戦時中“日本人”として生きた彼女が見た、もうひとつの「終戦の日」【2022年回顧】

    日本にいた朝鮮半島出身者は1939年には100万人程度だったが、終戦時の1945年には200万人にのぼったとされている。「植民地」出身者として育った女性は、どのような戦時下を過ごしたのか。その証言を聞いた。(2022年回顧)

    2022年にBuzzFeed Newsで反響の大きかった記事をご紹介しています。(初出:8月15日)


    かつて「日本国民」として生き、のちに「外国人」と呼ばれた人たちがいる。

    戦前から戦時中にかけて、日本の植民統治下に置かれていた朝鮮半島の人々。日本が戦争に負けると、日本国籍を失い、「外国人」として切り捨てられた人々は、どんな思いで戦中、戦後を生きたのか。

    「私は何も知らなかったの。愚かだったのかもしれませんね」。そう当時を振り返る、在日コリアン二世の女性の証言を聞いた。

    「私、どこかに劣等感を持っていました。植民地なのだから、日本人のほうが私たちより開けているんだ、私たちのほうが劣っているんだと思い込んでいたのかもしれません」

    石日分(ソク・イルブン)さんは91歳。1931年、長崎の諫早に生まれた。仕事を求めて朝鮮半島から日本にやってきた両親も、自分も日本国籍。名前も日本名の「石原桃子」を使っていた。

    韓国東南部出身の父親は、建設・土木作業員をまとめる「親方」だった。同じように働く場所を求めて日本にやってきた人々が父を頼りに集まり、ともに飯場で暮らしていたという。

    工事が終わるたび住む場所を変えるという生活で、小学校4年のころは、佐賀や大分、福岡と九州北部を転々とした。父は発電所や鉄道、橋の工事などを請け負っていたが、ときに事業に失敗して、大損することもあった。

    「飯場はね、掘立て小屋、バラックの家が並んでいる感じ。うちは家族で部屋が別なんですけど、部屋は6畳くらいですね。蚊帳を貼ったら動き場がないくらいでしたよ」

    「男の人にご飯を炊く人がいて、何もかもやる。キムチとスープと、たまには魚を煮たものもなんかがありましたけど、逆に母のご飯はあんまり食べなかった。下の子たちも多かったので、私は、子守りを任されることが多かったですね」

    そんな環境で、20〜30人の大所帯で育った。男たちが働きに出ているあいだは学校や家で過ごした。夜になると仕事から帰ってきた彼らが花札に興じたり、朝鮮民謡を歌っていたことを覚えている。

    石さん一家や、その飯場に集っていた労働者やその家族たちのように、戦時中に朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちは少なくない。

    日本が「韓国併合」により朝鮮半島を植民地にしたのは1910年。朝鮮総督府を設置して統治を始め、日本語教育などの同化政策が始まった。その後、土地政策により困窮した農民らが、仕事を求めて日本にやってくるようになった。

    日中戦争から太平洋戦争にかけては、「皇民化」と言われる同化政策が強まった。募集、官斡旋、徴用などと形を変えて労働力も求められるようにもなった。徴兵も始まった。日本にいた朝鮮半島出身者は1939年には100万人程度だったが、終戦時の1945年には200万人にのぼったとされている。

    多くは、炭鉱や土木作業、工場などでの労働に従事。決して良い労働環境とは言えなかったが、経済的理由などから多くの人たちが集まり、各地に石さんが暮らしたような飯場が形成されていた。

    「いつも目立たないように…」

    自らは「朝鮮人」であるというアイデンティティを持っていた石さん。しかし、その出自は日本人社会において、排斥、いじめの対象ともなった。

    「1組に朝鮮人は5〜6人いましたね。入学が遅かったり、動員で遅くなって日本に来たりするんですが、いじめの対象になるんですよ。馬鹿にされる感じです。キムチが臭いとか、ニンニク臭いとか、そういうふうにね。お弁当も、いじめられる対象になりました」

    「誰かが朝鮮人だからといじめられていると、どうしても許せなくて、喧嘩になることもありましたよ。でも、転校するときは絶対、自分から朝鮮人とは言わなかったし、背が高かったですけれど、できる限り目立たないようにしていたの。なんでも後ろが好きでしたね」

    朝鮮人の友達には、日本人の友人と歩いているときに道で親族と出会っても隠れるような子もいた。石さんはそこまでして隠すことはなかったというが、それでも、いくつか悲しい思い出がある。

