない」と誓いを立てていた。大船渡市で看取りまでやる医師は岩渕さんだけだ。
ところが、始めてから10年が経とうとしていた2020年11月末、初めて新規患者をしばらく受けないことを決めた。
夜中に電話が鳴ったような気がして何度も目が覚める。食欲もない。新型コロナウイルス対応の負担も重なり、心身の疲れが限界を迎えていた。
「完全にうつ症状が出ていました。患者さんはたくさんいるのに意欲が湧かない。気合を入れないと立つことすらできない状態になっていたのです」
在宅医療で診るのは生活
訪問診療に同行取材するために待ち合わせたのは朝6時50分。この日は遠い家を3軒回る。9時から始まる外来までには戻らないといけない。
庭から湾が見渡せる家に住む91歳の男性は腰の脊柱管狭窄症で通院しながらも、昨年夏まで漁に出ていたが、急に体力が落ちてほぼ寝たきりになった。床ずれができて通院もできないと紹介され、昨年12月から訪問している。
「何十年も広い海に出て漁をしていた方が海を眺める事もなくただ天井を見つめるだけの毎日になるわけです。でも腕一本で漁師をやってきたプライドは残ります。
自由自在に船を繰り、家族を食べさせてきた自分が横になっているだけの存在になってしまった。
これでは当然意欲は失われ食欲もなくなります。
栄養低下で床ずれは治りません」
岩渕さんは庭先で新型コロナウイルス感染防止のために防護具を身に着け、家に入った。近所からちょくちょく様子を見にくる長女が診療に立ち会う。高齢の妻には軽い認知症があり、老老介護を家族や訪問医療が支える。
胸の音を聴きながら「何か困ったことはありますか?」と聞くと、「おしっこ、おしっこ言うんですが、母さんじゃないとおしっこ取らせんのです」と長女が言う。トイレに行って転倒するのを防止するためおむつをつけているが、そこにしたことはない。
「ああ、そうですか。そういう方多いです。お父さんもプライドがありますからねえ」。いったんそう受け止めながら、床ずれの状態を診はじめる。
真っ黒に壊死していた床ずれは、岩渕さんが切除、洗浄して、塗り薬での治療を続け、きれいなピンク色の皮膚ができていた。今度はラップを貼る処置で自然治癒を促す。
一時は「正月も迎えられないかも」と危ぶむほど食欲が落ち、栄養剤で補助するほどだったが、いつでも医師が飛んできてくれるという安心感が生まれたのか「最近、ご飯もよく食べるし、おかしもよく食べるんです」という。栄養状態が良くなったことが、床ずれの回復につながった。
顔を寄せて困りごとはないか聞くと、本人も岩渕さんに訴えた。
「おしっこ我慢してつらくて、つらくて」
「そういうつらさって本人にしかわからないですよね。取ってもらえない時は、我慢しないで今はおむつの中にしましょう。していいのですよ」
男性はうなずいた。
「子どもに下の世話をさせたくないのですよね。これから訪問リハビリを始めて歩けるようになれば、おむつも取れますよ」
3月からはデイサービスに通い始めた。「オラ、デーサービスさもっと行きてえなあ」と岩渕さんに話し、生きる意欲も湧いている。
「家に居る時よりも皆優しくしてくれるから毎日行きたいんですって。失礼なこと言いますよねー」と長女が笑い、 そばで聞くおばあさんもカラカラと笑う。
介護サービスやリハビリだけでなく、入れ歯が合わずに食べられない時は歯科医師も入ってもらう。他の専門職との連携で寝たきりだった人が回復し、家族にも余裕が生まれる。身体だけでなく生活全体を診る在宅医療の腕の見せどころだ。
家で見せる素の姿
岩渕さんの往診や訪問診療はこんな風にとても優しく、丁寧だ。
プライバシーを守るために患者の属性や日にちなどはぼかした上で、Facebookで心に残った往診を書いている。どんな風に患者や家族を診てきたのか、岩渕さん自身の文章でいくつか紹介してみよう。
いつもは息子さんに連れられて来院するおばあちゃん、言葉少なに「大丈夫」「んだ」程度の会話しか無かった。
紹介元ではアルツハイマー型認知症との診断。
診察が終わると息子さん、
「ほれ、急いで!」
「ほれ、帰っから立って!」
「次の患者さん、待ってんだから!」
こちらが まぁまぁ… と諌める位、息子さんは急き立てる。
おばあちゃんは認知症の診断もついており、こういう人なんだ、と私は思っていた。
ある日熱がある、との連絡。フラフラして歩かせるのも大変だし往診で…
で、イワブチナイカお得意の朝往診。
おっ!
