『スパイダーマン』オタクだけど、『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』のすごさがちょっとでも伝わってほしいので解説するよ

    6月16日に日本でも公開を迎えた、映画『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』。その深すぎる魅力を、原作コミックからずっと追いかけている『スパイダーマン』オタクのライターが語ります。

    この映画を見た時、僕は正直焦った。

    こんなにスパイダーマンのコード(文脈)まみれの話を作ってくれてありがとう。スパイダーマンおたくの冥利に尽きる。

    だけど、同時に世の中でスパイダーマンはそこまで読まれていないと思うので、僭越ながらちょっとばかり解説をすることで、少しでもそのすごさが伝えられたらなと思います。これで少しでもスパイダーマン読者が増えるといいね。

    『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』

    はじめに述べておきますが、この記事ではイースターエッグの解説などはしません。

    期待に応えられず申し訳ないのですが、正直自分はそういうのが得意なタイプのオタクではありません。そもそも、あの密度を劇場で何度か見ただけで把握しきったとして解説するのはおこがましくてできないというのもあります(※)。

    ※詳しい人による解説はこちらをどうぞ(英語記事です)

    また、これからあまたのスパイダーマンを呼ぶときは「スパイダー/スパイダーズ」とします。今回出てきたスパイダーズの多様性に鑑みるに、スパイダーメンではあまりにも男性中心主義かつ人間中心的すぎるので。映画で大切にしていたから、こちらも尊重します。

    最後に、この記事はネタバレを含むので、まだ見ていない人は先に映画を見るか、寛大な心で読むかしていただけると幸いです。

    『スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース』予告

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    「スパイダーマンのお約束」という絶対的ルール

    今回の映画は前後編になっていて、公開中の『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』はいわば“出題編”だと自分は受け取りました。

    当然、解決編『スパイダーマン:ビヨンド・ザ・スパイダーバース』(2024年公開予定)に続くのですが、せっかくなのでこの挑戦状にスパイダーマン読者として挑んでみたいと思います。

    さて、スパイダーマン読者として気になるのはやはり、作中を貫く最大のルール「Canon Event」(カノン・イベント)でしょう。

    「Canon Event」とは何か?

    そもそも異世界には様々なスパイダーズが存在しています。例えば、今シリーズで出てきたスパイダーズで言えば、未来のスパイダーであるミゲル・オハラや、スパイダーマンインディア、スパイダーグウェン、豚に噛まれた蜘蛛のスパイダーハムなどが挙げられるでしょう。

    ミゲル・オハラ

    他にも日本で有名なのは池上版スパイダーマンこと小森ユウや、東映版スパイダーマン、ボンボンで連載していたスパイダーマンJ、スパイダーマン/偽りの赤のピーターやシルクそれから尾ノ前侑(厳密には設定から外れますが個人的な思い入れからここに加えたいと思います)やサクラスパイダーなどもいますね。

    そんなスパイダーズなのですが、今作ではみな「スパイダーマンとしてのお約束ごと」に強く縛られています。

    身近な人の死、重いものを持ち上げ脱出する有名なシーンや、一時的な引退、シンビオートとの遭遇など――こうした“お約束ごと”が「Cannon Event」であるとされており、これが実行されなかった場合、その世界ごと滅んでしまいます。

    例えばスパイダーマンインディアの世界は、本来「刑事さんを救えず喪失感を味わう」というのが「Cannon Event」でしたが、主人公・マイルスが刑事さんを救ってしまったことでこれが実行されず、その結果彼のユニバースが滅びの危機にさらされました。

    大いなる力には大いなる責任とともに犠牲が伴う。スパイダーズというのはかくも過酷なものだったんですね……知りませんでした。

    そしてこうした悲劇を避けるため、自身の過ちから学んだミゲル・オハラは、多元宇宙からスパイダーズを集め、多元宇宙的なトラブルを解決しつつ、Cannon Eventが阻止されないようにする組織「スパイダー・ソサエティ」を結成する――というのが本作の柱となるストーリーです。

