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「ここには自分を必要としてくれている人たちがいる」 3.11で痛感した地元の医師の役割

故郷を離れたくて医者になったつもりが、いつの間にか故郷の医者になっていたーー。自分を動かすのは、「ここには自分を必要としてくれている人たちがいる」という思い。それを痛感したのは、東日本大震災の体験でした。

岩手県大船渡市で生まれ、父の診療所「岩渕内科医院」を継いだ岩渕正之さん(62)。だが、最初から故郷で働こうと思っていたわけではない。

内定していた東京の大病院を蹴って、今日まで18年間、家族と離れ大船渡の医師として働く。「ここには自分を必要としてくれる人たちがいる」。そんな思いがこの土地に自分を引き寄せてきた。

それを決定的に痛感したのは、東日本大震災での体験だった。

故郷に戻りたくなくて医師に 教授に逆らって往診

医師になったのは、むしろ故郷に残りたくなかったからだ。

岩渕さんが小学校低学年の頃に大船渡で開業した父は、夜中にしょっちゅう往診に呼び出されていた。父母、弟と家族4人で同じ部屋に寝ていた岩渕さんは夜中に鳴り響く電話の音にびっくりし、その度に恐怖を感じていた。父の仕事を前向きには捉えられなかった。


父は患者には優しいと評判の医師だったが、昔気質で長男の岩渕さんには厳しかった。「しつけと言ってよく叩かれてましたよ」と岩渕さんは苦笑いする。

そんな環境から離れたい気持ちと都会への憧れから、高校からは一人東京に進学した。帝京大学の医学部に合格し、東京で泌尿器科医になった。好きな先輩がいるからというのが理由だった。

研修医2年目の時に忘れられない思い出がある。膀胱がんの末期の患者を退院させることになったが、患者には痛みが残ってた。通院もできそうもない。

「なぜ痛みがコントロールできていないのに帰すのか」と上司に疑問を投げかけたが、「大学病院の仕事ではない」と切り捨てられた。

一人で悩んでいると、外来の看護師長から「先生、往診しなさいよ」とけしかけられた。研修医が勝手にやっていいのか。でも、確かに目の前の患者さんは困っている。助けが必要だ。

カルテを持ち出し、2週間に1回、仕事が終わった夜にカテーテルの交換に通いながら、薬を調整して痛みをコントロールした。無償のボランティアだ。

「研修医の岩渕が勝手に変なことをやっている」という噂が教授の元まで届き、会議で、「この中で往診をやっている奴がいるらしいが、大学病院が往診したら医者がいなくなるからダメだとわからないのか」と怒られた。

医局に所属しながら教授に逆らえば、将来を潰される可能性もある。それでも「患者を最期に不幸にするのは医者じゃない」と信じて御法度の往診を続けた。師長も「ここが頑張りどころよ」と応援してくれた。

結局、患者は亡くなる2日前まで自宅で過ごし、最期だけ入院して亡くなった。新米医師の自分に「先生が来てくれて本当に助かった」と夫婦で涙を流して喜んでくれた。

「あれが医師としての原点でした。偉くなりたいなんて思ったことはない。困った患者さんを放っておかない医師でありたいと思って働いてきました」

「一方で、自分には緩和ケアの技術もなく、往診してもやれることは限られていました。もっとできることがあるはずだという不完全燃焼の気持ちも残りました」

父が倒れる 東京の病院を蹴って故郷へ

母校で博士号まで取って、同じ大学病院で働いていた看護師の妻と結婚。子どもも二人生まれ、2003年、東京・多摩地区の基幹病院の一つ、武蔵野赤十字病院(武蔵野市)への派遣も決まっていた44歳の時、父が脳出血で倒れた。

「動けるし、頭もはっきりしているのですが記憶が抜けてしまって診療ができなくなった。週1回大船渡に帰り、父が診られなくなった患者さんの転院先を相談しながら決め、紹介状を書く作業を始めようと思いました」

カルテを読んでいると、患者の生活や家族関係が浮かび上がり、父が丁寧に患者や家族を診ているのが伝わった。他の病院に紹介することを切り出すと、高齢の患者は皆、不安そうな表情を見せた。

