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震災後10年間、過去にすることができなかった傷 悲しみを受け止めてくれる誰かを

東日本大震災から10年。つらい体験のフラッシュバックに一人で苦しんでいた女性は、かかりつけ医と共に歩みながら回復しつつあります。時が経つにつれて強くなる痛みもある。悲しみを分かち合える誰かが必要だと医師は言います。

岩手県大船渡市のみちこさん(仮名、58)は2021年2月13日午後11時過ぎ、自宅で強い揺れを感じた。反射的に身体を丸めた。ドキドキして、涙があふれる。

(あぁ、またあんな思いをすんのか。また、イワブチ先生のとこに行かねばなんねえ......)

振り出しに戻ってしまうような気がしたその時、「先生から教わったこと」を思い出した。目を開けて周りを見た。

ここはオラの部屋。オラは今、安全な場所にいるーー。

フラッシュバックは起きなかった。翌朝、いつも通り仕事に出かけた。

東日本大震災から10年。支え続けてくれた医師の前でこう言えた。

「やっとあの時の記憶を箱にしまって、ふたを閉められた気がするんです」

7年後にあふれたコップの水「先生、オラもう耐えられねえでば」

3年前の2018年2月27日。風邪をひいた時などにたまに大船渡市の住宅街にある岩渕内科医院にかかっていたみちこさんの様子がいつもと違った。

診察室に入ってきて、院長の岩渕正之さん(62)の顔を見るなり、こらえきれずに泣き出したのだ。

「いつもと違うことで来たんだなとすぐ気がつきました」と岩渕さんは振り返る。

「どうしたの?」と聞かれて、みちこさんはこう訴えた。

「先生、オラもう耐えられねえでば。涙ぁ止まらねえでば。なじょすれば許されるんだべか」

震災からもう7年経つのに、仕事をしていても、車を運転していても、家で家事をしていても、関係ない人と話していても、突然、あの体験が現実に起きていることのように蘇る。

黒い波、おばあさんの叫び声、そして離してしまった手の生々しい感触。

いつも泣きながら体を固くしてその時が過ぎるのを待ち、しばらくして現実に帰る。2017年の秋頃からはフラッシュバックの頻度も多くなり、もう精神的に限界だった。

7年間誰にも言えずに自分の胸にしまっていた記憶を岩渕さんに語り始めた。

助けたかったのに助けられなかったあの手

2011年3月11日午後2時46分。

介護施設で働いているみちこさんはこの日、休みを取っていた。給料日なので銀行でお金を下ろし、新車にガソリンを入れ、買い物に行こうと大船渡市を斜めに走る国道45号線を走っていた。

加茂神社の前の交差点に差しかかった時、突然、大きな揺れに車ごと激しく揺さぶられた。

おじいさんが「そんなところいないで逃げろ!波、来っから逃げろ!」と自分に向かって叫んでいる。

サイレンが鳴り、気持ちは焦るが、渋滞にはまり立ち往生した。「車なんて置いて逃げろ!」。買ったばかりの新車がもったいなくて乗り捨てることができない。そもそも自分が降りると後続の車が動けなくなる。

「波来たーっ!」

叫び声が聞こえ、車を諦めて逃げようと思った時にはもうドアが開かなかった。津波の水圧だった。

「オラもう死ぬんだと思いました。周りの車の中の人が手を振っていて、『なんで手を振るんだろう』と思ったのですが、今思うと窓が開かなくて助けを求めていたんです」

車は神社の階段のポールに引っかかった。その時、70代ぐらいのおばあさんが目の前に流されてきて、とっさにその手をつかんだ。

だが、波の力が強くてどうしても体を引き寄せられない。自分から手を離そうとしたおばあさんに、みちこさんは叫んだ。

「ダメだよ!一緒に生きよう!」

「オラはもういいんだから!大丈夫だから!離せ!」

「ダメだよ!」

「離せ!アンダは生きろ!」

つないでいた手が離れ、おばあさんは波にのまれた。右手にあの柔らかい手の感触だけが残った。

呆然としている間もなく窓をこじ開け、がれきをどけながら脱出した。車の屋根の上によじのぼった。

あたりは暗くなり、周りには助けを呼べる人の姿もない。ずぶ濡れになったまま、屋根の上で一晩過ごした。

翌朝、救助に来た自衛隊のヘリに吊り上げられて、助かった。

(オラがつかまえていられなかったから、あのおばあさんは死んだんだ。オラのせいだ)

繰り返し、自分を責めた。

みんなつらい思いをしているのに、私、弱虫だよね?