    「全然Cannon通りじゃない」という矛盾

    「Cannon(正典/原作)通りでなければ、世界が滅びる」とはとてもユニークな設定です。

    しかし、それなら今回映画に出てきたスパイダーズはいずれも原作に忠実でなければおかしいということになります。にもかかわらず、原作とキャラクターが似ているかと言ったら別にそうでもありません。

    特に原作のミゲルはスパイダー・ソサエティなんて作ったことはないし、何ならそれに類似する組織を作ったのは別のスパイダーです。作中の彼の立ち位置と不思議と被りますが、納得感さえ担保できれば他人の設定をかすめ取るのはいいのでしょうか? 当然ダメでしたよね。

    それに 原作のチョイスもピーター・パーカーに偏りすぎていると感じます。「原作通りであれ」というのであれば、普通問われるのは、例えばスパイダーグウェンだったらスパイダーグウェンの、マイルスならマイルスなど「そのキャラクター自身の原作再現度」であるはず。

    しかし劇中で描かれるCannon Eventの多くは、漫画『アメイジング・スパイダーマン』誌の主人公、ピーター・パーカーに由来するものがほとんどです。

    これの何がおかしいって、このCanon Eventについて対処しているのが、よりにもよって「ピーターと真逆であること」をコンセプトに作られたミゲルだからです。そしてあいにく漫画版のミゲルは、ピーターのような人生は一切送っていません。

    Cannon Eventを守らせようと躍起になっている、スパイダー・ソサエティの面々がCannonを守っていない。にもかかわらず、なぜかCannonを守っていることになっている。

    この複雑な矛盾をどう考えればいいのでしょうか?

    原作はむしろ「なんでもあり」だった

    本人たちが「Cannonを守っている」という意識である以上、我々もそれを尊重してCannon――すなわち原作にあたるのが筋というものでしょう。この場合は原作の漫画『スパイダーバース』です。

    原作のスパイダーバースでは「Every Spider-Man ever!」をキャッチフレーズに、古今東西あらゆるスパイダーズが集結し、次元をまたにかける吸血鬼一家のインヘリターズと死闘を繰り広げました。

    ここに集結したスパイダーズのオリジンは実に多様で、中の人がピーター・パーカーである必要も、特殊な蜘蛛に噛まれている必要もなく、もっといえば人間である必要すらもない。

    では何をもってスパイダーズと定義しているかというと、作中の理屈としては上位存在であるマスターウィーバーに、どのような過程であれ「パワーソースとして蜘蛛のトーテムを与えられたかどうか」でした。

    細かい理屈を抜きにするなら、「世界観を共有していないが称号を共有しているシリーズもの」あるあるだと思ってくれればいいでしょう。

    どんなに見た目や設定、関係者が異なっていても、それをその称号で呼ぶ限りそうと認知するほかがないというやつです。

    なぜ、それが「◯◯」なのか、それは本人あるいは周囲がそう呼んでいるからである。◯◯には好きな長期シリーズ名、例えば仮面ライダーやプリキュアなどを入れてみると理解しやすいでしょう。

    このような設定が採用されているおかげで、あらゆるスパイダーズが肯定されました。コミックに出てくるあまたのスパイダーズはもちろん、落書きにすぎないスパイダーズも、オリキャラのスパイダーズもごっこ遊びのスパイダーズもすべて等しくスパイダーズとして認められている。

    そう考えると、今回の映画『スパイダーバース:アクロス・ザ・スパイダーバース』の設定は「原作を裏切っている」とさえいえるでしょう。

    「うわべの理解」という偏見への抵抗

    では、なぜ今回の映画には原作と矛盾したこのような設定があるのか。身もふたもない話をしてしまえば、この映画シリーズを通じて、「だれもがスパイダーズでいい」という話をするための前振りだからでしょう。

    今作のストーリーのコンサルタントにして、原作の『スパイダーバース』を手掛けたダン・スロットはかつて「君は肌の色でスパイダーマンになれないとでもいうのかい?」(意訳)​といったことをTwitterでつぶやきました

    It boils down to this:

    A non-white child is playing with a Spidey action figure,
    would YOU go up to him & say:

    "You can't be Spider-Man."