    たとえば、運動会。クラスで脚の速かった石さんがリレーの選手に選ばれると、選考から落ちてしまった日本人の子の姉たちがやってきて「新入りのくせに、朝鮮人のくせに生意気だ」と囲まれて蹴られたことがあった。

    楽しみにしていた家庭訪問でも、朝鮮人の家だからとついぞ来なかった先生がいた。喧嘩しているときに朝鮮人の生徒ばかりを叱ったり、見下した態度を取って大事な仕事を任せなかったりする先生も、いた。

    よくしてくれた日本人の先生や友人だって、もちろんいる。「私は、そこまでいじめや差別を受けることはありませんでした」というが、子どものころに受けた差別は、いまもささくれのように心に残っている。

    「クラスに着せ替え人形のように、いつも可愛い服を着てくる子がいたんです。その子がお誕生日会に招いてくれたんですね。もう初めてだし、嬉しくって遊びに行ったら、お母さんがジロジロ、ずっと見てくるんですよ……」

    いつの間にか、自分や、自分の出自に持つようになった「劣等感」。それは、将来の選択にも関わるようになったとも、つぶやいた。

    「本当はね、制服もかわいかったし、友達もみんな行くから女学校にも行きたいと思っていたの。でも、最終的には行くことはしませんでした。朝鮮人が行っていいのか、という考えがあったんですよ。だからね、母に頼み込んでまで女学校には行こうとは思えなかったんです」

    「お国のために」と言われたら

    ちょうど戦争が激しくなったころ、北九州・折尾に一軒家を買い、そこで暮らすようになった。

    父親は仕事で転々とするなか、残りの家族で過ごしていた。近所の人たちには、幸いにして「朝鮮人」だからと嫌なことをされたことはなかった。

    小高い丘の上に建っていた家には、明治天皇の額が飾ってあった。父が用意したのだろうか。どこから見ても、見られているような気がしていた。

    「学校ではもう、天皇一辺倒ですよ。教育勅語も暗唱させられたしね、学校に行ったら(天皇・皇后の写真と教育勅語を納めた)奉安殿におじぎして入って、帰りもおじぎして帰っていましたね。(開戦記念日の)12月8日は、お宮参りもしていましたよ」

    「お国のために」と言われれば、それは朝鮮ではなく、「大日本帝国」のためだった。子どもながらに、「日本が勝つための戦争協力」をしてきたと思っている。

    前線の兵士たちのために、千人針を縫ったこともある。母親の代わりに隣組の集会に出たり、バケツリレーの訓練に参加したりもした。

    一方で、段々と戦況が悪化すると、子どもたちの生活にも影響が及ぶようになる。授業は少なくなり、代わりに軍事教練や農家への勤労動員ばかりになった。頭上には、アメリカ軍機が飛びうことことも増えた。

    「戦争のことばっかり、勝つことばっかり考えていました。ただね、ほんとに勝つんだろうかっていう不安も持つようになりました。昼も夜も飛行機が飛んでて、空襲警報も鳴るから」

    「遠くから見ると銀紙のような爆弾が八幡や小倉あたりに落ちるのが見えるんですね。やっぱり怖かったですよ。それに、楽しく遊ぶとかやりたいことができないし、早く終わってほしいとも思っていましたよ」

    1945年8月15日、戦争は終わった。日本にとっては「敗戦」であったが、植民地下の朝鮮半島の人たちにとっては「解放」だった。しかし、日本で生まれ育った石さんは、あまりそうしたことを意識することはなかった。

    「とにかく終戦の日は、静かでしたね。うちはラジオもなかったし、周りに朝鮮人もいなかったし、日本人の方もそんなに騒いでなかったから。解放されたから嬉しいとか、そういう感情も一切なかったんです」

    「ただ、そうこうしているうちに、近くの筑豊炭鉱に動員された朝鮮人たちがぞろぞろうちの前を通るようになったんですよ。それを見て、ああ、もう植民地は終わったんだって」

    失った青春、そして

    戦争が終わると、母親は朝鮮に帰ろうと強く主張した。字の読めない両親の代わりに帳簿を付けていた男性が「ふるさとに帰る」と挨拶に来たことがきっかけだった。

    父親の反対を押し切り、家を手放し、子どもを連れて、連絡船のあった山口・下関港へと向かった。全国から集まった大勢の朝鮮人たちが、港にいたことを覚えている。

    機雷があるということで船は出航できなかった。「帰ってもいまより生活は大変だ」「コレラが流行っている」そんな噂話も流れるようになり、不安になった母親は帰国を取りやめた。