家の中のおばあちゃん、いつもと違う。
「ほれっ!」
指差す先は玄関の私の靴…
息子さんがホイホイとクツを揃える。
「椅子っ!」
また息子さんが私のために椅子を持ってくる。
「ゴミ箱っ!」
いやいや、アルコール綿は医療廃棄物なので持ち帰ります。
息子さんと立場逆転、自宅だと背筋が伸びてピッとしている。
うーん、ドネペジル(※認知症の薬)、本当に必要か?
じゃ、帰りますのでお大事に…
「朝早ぐがら、ありがとござりす。ほれっ!芋っ!」
あー、そうだったと紙袋を持ってきた息子さん、
いやいや、お構いなく…
「いーがら、いーがら、芋、持ってってけろ!こんなんで おしょすけど、蒸かして食べらっせん」
そうなんだよな。馴れ親しんだ我が家、多少の認知症があっても立派に生活できるんだよな。外に出ると環境の変化にすぐ対応できないから急かされるんだよな。
息子さんは反応が鈍くなって認知症が進んだと思い、おばあちゃんはもっとゆっくり言ってくれれば分かるのに、と不満顏…
認知症のフォローアップは難しい。画像診断だけで判断してはいけない。居る場所により、状態はがらりと変わるのだ。
「ばぁさん、家じゃハッキリしているよ。でも外に出るとダメなんなよなぁ」
そっかぁ…おばあちゃん、認知症って言われてショックだったろうな。失敗するとまた認知症が…って言われるから黙ってるんだな。
もちろん、ある程度の認知症はあります。紹介元のMRIやSPECTを見ると明らか。
でもね、医者や家族が必要以上に認知症って決めつけるのはいけない。出来る事を取り上げてしまい、彼女の中にまだ残っている意欲を否定してしまう。
私も分かっていたつもりだったんだけど…
まだまだだな、あ〜悔しい!
「安楽死を......」と言われたら
岩渕さんは、終末期にどのような医療やケアを受けたいか、患者や家族と医療者が繰り返し話し合って共有する「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」や「人生会議」がマニュアル化されているのが「好きではない」と言う。
「普段から患者さんや家族と丁寧に話をしていたら、自ずとどうするべきか見えてくるものですよ。わざわざ『さあ集まって話しましょう』とやるものではありません」
初回往診のおじいちゃん、
この3ヶ月の間に がんの告知、転移の告知、続いての放射線治療、しかもこれは原発巣に対しててはなく転移巣に対する照射、と大変な毎日が続いた。
おじいちゃんのメンタルが付いていかない…
それまで毎日漁に出ていた自分が今や力なく横になり、天井を見つめている。
診察中に弱々しく おじいちゃんの手が伸びてきた。空を切りそうになるその手を握る。ぎゅーっと握り返してくる。涙が目に溢れている…
「安楽‥.死‥.を‥.」
ご家族の表情が凍りつき、部屋の空気が変わる。
ここで
「大丈夫」
とか
「安心してください」
とか
そのような言葉は意味をなさない。
おじいちゃんの目を見つめ
うん、とうなずく…
安楽死を認める意味ではなく辛さの共有としてのうなずき。
おじいちゃん、弱々しく顔を横に振る‥.