岩渕さんの心が動いた。

「東京では自分の代わりはたくさんいる。でもここではかかりつけの医者がいないとすごく困る人がいる」

「僕が話をすると『あの先生の息子だから大丈夫』と孫を見るような信頼し切った様子で頼ってくるんです。そんな医者・患者関係は東京では経験したことがなかった。この人たちを放っておけない。武蔵野日赤への派遣を断って、後を継ぐことを決めました」

父はそれまで一度も医者になった自分に「継いでくれ」と言ったことはない。「これからこっちで働くから」と告げると、少し驚いたようだが、素っ気なく「ああそう」とだけ言った。

妻に相談すると、「しょうがないわね」とあっさり受け入れてくれた。「反対しないの?」と拍子抜けしたほどだ。

既に転院していた患者も、岩渕さんが後を継ぐと聞くと、みんな喜んで戻ってきた。

2004年、岩渕内科医院の院長として歩き始めた。

家族全員が大船渡に移住するタイミングで起きた震災

ただ、東京暮らしが長い妻がいきなり文化も違い、濃密な人付き合いが求められる東北の町で暮らすのは大変だ。長男が小学校に入るタイミングでもあり、教育面も考えて、段階的に移住する計画をたてた。

「急な話なので大船渡に住むところもなかったのです。東京と大船渡の真ん中は仙台。仙台にしばらく住んでもらって、その後みんなで大船渡に移住しようと決めました」

平日は大船渡で実家に寝泊りして診療し、週末だけ仙台の自宅に戻る二重生活が始まった。

長男が中学に進学するタイミングで大船渡に移住することを決めた。それが、2011年の3月だった。

父が前年に亡くなり、母だけが住んでいる実家を二世帯住宅にし、引越しを目前に控えた2011年3月11日。

東日本大震災が起きた。

家族の安否もわからず

揺れを感じたのは、午後の外来で診察している時だ。轟く地鳴りと共に突然床から突き上げられ視線がぶれた。

サイレンや津波警報が鳴り響く。壁が壊れ窓が割れ、医療器具は全て散乱した。自動ドアが壊れ、患者たちを待合室の窓から脱出させた。

診療所の隣の空き地に患者を集めている時、「来たーっ!津波ーだっ!」と悲鳴が上がった。街の方を見ると、真っ黒な波が街を押し流し、迫ってきた。目の前を大きな屋根がガラガラと音を立てて流れていく。

高台にある診療所の15m手前まで津波は迫ったが、幸い診療所に津波は達しなかった。患者や職員の無事を確かめ家に帰してから、自分はどうするか考えた。

「地域の拠点病院である県立大船渡病院が重傷者であふれている光景が頭に浮かび、『行かなくちゃ!』と思いました。怪我人や溺れた人の対応で人手が足りないはずだと思ったのです。幸い、病院までの道は通じていました」

だが、当初、病院に患者はあまり来なかった。後からわかったことだが、津波で亡くなるか、無事かに二分され、病院に来る道路も寸断されていた。

避難してきた自分の患者さんとばったり会い、「みんな、北小学校に避難したよ。走れない人はダメだった。津波に持っていかれた」と聞いた。

家族の安否は全くわからなかった。連絡が取れず、道路は寸断され仙台に行く術もない。

少し前に妻から「今度、次男の遠足で蒲生海岸に行くの」と言われた言葉が頭の中をぐるぐる回った。

(いつだ? いつ行くって言ってた?まさか、今日じゃないよな?)

仙台沿岸部は壊滅状態だと報じられ始めていた。

「死ぬわけがない、絶対生きている」

無理矢理そう信じ込んで、目の前の患者に集中した。

避難所3か所で1800人を担当 「死なせてくれ」と言うお年寄り

夕暮れに避難所となっていた大船渡北小学校に移動すると避難者であふれ返っていた。

寒い避難所のパイプ椅子に座ってウトウトしていると、すすり泣きや嗚咽の声が暗闇に響く。

「強い余震が起きる度に真っ暗な中で悲鳴が上がり、目が覚めてしまったお年寄りがぽつりぽつりと話に来ました。子どもも孫も流された人がたくさんいて、『もう自分は生きている意味はない。死なせてくれ』と頼まれました」