岩渕さんに一通り話すと、安心したのかまた涙が出てきた。

震災直後から何度も経験してきたフラッシュバック。友人も知り合いもみんな親を亡くしたり、子どもを亡くしたりしている。「もっとつらい思いをしている人がいるんだから自分は大したことはない」。そう思って誰にも話せなかった。

だが7年経つのに記憶は薄れるどころか、何度も鮮明に蘇る。光も音も匂いも目の前で起きているかのように現れる。トラウマで心は壊れかけていた。

「先生、私、弱虫なんだよね。みんな震災でつらい思いをしているのに、こんなことで負けて弱虫だよね」

泣きながら自分を責めるみちこさんに、岩渕さんはそっと語りかけた。

「それはね、弱虫なんかじゃないですよ。ちゃんと受け止めて、自分の中で忘れたいと思う気持ちがあふれて、どうしようもなくなったんでしょう?」

受け止めてもらえて、また涙がこぼれた。いっぱいいっぱいになっていた気持ちが、少しだけ楽になった。

「しばらく眠れていない」と訴えるみちこさんに、岩渕さんは睡眠導入剤を2週間分処方した。「まず、夜はしっかり寝ましょう。夜と昼の区別をちゃんとつけて過ごしましょう」と伝えた。

東日本大震災による大船渡市の死者は340人、行方不明者は79人 。トラウマを抱えた患者は、岩渕さんのような内科の開業医のところにも何人も来る。夫と子ども二人、両親を津波で亡くした30代の女性患者は精神科に紹介したが救えず、最終的に自死を選んだ。

症状が重い患者は大船渡病院の精神科につないでいる。でも岩渕さんを信頼し、記憶や気持ちを言葉にできているみちこさんはまず自分が診ようと決めた。

長い治療が始まった。

自殺を考えたことも 認知行動療法を始める

みちこさんは当初、気分の上下が激しく、泣くつもりがない時でも涙が突然あふれ出す問題を抱えていた。

「1ヶ月経った2018年の3月は震災報道も増え、感情がコントロールできないことに困っていました。『もしかしたら自殺するかもしれない』と切羽詰まっていて、タイミング次第では実行してしまうかもしれない。心に余裕を持ってもらうために抗不安薬を処方し、傾聴を続けました」

この頃、みちこさんは死に強く引き寄せられていた。「手を離しておばあさんを死なせてしまった自分は役立たずだ。生きていても意味がない」と思い詰めた。

「仕事帰りに橋から飛び降りて死のうという考えが頭をよぎったこともあります。『ダメだダメだ』と思い止まり、帰ってきてからずっと泣いていました」

薬は効果を見せ、1ヶ月ほどして落ち着くと、睡眠導入剤は眠れない時だけ飲む処方に変えた。突然泣き出すことは減ったが、気分の上下は続いた。

2018年6月から、岩渕さんは認知行動療法を始めた。

「その日1日を過ごすのにいっぱいいっぱいだったので、少し先のことを考えてみるように促しました。1週間後、1ヶ月後、半年後に自分はどう生きていたいか聞き、その目標のために今、何をしたらいいかを考えてもらうようにしたのです」

先のことを考え、自分で行動や生き方をコントロールできる。そんな感覚を少しずつつかんでいった8月の受診では、「胸のつかえが少し取れてきました」「自分は大丈夫だと思える時間が増えてきた」という言葉も聞かれた。

10月には薬を飲まなくても眠れるようになり、睡眠導入剤をやめた。抗不安薬も少しずつ減らしていった。

1年後、震災報道で再び襲ったフラッシュバック

治療に通い始めて1年が経った2019年2月。順調に回復しているように見えたが、3.11が近くにつれ震災の報道が増え始め、みちこさんは再び調子を崩す。

「テレビで津波の映像とか当時の様子が報じられると、動悸が止まらず足が震えました。『どうしたらいいんだろう。どうしたらいいんだろう』とパニックになりました」

しばらくなかったフラッシュバックも再び起きた。あの時つかんだおばあさんの手の感触、押し寄せる津波の音、水の冷たさ、叫び声、匂い。目の前で起きているように生々しく蘇る。

この時、岩渕さんはフラッシュバックの対処法を伝えた。

「その時の経験が目の前に起きると、ほぼ100%の人が目をつぶって体を丸めて耐えるんです。嵐が過ぎ去るのをただひたすら待つ。でも実際は、それが起きているわけではないですね」

「目をつぶって耐えてしまうと余計続くので、無理にでも目を開けてください。そこは自分の部屋でしょう。それは起きていないと気づくことが大事なんです」

もう一つ、岩渕さんは自分が安心して過ごせる場所を想像することを勧めた。

「自分の部屋でもいいし、落ち着く場所を思い浮かべるんです。そうしながら頑張って目を開けているとフラッシュバックは消えます。起きること自体は仕方ないので、起きた時に対処できるようにしましょう」