もう一度目を見つめて うん、とうなずく。
おじいちゃん、目に涙を溜めたままうん、とうなずきを返してくれた。
これ以上の会話はいらない。
ご家族に おじいちゃんの今までの生活や性格の聴き取りをする。
気が短くて怒りん坊で‥意に介さぬ事があると数日機嫌が悪い。
自分の事以上に他人を心配する。
病気を治す事はできないけれどプライドを守る事はできる。
そして医療用麻薬で痛みは抑えられている事、入院中はレスキュー(※頓服の鎮痛剤)頻回に使っていたようだけど自宅に戻ってからは一回も使ってない事、大好きなお魚が食べられている事、このように良い事もたくさんある訳だから そこを大切に‥. 何とかなります‥.します!
娘さんにムンテラ(※説明)をして終了。
帰り際、おじいちゃんの手がすっと上がり、ひらひらと振ってくれた。
家族も診る
患者だけでなく家族と話すことも大事にしている。生活の場に自分が入っていく訪問診療では、介護を担う家族も一緒に診ることがなおさら大事になってくる。
早朝のホットライン…
肺がん終末期のおばあちゃん、昨日から食べられなくなった。電話の向こうの娘さんの声は困り果てていた。
「おじいちゃんに無理に食べさせないよう言ったら…食べねぇと死んでしまうべ!って、でも無理したら誤嚥するからダメって言ったら…」
怒っちゃったのですね?
「はい、プイッと外に出てずーっと草取りしてます… 私に強く言われたの、ショックだったようです…」
点滴の用意をして往診、おじいちゃんに現状を説明して点滴治療に同意して頂く。
持続皮下注を開始して必要な薬剤はサブルートから、うん、これで大丈夫。
今までおじいちゃんは一生懸命だった。時間を掛けて食事をさせ、薬を飲ませてオムツ交換も全部自分でやってきた。今までの労をねぎらい、点滴で良くなったらまたお願いしますと伝える、やっと おじいちゃん、笑顔。
遠方から時々様子を見に来る娘さんは2人の事が心配でならない…
おばあちゃんの状態は安定しており、転移はあるけれど疼痛は無く呼吸苦も無い、何かあったら24時間対応する事を確認して安心して頂いた。
80歳を過ぎて良いご夫婦ですよ、心配するからこそやり過ぎちゃう事もありますけどね。
眠剤が欲しいと来院のおばあちゃん
夜、目が覚めんのす。
逝っちまったジィのオムツ替えるいつもの時間。
ジィの声が聞こえるのす。
横にジィが寝てるのす。
確かにそこに居るのす。
でも、やっぱり居ねぇんだ。
わがっているども…
オラ、さびし。
息子にこれ話すと頭の検査しろだ何だどセヅねがら黙ってっけど。
オラ、さびし。
おばあちゃん、ヘルパーさんや訪看さんは一切入れず、私が看取る時も毅然と正座しておられました。
そうですね。
喪失感が強くなる時期ですね。
このまま おじいちゃんを傍に感じていて下さい。
眠剤はいりません、起きてもすぐ眠れるようですし…
じき、また眠れるようになりますから。
岩手にもやってきた新型コロナ 看護師同行がなくなり負担増加
訪問診療でこんなにやわらかな交流を続けてきた岩渕さん。それが、昨年後半頃からだんだん難しくなってきた。
2020年初めから日本中で話題になっていた新型コロナだが、岩手県にはしばらく感染者が出なかった。だが、いつまでもゼロではいられない。8月からポツポツ出始め、9月からは感染のリスクを減らすために看護師の同行をやめた。
