ある朝起きたら、僕の目は見えなくなっていた。娘の顔がみられなくなる、と大泣きした。

当たり前にあった世界が突如として奪われる、ということを想像したことがあるだろうか。
多くの人は、ないだろう。彼もまたそれは同じだった。しかし、現実はなんの前触れもなく訪れる。
2016年4月。石井健介さん(40)は、光を失った。いつものように朝起きると、目が見えなくなっていたのだ。
「とにかく、娘の顔が見えないって大泣きしたんですよね」
妻と、当時3歳の娘と、生まれて3か月の息子と4人で暮らしていた石井さん。
アパレル企業での勤務やロンドンへの留学などを経てフリーランスに転じ、仕事が軌道に乗り始めたころだった、にもかかわらず。
目の前は、真っ暗になった。
診断は「異常なし」だった

突然に失明したことに、とにかく「動転した」という。
「最初のうちは、うっすら光は感じていたんです。朝起きると霧で視界なくなるじゃないですか。世界があんな感じになっていて。でも、その日の夜までには真っ暗になってしまいました」
もともとの視力は0.6くらいで、特段のトラブルを抱えたこともない。何かあるとすれば、前日に視野の一部が欠けていたこと、くらいだった。
「前の日に打ち合わせに行って、喫茶店のメニューを見てたら一部だけ見づらくて……」
その日のうちに検査をしたが、診断結果は「異常なし」だった。医師にはこう言われた。
「疲れ目、なんじゃないですか?」
「こんなはずじゃなかった」

光を失ってその日のうちに、大学病院に運ばれた。
「最初の夜が、とにかく怖かったんです。家族が帰って病室で1人になった時に、子どもみたいに布団かぶって泣いたんですよ。体をつねって痛みを感じてないと、もう……なんだろう。ここにいるのかいないのか分からないぐらい、自分を保てなくなっていた」
「最初の3日間ぐらいは、死ぬことしか考えてなかったです。どうなるんだろう?みたいな。とにかく絶望してたのは、何よりも娘の顔が見られないこと。これから一緒にどこにも行けなくなるんじゃないか?と、ずっと考えていました」
検査の結果、軽い脳梗塞かもしれないと言われたが、最終的に下された診断は「多発性硬化症」。
脳の中枢神経が炎症を起こす病気で、石井さんの場合はそれが視神経だった、ということだ。目、そのものには一切問題がない。「スクリーン」の役目を果たす脳と目をつなぐ「ケーブル」が壊れてしまったのだ。
「夢をみるんですよ。夢の中では色がついて、はっきり空間も分かって見えている。でも、目あけた瞬間に何も見えない、ということを毎日繰り返していて……。途中から夢の中で気づくんですよね。これ夢だろうって。で、目を開けてみると、やっぱり夢だったっていう」
こんなはずじゃなかったーー。石井さんの脳裏には、そんな言葉が浮かんだ。
「仕事でもまだまだやりたいことがあったし、見たいのもあったし、読んでない本も山積みだった。なんで見えなくなってんだよ、そんな気持ちでした」
日常を取り戻すということ

退院しても、簡単に日常を取り戻すことは、できなかった。
住んでいたアパートの中で、迷子になってしまう。足元に落ちていたおもちゃを、踏んでしまう。できないことの多さに絶望し、イライラが募った。
もともとアクティブな性格だったが、塞ぎ込み、家から出て行くこともなくなった。いつしか石井さんの顔からは、笑顔が消えていた。
そんな日々を変えたのは、娘のある一言だった。
「うちには知り合いのアーティストが書いてくれた家族の似顔絵があって……。3人ともすごい笑顔なんですけれど、ある日、娘がそれを指さして『あの時のパパがいい』って言ったんです」
「それを聞いて、本当もう膝から崩れ落ちちゃって。何をやってるんだろう、と。一番守りたいものを自ら遠ざけていたことに、そこで気がつけたんです」
鬱ぎ込むのをやめよう、感情は出し切ろう、自分が人生の中で求めていたものと向き合おうーー。石井さんは、前を向くことを決めた。
「あとは、1個ずつ自分ができることを拾い集めていった感じ。まず、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れたんです。あとは洋服をたたむ。もともと洋服屋なんで、それこそ見ないでもできるんですよね」
「あと、庭で育てていたハーブが生い茂っていたので、それもドライにしようと思って。1週間ぐらいかけて全部やった。時間がかかるんですけれど、そうして小さな達成感を積み重ねていったんです」
「障害者」になりたくない

