当時4歳だった息子を、保育園の事故で失った母親がいる。
十数年のときを経て、その喪失と向き合おうとカメラを手にした彼女は、遺品や自らの痛みを写真におさめ、作品にまとめてきた。
今年、新たな挑戦を始めるという。「自分と同じように喪失を体験した遺族たちの、“その後”を撮りたい」と語る、その思いを聞いた。
「保育園でバスの置き去りにされて、熱中症で亡くなったニュースがありました。だいたいの人は『かわいそうだな』『大変だな』で終わって、そのまま忘れちゃいますよね」
そうBuzzFeed Newsの取材に話すのは、榎本八千代さん。保育事故による熱中症で、ひとり息子を亡くした遺族だ。
「息子の事故だって、17年も経ってるから、みんな忘れちゃっていると思います。でも、遺族たちはみんな生きているんですよ。私もそうなんです。生きてるんですよ、必死に生きてるんです」
「私と夫にとっては昨日のできごとみたいに感じられるくらい。いまでもテレビでCMなんかが流れてくると、『あれ、ゆうくん好きだったよね』と夫と話したりして……」
「なぜ、息子は死んだのか」
長男の侑人くんが、埼玉県の上尾保育所で亡くなったのは、2005年8月10日のことだった。
園内で遊んでいるうちに行方が分からなくなり、約1時間後、ちいさな本棚の中で、ぐったりとした状態で見つかった。熱中症で病院に救急搬送されたが、そのまま、亡くなった。
保育士たちが目を離している間に起きた事故。榎本さん夫妻は民事裁判を起こして真相を明らかにしようとしたが、「なぜ侑人が死んだのか」という疑問の答えは見つからないままだった。
長年の不妊治療の結果、ようやく授かった最愛の息子の死。何も手につかない、時間がただ流れるだけの毎日が続いた。数年間は家の中にこもりきりになった。
「こういう事故が起きるとね、誰も憎めないんですよ。そうすると、今度はその憎しみが誰かじゃなくって、自分に行く。どうしてあんな保育園に預けちゃったんだろう、私が働いてなければよかったとかって、いまでも思っていますよ」
「私がもしあの保育園に預けてなければ、息子はちゃんとした青春を送って、成人を迎えて、自分の人生をつくりはじめようとしていたはず。そうやって、一生死ぬまで追い詰められるんだと思います」
普通に生きようとした、その先で
認知療法などを経て、榎本さんがようやく社会と関わりを持てるようになったのは、事故から8年ほど経ってからだ。
「まったく違う人生を歩んでみたい」と京都造形芸術大(現・京都芸術大)の通信教育部に入学し、写真を専攻した。そこで出会ったのが、写真家・石内都さんの作品だった。写真集『Mother’s』『ひろしま』で自身の母親や被爆者たちの遺した「もの」を撮影している女性だ。
「心の整理をする区切りにもなる。そういう時期がきたんだ」。この出会いをきっかけに、榎本さんが卒業制作でテーマに選んだのが、侑人くんの死だった。
息子の遺品を撮影するという製作は1年に及んだ。生前の記憶が蘇ることもあり、苦しかったが、「死と対峙しないといけない」と言い聞かせながら作品づくりに集中し、写真集にまとめた。展覧会も、開いた。
さらに自分の心の奥底に向き合おうと、新たな作風にも挑戦した。「普通に生きている」いまの現実を夢として描いたことや、痛みを痛みとして表現しようと家族写真の「顔」を潰したこともあった。
さまざまなコンペにも出展した。しかし、なかなかその先を見出すことができなかった。なぜなのか。
「最初は、写真を通じて“解放”されたと思っていたけれど、2作目、3作目とつくるにつれて、自分の深いところにあの日の記憶があることに気がついたんです。普通の生活は送られますし、もう誰かを恨んだり、憎んだりすることはなくても、奥底の悲しみみたいなのは永遠にあるんだって……」
遺族はその後を、どう生きるのか
コロナ禍での生活苦も重なり、作品づくりは思うように進まなくなった。カメラを手に取ることもなくなった。
そして数年が経ち、気がつけば、侑人くんの21回目の誕生日を迎えていた。
「息子はもう独り立ちしたのか」と、時の流れを痛感した。自分も55歳だ。体調に不安を覚えることもあった。
「この先、ずっと人生が続くわけではない。とりあえず走った方がいいんじゃないかな」
自分は、いま何がしたいかのか。改めて自分自身と向き合い、考えるなかでたどり着いたことがある。「大切な他者を失った、遺族を撮りたい」という気持ちだ。
「遺族の人たちが、そのあとどういう風に生きてるんだろうってすごく気になっていて。一歩も踏み出せない人、時間が止まったままの人、現実を認められていない人……。みんな、すごく一生懸命、死に物狂いで生きてるはずなんです。私も経験してきたからわかる。だからこそ、それを知らない人に伝えたい」
とはいえ、喪失経験をした人にカメラを向けるのは、簡単なことではない。
「写真で痛みを治癒できるのでは」と考えたこともあったが、一筋縄には行かないことは自分がいちばんよく知っていた。
まずは「等身大」の自分を伝えたい
では、なぜ撮るのか。何ができるのか。
「写真には、誰かを救う力があるのかもしれない。でも、私はそこまで行ってないんです。誰も助けられないし、治癒するなんて、大それたこと言っちゃいけない。中途半端だけど、まずはそういう等身大の自分も伝えなきゃいけない」
これまでの作品を評価してくれるギャラリストとの出会いとアドバイスもあり、今年、写真展をする企画も持ち上がっている。中国でのグループ展に参加する企画もある。
作品を通じ、自分のこれまでのこと、そしてこれからしようとしていることを伝えていけば。きっと、カメラを向けさせてもらえる人と出会えるのではないかーー。そう願っている。
「子どもに限らず、大切な人を突然失った経験を持つ方を撮影させてもらいたいと思っています。残された人が生きているということと、亡くなった人が生きていたというふたつのことを伝えられるように撮りたいなって」
「私は本当にラッキーだったんです。認知療法も受けられたし、写真とも出会えた。だからいま、ここにいます。でもそうじゃない人はたくさんいるはず。その人たちが、少しだけでも踏み出す、何かのきっかけづくりができたら」
タイトルはどうするのか。どういう撮影をしたいのか。動き出すと、不思議と作品の構想も頭に浮かんできた。走り出したのだから、あとは徐々にスピードをあげていくだけだ。
「きっとこれも、誰かがくれた、チャンスだから」。榎本さんはそういうと、笑った。