「話し終えると、沈黙が訪れます。医療従事者は沈黙が苦手で、そこで耐えきれずに『大丈夫ですよ』とか余計なことを言う。でもそこで自分も黙って互いをわかりあう時間が必要なんです。一緒に黙って過ごすことがよくありました」

夜明けに診療所に戻り、散乱した院内からまず薬をかき集めた。当時、院内処方だったので1ヶ月程度の薬の備蓄があったのが幸運だった。

一人になると、妻子の顔が思い浮かぶ。

「死ぬわけがない、絶対生きている」

そう自分に言い聞かせた。血圧、糖尿病の薬、抗生物質、抗不安剤など代表的な薬100種類程度を往診車に積み込み、避難所に戻って診療を続けた。避難していた看護師や薬剤師が手伝ってくれた。

「みんな薬の名前がわからないのですよ。『血圧とコレステロールの薬、あと赤い玉ッコだ』とか言う。薬の現物を並べてどれですか?と聞いたり、血圧を測りながら弱めの薬を出したりして凌ぎました」

状況確認のため市役所の災害対策本部に行くと、当時、1800人が滞在していた3か所の避難所を振り分けられた。「必要な薬のリストを作ってください。政府がヘリで輸送してくれるそうです!」とも頼まれた。

インフルエンザの季節で、抗ウイルス薬はあるのに診断キットがないなど薬の在庫内容はいびつだった。持参した薬が尽きかける頃、大量の薬が届き、地域の薬局も再開した。

3日めぐらいからは「寝られない」「熱が出た」という訴えが増え、インフルエンザの感染も広がっていった。学校の保健室を利用して隔離し、重症者は消防隊に大船渡病院に運んでもらった。

結局、岩渕さんは震災直後の3日間、徹夜で働き続けた。医療活動に没頭したのは、少しでも気を緩めると家族を思い出して不安になるからだ。

「医者の自分が不安そうな顔を見せれば、周りの人は頼れなくなります。みんなが不安な時、医師として立派に振舞わなければなりませんでした。医師は毅然とせねばならない、皆に安心を与えるべきという考えと自分の弱さのギャップで心が壊れそうでした」

震災で通院できなくなった人のために訪問診療をスタート

4日目に携帯電話が復旧し、妻から連絡があった。家族は全員無事だった。やっと張り詰めていた気持ちが緩んだ。

診療所に戻り、再建に手をつけ始めた。割れた窓や壁に開いた穴を近所の人がベニヤ板で塞いでくれた。夜はしばらく避難所まわりを続けた。

歩いて来られる患者がポツポツと診療所を受診し始めた時、避難所で「死にたい」と訴えていたお年寄りの顔が思い浮かんだ。

「今までは大家族で息子や娘が診療所に連れてきてくれたけれど、それがなくなった今、受診できなくなってしまう。医療にもかかれず、生きる気力も無くして孤立してしまう。医者がこちらから出向くべきだろうと考えました」

「家族を失い、バラバラになってしまった人たちをどうすれば支えられるか。 これから10年は依頼を絶対断らないし、医師としての命のすり潰し時にしようと決めました。10年あれば人の心も町並みも落ち着くでしょう」

「若い頃は忙しかったけど、世の中に貢献しているという実感に乏しかったのです。自分の中に幹となる部分が無かった。流される如くの毎日でした。色々誓いもたてましたがどれも結局うやむやになって終わっていた。でも、今回くらいは全うしようと心に誓いました」

それまでも急患の往診はしていたが、たまに行く程度だった。被災者が仮設住宅に移った頃から本格的に訪問診療を始め、看取りまで行うようになった。一人で24時間対応をする。プライベートな時間はほぼなくなった。

仮設住宅は、交通の便のいいところには建てられていないし、患者も足がない。大船渡病院の緩和医療科の医師から『がんの患者さんの行き場所がないから訪問してくれないか』と頼まれて、がん患者を回り始めた。

しかし、なかなかうまくいかなかった。

「壁の薄い仮設住宅では患者が痛みを訴える声も全部聞こえてしまい、家族も近所にすごく気を遣ってしまう。落ち着いて療養することができないのです。結局、仮設では看取りに至らず、再入院する人が多かった。プライバシーのないところでの在宅医療は難しいのです」