その後もフラッシュバックは襲った。教わった通りにやろうとしても、最初は怖くてうまくいかない。

「でも、『目を開けよう。目を開けるんだ』と自分に言い聞かせて、少しずつ『ここは自分のうちなんだ。安全な場所なんだ』と周りのものが見えるようになってきました」

自分は3.11ではなく今を生きているーー。そう実感すると、あの生々しい手の感触も消え去った。

職場にはあの時のおばあさんと同じぐらいの年代の利用者がいる。3.11が近づくと、「あんたあの時、どこさいた?」と聞かれることがよくあるが、いつもごまかしていた。

みちこさんは職場では元気な明るい人で通っている。自分のつらい記憶は話してはいけないと笑顔のままで明るく振る舞い、家に帰るとぐったりと疲れ果てていた。

一進一退 繰り返し見る「水の夢」

フラッシュバックへの対処法を少しずつ身に付け、2019年4月には診察室で笑顔も見せるようになった。

「それまではほとんどみちこさんと目が合わなかったんです。この頃になると、しっかりと私の目を見て話せるようになってきましたね」

抗不安薬もつらい時だけ飲む処方に変えた。

令和に年号が変わった5月も、「夜中に起きて思い出してしまうことがある」と言いつつ、「気分は前向きになった」とも話すようになっていた。

しかし、8月になると、今度は水に溺れる夢に苦しめられるようになる。

「水に入って溺れる夢とか、水をかけられる夢とか、海の中に入って殴られる夢をみるようになりました。まったく泳げないので、もがいて目が覚める。1週間に3回ぐらいそんな夢をみていました」

岩渕さんはトラウマ治療の難しさを語る。

「津波のイメージがずっと残っているのです。必ず水に関する悪夢なのですね」

その頃は、溺れる気がして風呂で頭を洗うことさえできなくなった。水に苦しめられる悪夢はその後も半年以上続いた。食欲もなくなり、体重も減った。

2020年の3月11日に、職場で黙祷をした時、涙があふれた。

ただ、出るのは涙だけで、あの時の光景や手の感触は蘇らなかった。

岩渕さんはみちこさんの変化に気づく。

「3.11をどう過ごしたか診察室で話す時、表情が強張っていませんでした。『泣いちゃったの』とは言っていましたが、悲しいのは当たり前です。ただそれを現実に起きていること、つまりフラッシュバックとして体験するのではなく、過去の悲しい思い出として捉えられるようになっていました」

豪雨災害や台風の度に思い出す それでもコントロールできるように

4月になると気分も安定し、夢も見なくなった。

7月に九州や中部地方で豪雨災害が起き、その報道を見たみちこさんは再び胸がざわつく。「車の屋根に乗っている人が映っているのをテレビで見て、『あの時オラも車の上さいたんだよな』と思い出したんです」

それでもフラッシュバックは起きなかった。別の患者の中には、それまでずっと安定していたのに、この豪雨災害報道でフラッシュバックを起こす人もいた。その人は精神科につないだ。

みちこさんはこの時、親しい人に「豪雨の映像で震災の時のことを思い出した」と話すと、「なんでそんなこといちいち気にしてるの!」と突き放され、傷ついた。

「私にしてみたらつらい出来事で、やっと人に話したのに否定された。それもショックなことでした。やはり人に話せることではないのだと思いました」

だが、岩渕さんにだけはそのつらさも含めて、全て話すことができた。

「ここにくるたびに先生が全部聞いてくれる。なんでも安心して話すことができる。そんな場所でした」

台風シーズンの9月には再び気分が落ち込み、フラッシュバックも起きた。それでも10月には持ち直した。落ち込んでも、自分で気持ちを立て直せるようになっていた。10月末の受診でそれまで出していた抗不安薬も全てやめた。

「これは冒険でした。仕事中に薬の副作用で眠くなるとも訴えていたので、仕事をとても大事にしているみちこさんが自分を責めてしまう可能性があった。『調子が悪くなったら必ず来てね』と約束してもらい、薬をやめてみました」と岩渕さんは言う。

みちこさんも薬を止めることに不安はなかった。

「過去は過去、今は今と思えるようになっていたので、自分であの記憶にふたをすることができると思いました」

しばらく順調に過ごしていた。

2021年2月13日の地震 フラッシュバックは起きなかった

そして、震災10年を迎える直前に起きたのが、2021年2月13日深夜の福島沖を震源とする地震だ。

自宅に一人でいる時に揺れを感じ、恐怖で涙が出た。

「動悸がしてパニックになって、足が震えました」。でもそこで、しっかりと目を開け、フラッシュバックが起きないよう自分で対処できた。

朝の4時頃まで寝付けなかったが、少し眠って目覚めた時、そんなつらい気持ちではない自分に気づいた。いつもの時間に出勤した。結局、その日は岩渕内科にかかることはなく、次の予約日に予定通り受診した。