看護師が往診に同行しないと仕事の手間も格段に増えた。おむつをずらしたり、血圧を測ったり、採血したり、家族に聞き取りをしたり、全て自分でやらないといけない。
「じいちゃん、ばあちゃんはすごく重ね着しているんです。その十二単みたいな服を一枚一枚めくるのも全部自分でやる。1軒の訪問に倍の時間がかかります。患者さんは減らないし、積み重なると大きな負担になっていきました」
医師会が作ったPCR検査センターの当番をこなし、11月から県内でも感染者が増えると、自分の診療所でも検査を受け付けるようになった。
ドライブスルー方式で検体を採取し、診療所の外に置いてあるプレハブの小部屋で検体を処理する。今のところ陽性者は出ていないが、ストレスは大きい。
それでも、患者や家族の話を丁寧に聴く診療は崩したくなかった。
ワンオペになり、ご家族との距離が縮まった感じだ。患者さんの息遣い、ご家族の息遣い、両方の波長を合わせるようなきめ細かい診療をしないと。
とは言っても毎日がキツいー、COVID-19との我慢比べだな。
(2020年9月7日のFB投稿)
日曜日も患者から呼び出しがかかり、医師会の会議が入る。
24時間、常に呼び出されるかもしれないという緊張。増えた負担。新型コロナの感染不安。
毎日、外来で40〜100人前後の患者を診ながら、早朝、昼休みに長距離運転をして訪問診療をする。丁寧に診る心の余裕がだんだんと削られていった。
訪問診療10年目にして、新規患者の受け入れを止める
常に電話が鳴る気がして、仙台の自宅へは月1回、2時間程度しか帰れなくなった。コロナ感染防止のため、たまに帰っても家族と食事をすることもない。自宅にさえだんだん居場所がなくなっていくような気がした。
ボディブローのように疲れが心身にダメージを与えてくる。
「これまで当たり前に丁寧にやれていたことが、気合を入れないとできなくなっていました。無意識にできていたことを、意識してやらなければならないのは大変です。食欲もなくなって体重が7キロ減りました」
悩んだ末、ついに11月からは県立大船渡病院からの新規患者の紹介を止めてもらった。12月には医師会の理事会でこう報告した。
苦渋の決断をしました。震災からもうすぐ10年、死ぬほど頑張ってきた往診と訪問診療ですが、岩渕内科医院は暫くの間、新規訪問診療対応を停止します。メンタルと体力が擦り切れました。これ以上一人でやっていると死んでしまう。
「自分が引き受けなくなれば、自宅に帰れない患者も出てきてしまうかもしれない」。こんな形で震災の時に立てた誓いを破るのは悔しくてたまらない。
訪問診療医が数多くいる都会では、他の医師に代わりを頼むこともできる。夜勤の当番でない夜に酒を飲んで気分転換することもあるだろう。
しかし岩渕さんはそれができない。酒は好きだが、夜中の呼び出しに備えて地元でほぼ飲むことはない。外出先でも患者からの「ホットライン」が鳴れば飛んで帰る。未明に亡くなったと電話があればすぐ駆けつける。
「朝まで待たせることもできますが、介護していた家族を一人でいさせたくないんです。すぐに行って安心させてあげたい。そのほうが自分も気が楽なんです」
少し うとうとしていた。
ホットライン!
