いまも慰霊碑の下に眠る、身元がわからぬ被爆者たち 男は無縁仏を守り続けた

    「広島には、こういうお墓があちこちにある」

    原爆投下直後の混乱のなか、県内各地に運ばれ、そのまま息絶えた人たちがいる。

    骨になっても故郷や肉親のもとに帰ることができず、見知らぬ土地に71年、とどまっている彼女ら、彼ら。そんな数百人が眠る慰霊碑を守る、一人の被爆者に会った。

    「あわれとしか言えんよね」

    その慰霊塔の下には、400ともそれ以上とも言われる人たちが、いまも眠る。

    広島市中心部から約50キロ、車で1時間。安芸高田市の山あいにある墓地の一角に、ひっそりと佇む慰霊碑がある。

    大きさは、子どもの背丈ほど。このすぐ下に数百もの人たちが骨となり埋まっているとは、信じられない。みな、故郷も、名前も、年齢も何一つわからない、無縁仏だという。

    「ここにはね、壷にも入っていない、ばらばらの骨をまとめて埋めてある。400だなんて想像できんねえ。焼かれると、人は小さくなってしまうんですよ」

    そう話すのは、碑を守ってきた「吉田町原爆被害者の会」で事務局を務めていた地元の三原功暉さん(72)だ。

    「あわれとしか言えんよね。みんな、肉親の墓へ入りたかったと思うよ。悔しかったでしょう」

    「広島にはね、こういうお墓があちこちにあるでしょう。それぞれに何百人も、何千人も埋まっている。無差別殺人というのかねえ、原爆は残酷だ。誰彼なしに、大人も子供も、将来のある人もみんな殺してしまう」

    戦死した父と、せんべい屋の母

    2歳だったから記憶にはないものの、三原さん自身も被爆者だ。母親と、4つ上の姉とともに、爆心地から4キロあまりのところで被害を受けた。

    せんべい屋を営んでいた自宅は市の中心部・流川地区にあった。しかし1945年ごろには空襲を恐れ、一家は母の実家に疎開をしていたという。実家は倒壊を免れたが、せんべい屋は文字通り、跡形もなくなった。

    海軍に徴集された父親は、その少し前に、フィリピン海沖で戦死している。気丈だった母親はすぐ、あり合わせの材料で原子野に掘っ立て小屋を建て、商売を再開した。終戦から2年ほど後のこと、三原さんには、バラックが立ち並ぶ繁華街を走り回った記憶がある。

    復興はぐんぐん進んでいった。「中学に入るころにはビルも建っていた」。短大を卒業し、母親の仕事を手伝った。26歳になると、2人で父親の里である吉田町(いまの安芸高田市)に移り住み、飲料品会社に入社。人と比べて体は弱く疲れやすく、「原爆のせいかな」とも感じていたという。

    原爆に負けたくなかった

    母親はその後も医療品を販売して、生活を切り盛りした。

    「お袋は一切愚痴を言わず、必死で働いてたね。弱音も吐かんかった。原爆で苦労したと言って、負けたくなかったんでしょう。人間が原爆に負けたとは、言いたくなかったんじゃないかな」

    再婚もすることなく、女手一つで2人の子どもを育てあげた母親は、2011年に、93歳で亡くなった。

    三原さんは定年を迎えてから、町内の被爆者らでつくる「吉田町原爆被害者の会」の役員になった。慰霊塔にかかわるようになったのは、それからだ。

    「驚きましたよ、こんなところに、数百人の方のお骨が埋まっているなんて」

    三原さんの言う通り、どんな被爆者がどこに埋められているのか、その全容を把握している人はいない。

    誰ともわからぬ被爆者たち

    いったい、ここには誰が眠るのか。地元の図書館で、郷土史料をめくった。

    この地域に原爆で傷ついた人たちがやってきたのは、1945年8月6日の昼過ぎだった。はじめは自分たちで列車に乗れる人たちが地元に帰って来ただけだったが、夕方にかけて、トラックで次々と、誰ともわからぬ重傷者や遺体も運び込まれるようになった。

    夜までに町に運ばれたのは270〜280人。役場や婦人会、そして女学生などが救護に総動員されたが、翌7日朝にはその数は400人に膨らんだ。食料も医療品もろくにない中、できることも限られていたという。

    「薬は油薬を塗るだけでほかに処置はなく、ただうちわで蝿をあおったり、うじをとったり、風を送るだけであった」(高田郡史より)

    一方で、死者は増えるばかり。町の火葬場はすぐに満杯となり、畑に臨時の焼き場が設けられた。空襲の目印になることを恐れ、荼毘にふすのは決まって日の昇っているうち。火葬に使う藁や木が足りなくなるほどのペースで、遺体が運び込まれていった。

    最終的に、地域に運び込まれた人たちは800を超えるとされ、そのほとんどが亡くなったという。正確な数字はわかっていない。出自がわかる人たちは、骨となりながらもそれぞれの家へと帰ったが、半数の人たちの遺骨はそのまま、町の各所に埋められた。

    半世紀ぶりに掘り起こされた遺骨

    あちらこちらに散らばった遺骨がまとめられたのは、50年後のこと。1995年、会が開いた「被爆50年周年記念事業」の一環で埋まっていた遺骨を発掘し、墓地に埋葬することになったのだ。慰霊塔が建てられ、そうしていまも、彼女ら彼らは、そこに眠る。

    会は年に2度、慰霊塔の掃除をし、8月6日には慰霊祭を開いてきた。しかし、多いときには900人だった会員も2010年には430人になり、高齢化が進んでいたことから、実質的に解散。それからは三原さんら7人だけで、ともに墓守を続けてきた。

    「誰かわからなくても、人の魂よね。無下にできないでしょう。それに、親父も海の藻屑じゃけえ……。ほかの人の霊に奉仕することで、親に恩返ししている気になっているのかな。親に対しても、他人に対しても、これは、自分のつとめだねえ」

    原爆の惨さを知ってほしい

    今年4月、被爆2世の男性が「責任を持って碑を見守る」ことを約束し、7人の役目は終わった。会は正式に解散。引導を手渡した直後に決まったオバマ大統領の広島訪問に、三原さんは「原爆の問題は次の世代、そして新しい時代に引き継がれた」と感じている。

    大統領には、「原爆の惨さを知ってほしい」と思う。「今さら謝罪しても、この人たちは生き返らんけえ。こんなことを2度と起こしてもらいたくはない」と、強く願う。

    取材の最後、三原さんは短く、無言で碑に向かって手を合わせると、つぶやいた。

    「核廃絶が全うされれば、きっと、この場所も忘れられることになる。人間は困ったもんじゃけえ、忘れやすい。でも、それが一番ええことなのかもしれんですね」

    あたりには、雨が降り始めていた。