しかし、生活が落ち着くにつれ、訪問診療での看取りは増えていった。

これまで通り平日の日中と土曜日の午前中は外来診療を行い、外来前の早朝と昼休みに数人ずつ車で回る。

多くは大船渡病院から紹介されたがんの患者、脳梗塞などの病気や高齢で寝たきりになった人だ。大船渡市、陸前高田市、住田町の範囲なら、どこでも行く。常に30〜40人ぐらい診るようになった。

震災後に増えた心の診療

震災直後に「心のケア」に入る支援者を、岩渕さんは複雑な心境で見ていた。

「信頼できる医療者とそうでない人の質の差が激しかった。酷い人だと被災したばかりの人に『何があったか一から話してください』という人もいました。追い出しました」

「みんな1回だけ来るような人には話せないのです。それに、周りに人がいてプライバシーもない避難所でそんな大事な話はできない」

この時の経験が、地元の医師として、被災者の心のケア関わる覚悟につながった。

内科や泌尿器科が専門だが、「寝付けない」「痛みがある」という症状に、被災が影響している場合もある。精神科やトラウマケアの研修に通い、診療の方法を1から学んだ。

「一見、震災の影響なんて何もないだろうと思うような人が、つらい思いを抱えていたりします。よくよく聞くと、『バスも海側の席には座らない』という言葉が出てきたりする。高い防潮堤ができて海が見えなくなって批判されていますが、逆に『海が見えなくなって思い出さずに済む』という人もいます」

ある70代の男性は、最近「海をじっと見ていると急に海が盛り上がり、色が黒くなって襲ってくる」と診療中に打ち明けた。人に話したのは初めてだという。

今も2月に入った頃から、「3.11が近づいてますけれども、気になることはないですか?」と患者に聞くこともある。「動悸がする」「サイレンが鳴るとつらい」などと話し出すこともある。

「生活に支障が出ていれば治療も考えますが、まず話を聴くことで解放してもらう。専門家ではないので転びそうになったら支え、自分の手に負えなければ精神科に紹介する。それぐらいしかできないですが、何でも話していい安全な場だと思ってほしい」

家族との同居は諦める 自分の人生も変えた震災

震災によって、家族と一緒に暮らす計画は立ち消えになった。

仙台はしばらくしたら元の生活に戻ったが、大きな被害を受けた大船渡市は学校もなかなか再開できなかった。

「こういう計画はタイミングを失うとだめなんですね。結局、同居する話はなくなってしまいました」と岩渕さんは言う。

外来診療に訪問診療が加わり、月に1度程度しか帰宅できなくなった。飼っている犬も帰るたびに自分の顔を忘れて吠えるのが寂しい。

震災当時小学2年生だった次男は、休みに遊んであげた記憶もゆっくり話す機会もほとんどなく、今もあまり距離は縮められていないなと思う。

「震災は自分の人生にも影響を与えたと思いますね。あれがなかったら今頃どうなっていたかなと思うことはあります」

ただ、高校2年生になった次男は最近、妻に「医者になりたい」と言っているようだ。自分と同じ職業を希望しているのはやはり嬉しい。自分の父も、内心こんな気持ちだったのかなと思う。

「息子は自分の好きな働き方を選べばいい。継いでくれなんて思いません。やりたくもないのにできるような甘い仕事でもないです。でも、もしやりたいと言えば全面的にバックアップします。その価値はある仕事ですから」

(続く)

【注:記者より】記者は岩渕さんや岩渕さんの患者に万が一でも新型コロナウイルスをうつすことのないように、取材3週間前から外食や不急の外出を自粛し、人との接触をなるべく避けた。岩渕さんの同行取材では、個人用防護具を着用したり、換気をよくしたりして感染予防に努めた。

【岩渕正之(いわぶち・まさゆき)】岩渕内科医院院長

1959年、岩手県大船渡市で生まれる。1992年、帝京大学医学部卒業。同大学医学部附属病院泌尿器科、 亀田総合病院腎センターに勤務後、 帝京大学大学院医学研究科で博士号を取得。 2004年に父が倒れたのを受け、大船渡市の岩渕内科医院を継いだ。

外来診療をする傍ら、2011年の東日本大震災後から岩手県大船渡市、陸前高田市、住田町で訪問診療を続けている。