本日2件目
12月になって6件目
今年になって28件目の看取り。
気力と体力が試されるかのような毎日だな、
何だか身体中が痛いぞ。
(2020年12月25日0:11分のFB投稿)
新規患者の受付を減らしたはずなのに12月は看取りが続いた。自分を叱咤しながら、必死に役目を果たした。
朝往診は遠方4件、往復45キロ。
6時台に往診車を出す。
もうね、身体はボロ雑巾のようだけど…
気持ちはまだまだオッケ(^^)
綺麗な朝焼けを見ながら
イケルイケルダイジョウプ (^^)
(2020年12月25日朝のFB投稿)
2020年12月31日に仙台の自宅に帰ったのは、ホットラインに対応し終えた午前1時半。明けて1月1日の昼には大船渡に戻った。9時間だけの滞在時間だった。
一軒一軒の訪問で感染予防の防護具に着替える
2月に入ると市内の中学校と地域での会合で集団感染が発生した。感染者の一人は、自分の患者の家族だった。多くの患者は家族が外に働きに出ており、自宅にウイルスを持ち込む可能性も常にある。
万が一自分がウイルスをもらって、体力が落ちている患者たちにうつせば大変なことになりかねない。
クラスター発生後は、訪問する家1軒ごとに、不織布のガウン、キャップ、グローブ、ゴーグルと、個人用感染防護具をフルで着て診療している。
庭先で着替えるが、冷たい海風が吹く岩手の冬では脱ぐ時に汚れた面が顔につきそうになることもある。日々の仕事に新たなストレスが加わった。
新型コロナで亡くなった友人の言葉
その直前の1月18日にはつらい知らせがあった。震災直後から毎年、被災地に慰霊の巡礼に訪れていた友人の僧侶、望月祟英さんが新型コロナウイルスで亡くなったのだ。まだ66歳だった。
友人の紹介で知り合った望月さんは、ミュージシャンを目指して20年間ニューヨークに暮らしていた時のアントニオという愛称で親しまれていた。
高野山で厳しい修行を積み、銀座四丁目で托鉢を続けた。
昨年3月、疲れで心が折れかけていた岩渕さんの診療所に巡礼の途中でふらっと訪れた。その時、地元の千丸海岸でこんな会話を交わしたのが思い出された。
「岩渕さん、『適当に生きてきた20代、30代』と言いましたよね? 私はNYでの20年間で結局モノにならず帰国しました。でもね、お互い喪われた日々ではない。お互い上手く行っていたら傲慢な人間になっていたかもしれません」
「あの時の自分に対するオトシマエを今つける、ということですか?」
「そうです。これからを生きることであの時の自分たちを生かす事ができます」
「私は突然失われた命を鎮魂する。岩渕さんは遺された人たちに寄り添ってください、我々は死ぬまでこれを続けましょう」
そう二人で誓った。
この時、岩渕さんは、「あなたははどんな存在になりたいですか?」と望月さんに尋ねたのを覚えている。
「空のような存在になりたい。たとえ雲がかかっていてもその上に空がある。岩渕さんは?」
「私は海になりたいです」
「空と海、つまり私が高野山で学んだ空海、ですね」
友がいなくなって悲しい。でも、自分が潰れかけている今、この時交わした言葉から再び力をもらった気がした。
再び新規患者の受け入れを再開 なぜ続けるのか?
2月には訪問する患者が減り、少し仕事に余裕ができた。気力が少し戻ってきた。
3月から再び新規患者を受けることを大船渡病院に伝えた。また大変な思いをするのかもしれない。
「再開するのは『やらなくてはならない』という意志があるから、としか言えません。 亡き親父もこうしただろうな、という想い、避難所で立てた誓い、 アントニオさんとの約束が私にはある。今度こそは一歩も引きません」
(終わり)
【注:記者より】記者は岩渕さんや岩渕さんの患者に万が一でも新型コロナウイルスをうつすことのないように、取材3週間前から外食や不急の外出を自粛し、人との接触をなるべく避けた。岩渕さんの同行取材では、個人用防護具を着用したり、換気をよくしたりして感染予防に努めた。
【岩渕正之(いわぶち・まさゆき)】岩渕内科医院院長
1959年、岩手県大船渡市で生まれる。1992年、帝京大学医学部卒業。同大学医学部附属病院泌尿器科、 亀田総合病院腎センターに勤務後、 帝京大学大学院医学研究科で博士号を取得。 2004年に父が倒れたのを受け、大船渡市の岩渕内科医院を継いだ。
外来診療をする傍ら、2011年の東日本大震災後から岩手県大船渡市、陸前高田市、住田町で訪問診療を続けている。