    その後、合流した父とともにしばらくのあいだ、家族は焼け野原となった街にバラックを建て、暮らした。

    当時は、母が何でそこまでしようとしたのか、わからなかった。しかし、日本語を流暢に話せない、字も読めない母親にとって、「異国」で子どもを連れて生きることは、辛かったのではないかと、いまなら思える。

    父親はすぐに福岡で米軍兵舎の建設と塩田の仕事を見つけ、再び飯場の運営を始めた。そして生活が軌道に乗り始めようとした1947年、現場を移動する途中に鉄道事故で命を落とした。

    それからは母親がひとり、古物商などをして子ども7人の生活を担った。石さんはそうした母を、長女として支えてきた。

    「母は商才がある人でしたね。下関ではメリケン粉を鉄板で焼いて甘いものを塗したのを卸してお金を稼いでいましたし、父が亡くなって飯場が解散した後に残った3人を連れて古物商を始めたら、ちょうど朝鮮戦争の始まったころでね。金属もの値があがって、ずいぶんと潤ったようですよ」

    暮らしが不安定だったこともあり、18歳でお見合い結婚をした。しかし新婚生活は貧しく、炭鉱でパンを売るなどして食いつないだのち、離婚。その後は新たな夫と出会い、子どもに恵まれながら、働きつないだ。

    機会編み、ネクタイづくり、テレビ部品の製造、宝石商、替場、喫茶店や雀荘……。生きるため、さまざまな仕事を渡り歩いた。ヤミ焼酎をつくったこともある。85歳まで、住まいは20回、仕事は10回変えた。

    「私ね、青春ってものがなかったんですよ。一緒にね、お友達と学生時代を過ごせる期間が欲しかったんだと思うんですね。同窓会だなんだってやれる人は羨ましいですね」

    「植民地の痛みを知って」

    戦後、日本から朝鮮半島に戻った人は130万人にのぼる。一方で、石さん一家のようにさまざまな理由で残った人たちは、戦時中に持っていた「日本国籍」を失い、結果としてさまざまな社会保障の制度からも排除されることになった。

    政府は戦時中、朝鮮半島を植民地として支配し、そこに暮らす人々を「日本人」として同化してきたにもかかわらず、「外国人」として切り捨てたのだ。

    戦前も戦後も、このように構造的にも、社会的にも差別を受けてきた朝鮮の人々。そうした過去はそれぞれ個人にも、大きな傷を残し、その人生に影響を及ぼしている。石さんはこう、憤りを隠さない。

    「朝鮮を日本が発展させたっていうような言い方は、1番腹立つっていうか、怒りたくなりますよね。そうじゃないじゃないのって。利用するため、自分達の欲のために、植民地にした、侵略したんじゃないかって。それを正直に言わないで、恩着せがましく、そういう風に言うのは間違ってるんじゃないかって」

    「私はそんなこと、子どものころははまったく知りませんでした。幼かったっていうか、知らなかったっていうか、愚かだったっていうんでしょうかね……。戦争もね、植民地政策もね、繰り返したら絶対にいけないですよね。かわいそうな被害を受けるのはね、いちばん弱い人たちだけなんですから」

    戦後77年。いまは川崎で暮らす石さん。自らの人生を振り返るようになったのは、ここ数年のことだ。地域で同じような経験をした在日コリアンの人と語り合うことで、少しずつ心をほぐしながら、過去を見直せるようになってきた。

    「兄弟7人の中で苦労はしたけど、幸せだったな。困った時、困った時、誰かが助けてくれる。そういういい思い出の方がいっぱいあって、幸せだなと思います」

    国家や戦争に翻弄されながら、自らが歩んできた戦後。社会の状況も少しずつ良くなってきたと思っていた矢先、最近になって「ヘイトスピーチ」を見聞きするようになったことに、憂慮を抱く。だからこそ、こうして自らの経験を語ることが重要とも感じているのだという。

    「韓国の文化や映画や料理なんかが好まれ、理解が深まってきたのに、いままたヘイトスピーチなんかで逆に悪くなってるような状態ですよね。過去の歴史を知らないからですよね。もともと私たちが日本に来るようになったのは、植民地にしたことが原因ですから、その痛みを皆さんに知ってもらって、これからどうするかって話し合えばいいと思うんです」

    「でも、知る機会ってなかなかないですもんね。他人同士がそういう話ができるっていうのは難しい。正しく歴史を教育で教えるしかないですし、私のようなものでも話せることがあるのなら、とお話しさせていただいています。こういう生の声も、いまじゃないと、聞けなくなってしまいますからね」