    — Dan Slott (@DanSlott) February 21, 2015
    Twitter: @DanSlott
    訳:私が言いたいのはこういうことです。白人以外の子供がスパイディーのアクションフィギュアで遊んでいます。あなたはその子に近づき、こう言いますか?「きみはパイダーマンにはなれないよ」

    まさしくマイルスが戦っているのはこういった思い込みです。

    創作でもごっこ遊びでも、スパイダーズの話をしようとすれば、どうしてもピーター・パーカーの影響は避けがたいし、それと比較してしまう。

    それはつまり、「そんなのスパイダーマンじゃない(≒君はピーターらしくないからスパイダーマンにふさわしくない)」という呪いの言葉です。

    前述のように原作ではとっくに解決済みですが、残念ながらそこまで原作が読まれているわけでもなく、この思想が広く普及しているわけでもない。

    なんなら正典である『アメイジング・スパイダーマン』を除いて、原作のピーター・パーカーが完全に再現された作品はいまだなく、この呪いはほとんど「妄言」といっても過言ではありません。

    今までだって「原案」程度だったじゃないですか。胡乱な要素はいつもオミットしてきたじゃないですか。

    「Canon Event」というなら『アメイジング・スパイダーマン』誌がここ60年で行ってきた胡乱な出来事を全部採用してくれよ!!! ずるいぞ、きれいな歴史に舗装しながら同情を誘うのは!!!!

    社長になって蜘蛛座を背負って大気圏に突入するスパイダーマンとか読もうよ、マジ面白いから。

    最近ならクローンがブラック企業で働いた結果、心身に異常をきたし最終的にヴィランになってしまうシリーズも良かったよ。

    その後、ヴィランになったものの性根がいい人すぎて全然ヴィランとして大型イベントが進行できなくてグダグダになってしまった『Dark Web』も良かった。最後にその人がパンプアップしてデビルメイクライ3みたいな塔が生えてくるのも最高にクールだったし、そのインパクトをしばらく忘れられなかったからね。

    閑話休題。

    そうした世間からの偏見や思い込み、言ってしまえば「うわべの理解」に対して抵抗しているのが、この『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』です。

    母はアメリカ領のプエルトリコ出身で、父はブルックリンという、要するに“地元出身”のマイルスに対し、「移民は当然葛藤を抱えている」と言ってしまうようなコーディネーター。

    マイルスのことをろくに知らないのに「子育ての指標にしている」と言ってしまうピーター・B・パーカーなどなど、劇中でマイルスがさらされる偏見や思い込みの例を挙げればきりがないほどです。

    マイルス

    また、ここから先はすでに「原作の向こう側に行ってしまったお話」なので正確性が担保できませんが、ここでなぜ今回グウェンがダブル主人公になっているのかがポイントになってきます。

    今作ではスパイダーグウェンがトランスジェンダーの側に立っていることが暗示されていますが、原作では明示されていません。

    グウェン

    今までの話を踏まえたうえでそのことを考えてみると、後編のヒントになるかもしれませんね(このへんの話のより詳しい人の解説はこちらから)。

    果たしてマイルスはこの「押し付けられたストーリー」に抗うことができるのか。

    まあ、ピーターだったら「助けるときだけスパイダーマンじゃなければいいじゃん」といった解決の仕方をしそうですがね、あの人は何というかこう自由人で、あまたのイベントをこなしてきた歴戦の猛者だから。

    でも、マイルスは比較的常識人なので、いい感じの解決方法を探してくれそうな気が……いや、今回の映画でだいぶピーターのような言動をとっていたからわからない。もう、僕の知っている彼ではないのかも。

    なんにせよ、後編も楽しみですね。

    書いた人:P.P(@downclown99
    気が付けばスパイダーズを追いかけている期間が、人生の半分を超えそうで怖いです。こんなに長い付き合いになるとは思ってもみませんでした。多分、もう少し縁は続きそうです。