「私にみたいになってほしくない」病は、生まれた時から彼女を苦しめた。ある胎児性水俣病患者の願い

    写真家、ユージン・スミスを描いた映画『MINAMATA』(ジョニー・デップ主演)が公開され、改めて注目が集まっている水俣病。胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(65)が伝えたい思いとは。

    母親の胎内で水銀にさらされ、重い障害をもって生まれる「胎児性水俣病」。

    初めて患者が確認されてから、60年以上が経った。いまも水俣で暮らす当事者は、何を思い、そして何を願っているのだろうか。

    水俣病を世界に伝えた写真家、ユージン・スミスを描いた映画『MINAMATA』の公開で水俣に再び注目が集まるなか、改めて伝えたいことを聞いた。

    「いまも水俣病は終わっておらんということです。いまも、苦しんでおります。胎児性の患者さんたちのことで言えば、前はみんな自分で歩けたけれども、だんだん、だんだん、車椅子になりました」

    坂本しのぶさん(65)は、水俣病が「原因不明の奇病」として報告された1956年生まれだ。手足が不自由で、会話はゆっくりと一言ひとことを振り絞るようにして、意思を伝える。

    「これからのことが不安。だんだん足が動かなくなったり、自分で動けなくなったりすると、誰かおらんばどこへも行きならんなあと思うと不安です」

    水俣病は、化学メーカー「チッソ」が海に垂れ流した排水に含まれるメチル水銀によって、脳などを侵される公害病。

    汚染された魚などを食べた住民らが症状を訴えたが、チッソは1968年まで工場の生産を止めず、被害が広がった。坂本さんと同じ年に2歳で発症した姉・真由美さんは、4歳で亡くなっている。

    「チッソが毒を流したことを、はやく止めとれば、どげんかしとれば、こんなに被害が広がらなかったのに、(誰も)それをせんだった」

    坂本さんのように、母親の胎内で水銀にさらされた「胎児性患者」が確認されたのは1962年のこと。それまでの医学では「胎盤は毒物を通さない」とされていたため、大きな衝撃を与えた。

    生まれつき自由を奪われ、将来の夢や恋など、諦めざるをえなかったことも少なくはない。もし、自分が水俣病ではなかったらーー。「元気で生まれていたなと思えば、悔しいです」と、坂本さんはいう。

    母とともに闘い続けた

    一昨年亡くなった母親のフジエさんは、国やチッソの責任を問い、被害者の救済に尽力し続けた人だった。

    ユージン・スミスの写真集『MINAMATA』(クレヴィスから復刻)には、フジエさんの写真が収められている。

    患者やその家族が初めての裁判に勝訴したあと、チッソ東京本社で島田賢一社長(当時)にマイクを突きつける様子だ。

    このとき話し合われていたのは、患者の補償をめぐる問題だった。フジエさんは社長に直接、こう呼びかけたという。

    「私は坂本フジエです。私がだれか知っとりますか。知らない。そうでしょう。私はあんたげん会社ば訴えた原告のひとりですたい。うちん娘のひとりはーー病気になって、苦しんで、死んだ」

    「もうひとりん娘はこん部屋に来とるけん、わかっでしょ。これ以上なんば言わるっとですか? あんたは人間だけん、わかっでしょう」

    「おるどんふたり、いっしょうけんめい、あんたげん会社と交渉ばしようてしてきた。ばってん、あんたらは、いっちょん誠意ば示そうてせんだった」(写真集『MINAMATA』より)

    「もうひとりの娘」である坂本さんは、そんなフジエさんとともに歩んできた。15歳のときにはスウェーデンのストックホルムを訪問。国連人間環境会議でふたり、世界に水俣病の悲惨さを発信した。

    その後も人前に立っては、自らの経験、そして思いを伝えてきた。胎児性患者の自立を模索し、コンサートなどのイベントを企画するなど、精力的に活動を続けた。

    4年前には、45年ぶりに渡欧。水銀の世界的規制に関する「水俣条約」の締約国会議で、「水俣病は終わっておりません。公害を起こさないでください」と力強く訴えた

    「ずっと逃げようとしている」

    水俣病をめぐっては、いまもチッソや国を相手取った裁判が続いている。症状がありながら患者と認められない人たちも多く、被害の全容は明らかになっていない。

    海に垂れ流された水銀や汚染された魚はそのまま湾内に埋め立てられ、「エコパーク水俣」という名前の埋め立て地になった。護岸の耐用年数や、災害時の液状化などをめぐる課題もたびたび指摘されている。

    何より、いまだに症状に苦しんでいる患者や家族もいる。2歳で発症し、公式確認のきっかけとなった田中実子さん(68)は、1956年からいままで、言葉も、自由も失ったままだ。

    そうした状況にもかかわらず、安倍晋三首相(当時)は2013年、「水銀による被害とその克服を経た我々」と発言し大きな反発を集めた。坂本さんはいまでも、怒りを隠さない。

    「頭にきた。はやく(水俣病を)終わらせたいなと思っているから出た言葉だと感じました。あれはおかしいと思う。本当に、本当に……」

    「国や県は、ずっと逃げよう逃げようとしている。やっぱり、認めたくないの。自分たちがしたことを」

    コロナ禍のあと、願うこと

    公式確認から65年。「水俣病は終わったと思っている人がいる」からこそ、今回ハリウッド映画のテーマになったことは、「とても嬉しい」という。

    「いろんな人に見てもらって、いろんな反応が出てくればいいなと思っております。水俣病を知ってほしいなと思っております」

    映画を機に、改めてこの問題について知りたいと思う人が増えれば良いと願う。コロナ禍さえ落ち着けば、そうした人にはぜひ、水俣に訪れてほしい、とも。

    「やっぱり、水俣にきて、いろんな人に会ってほしいなと思っております。本当にあったことを、見てほしいなと思っております。自分の足で見て、聞いて、感じたことを子どもたちに伝えていってほしい。もしも私たちが、おらんごなったときに……」

    患者やその家族も高齢化が進む。体調を崩したり、亡くなったりする人もいる。だからこそ、いまのうちにこの教訓はしっかりと語り継ぎたいと、坂本さんは思っている。

    「子どもでも、障害者でも、水俣病でも、みんなが安心して暮らせるようになってほしい。若い人たちにも考えてほしい。水銀(や公害)のことも、ちゃんとしてほしいなと思うし、絶対に、私たちみたいになってほしくないなと、思っています」


    取材協力 斎藤靖史(フリージャーナリスト)、塩田弘美

    参考文献

    • MINAMATA(W.ユージン・スミス, アイリーン・美緒子・スミス、クレヴィス、2021年)
    • 僕が写した愛しい水俣(塩田武史、岩波書店、2008年)
    • 熊本日日新聞、朝日新聞

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