「あの時は絶対フラッシュバックを起こしているのではないかと心配していました。大きな横揺れで同じような地震でしたから」と岩渕さんは言う。

「大丈夫だった?」と聞くと、みちこさんは「大丈夫でした」と答え、その時の様子を話した。

震災の記憶を思い出したけれども、「あのフラッシュバックがまた起きるのか」という不安だけだった。

サイレンが鳴らなかったのも良かった。強烈に耳に残るあの音が再び流れていたらどうなっていたかはわからない。でも、岩渕内科に緊急受診することもなく、自分で気持ちを落ち着かせることができた。

みちこさんは「箱にしまった」という表現を繰り返しながら、こう語る。

「自分ではどうにもできないぐらい振り回されていたのですが、自分でちゃんと箱にしまって、ふたを閉めることができました」

岩渕さんは「これまではその箱の中に自分も入って、出口のない過去に閉じ込められていた。でも今は箱の外に出て、過去は過去として距離を置くことができるようになったのでしょう」と考える。

こんな思いをしている人はたくさんいる 

みちこさんは岩渕内科に通ったこれまでを振り返る。

「先生のところでいっぱい泣きました。自分の中で処理しようと思っていたのに、気持ちの持っていきようがなかった。でも先生のところに来るとホッとして、涙が出て、自分をさらけ出せた」

「お医者さんと患者さんって遠いじゃないですか。でも先生はいつもここに来たら寄り添ってくれる。そばにいてくれる身近な先生なんだね。またつまづくことがあるかもしれないけど、先生がいつもここにいてくれるから安心しています」

岩渕さんはこの10年の診療で、みちこさん以外にも人知れずあの時の傷を抱えている人がたくさんいることを感じてきた。

「東日本大震災に限らず、これからも色々なところで災害は起きるでしょう。その時に、みちこさんのように頑張って自分だけで苦しむ人がたくさんいるはずです。必ずしも医者でなくてもいい。自分の中に閉じ込めずに悲しみを分かち合える人、話を聴いてくれる人がいることが必要なんです」

特に被災地の医療者は、そうした人がいることを頭に置いて診療することが必要だと思っている。

「明るい笑顔の裏側に隠れたものが何かないか。こちらから聞き出すのではなくて、相手から自然に言い出してもらえるような雰囲気を作ることがとても大切です。無理に言葉にしなくても、一緒に黙っている時間があってもいい」

「記憶は10年経つと風化するんです。でもつらい思いは、年月が経つにつれ強くなることもある。大変なことが起きた時に、よく『時間が解決する』と言いますが、ほうぼうで一人じっと我慢している人がいます」

周りの人にできることは、アドバイスや気の利いた言葉をかけることではない。沈黙して耳を傾けることだ。

「10年経つとますます人に言うことができなくなっています。寄り添うって難しい。無遠慮に心の中に踏み込むのではなくて、誰でも回復力は持っているからそれを信じて待つ。それが大事なんだろうなと思います」

(続く)

【注:岩渕院長より】 今回の取材についてはみちこさんから「何も言えずに自分の中にしまい込んで苦しんでいる人が多い。時間が経つほどつらさは増す。聴いてくれる人の存在が重要だから、それを私は伝えたい」との申し出がありました。

もし取材中に気持ちの変化が起きたときは即中止する、取材の後の精神面のフォローアップは厳重に行い、いつ再現するか分からないトラウマのフラッシュバックが起きた時には24時間いつでも良いので私のホットライン携帯に連絡するように伝え、安全な場所の提供をすることとしました。

【注:記者より】記者は岩渕さんや岩渕さんの患者に万が一でも新型コロナウイルスを感染させることのないように、取材3週間前から外食や不急の外出を自粛し、人との接触をなるべく避けた。岩渕さんの同行取材では、個人用防護具を着用したり、換気をよくしたりして感染予防に努めた。

【岩渕正之(いわぶち・まさゆき)】岩渕内科医院院長

1959年、岩手県大船渡市で生まれる。1992年、帝京大学医学部卒業。同大学医学部附属病院泌尿器科、 亀田総合病院腎センターに勤務後、 帝京大学大学院医学研究科で博士号を取得。 2004年に父が倒れたのを受け、大船渡市の岩渕内科医院を継いだ。

外来診療をする傍ら、2011年の東日本大震災後から岩手県大船渡市、陸前高田市、住田町で訪問診療を続けている。