そんな石井さんだったが、当初は「白杖」を持っていなかったという。なぜなのか。
「社会的弱者になることに対する抵抗感が、すごくあったと思います。言葉を選ばずに言えば、正直、障害者になんかなりたくないって……」
ある日、スーパーで妻たちが買い物をしているのを待っている間、若いカップルに「どけよ」と舌打ちをされた。
「周りから見ると、僕が目が見えないことって一切分からないんですよ。これは、白杖を持ったほうが自分のためにもなる。周りの人の安全も確保できる」
白杖を手にすると、世界はガラリと変わった。行動範囲が広がったのだ。
娘を保育園に送る、近所のスーパーまで行くーー。1年後には、都内にまで一人で出られるようにもなった。
「それだけじゃありません。面白いのが、白杖ってコミュニケーションツールになるんですよ。持っているだけで、『どこに行くの?』と声をかけてくれる人もいる。出会いの幅が、広がった」
本当の「バリアフリー」

「障害者」であることへの抵抗は、いつしかなくなっていた。
初めての道を歩きたいときは、Facebookで呼びかけて、友人にサポートをしてもらうようにもなった。昔の自分では考えられなかった、と石井さんは笑う。
「『裏では何考えてるかわからない』と疑ってしまって、人を頼るのがすごく苦手なタイプだったんです。でも、それも変わりました」
「『心のバリアフリー』って、障害者の側にも必要なことだと思うんです。昔の僕みたいに、差し出された手も『大丈夫です』『自分でできます』って跳ね除けていたら、すごく生きづらかっただろうな」
いまでは娘も大事な「ヘルパー」のひとりだ。窓の外の景色を説明したり、手を引っ張ったりしてくれるようにもなった。ときには励ましてくれることも、ある。
「子どもとの関係性が一方的な関係性じゃなくなったんです。本来、子どもの安全を確保するために手を繋ぎますよね。僕らの場合って、お互いの安全を確保するために手を繋いでいる。『パパそっち危ない。行っちゃ駄目』と言ってくれて」
「ふと泣いてしまった時に、娘が肩をポンポンと叩きながら『泣きたい時は泣けばいいんだよ』って言ってくれたこともありました。マセているのか分からないですけれど(笑)」
世界を変えたいのなら

就業移行支援を経て、昨年からは東京の「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」で働きはじめた。
真っ暗闇の空間をつくり、視覚障害者のアテンドでその中を進んでいくことで「見えない世界」を実体験するプログラムが活動の中心だ。
その運営に関わりながら、数ヶ月におよぶトレーニングを経て、石井さんもはじめて「アテンド」の役目を担うことになった。2020年には「ダイアログ」の常設会場「対話の森」が東京都内でオープンする予定だ。
「単なる視覚障害者の疑似体験には、絶対にしたくないな」
実は自身も、目が見えているころに「ダイアログ」に参加したことがある。その経験があるからこそ、そして今は当事者になったからこそ、伝えられることがあると思っている。
「最初はみんな暗闇で不安がっているけれど、『ちょっと手繋いでみませんか?』と呼びかけて、実際に触れてみると、安心するって言う人は多い。いつも一緒にいるのに、どんな手をしてるのか知らなかった、という人も。触れ合うことのコミュニケーションを通じて、『人っていいな』と思ってもらいたいですね」
「2時間の体験をしたときに、世界が劇的に変わることはないと思う。でも、自分の中の変化ってすごくあるはず。僕も目が見えなくなって、まず自分の考え方が変わった。そして周りとの関係性も、世界の見え方も変わった。そんな経験を、持ち帰ってもらいたい」
「不自由」で得た「自由」

失明から3年。治療を経て、光や輪郭がぼんやりとわかるほどに視力は回復した。
しかし視神経に原因があるため、眼鏡をかけても変化はない。「弱視」の状態が続いている。
大好きな本が読めなくなったのは悔しいけれど、と石井さんはいう。その顔はどことなく晴れ晴れしいところも、ある。
「涙を人に見せるのに抵抗がなくなったし、気持ちも全部さらけ出せるようになった。甘えてもいいんだ、泣いてもいいんだって。昔だったら照れくさくて言えなかったこともストレートに言葉にしたりとか、ハグをしたりとか、そういうこともできるようになったんですよ」
「見えなくなって不自由なことは増えましたけど、心の部分では自由になったこともたくさんある。僕、すごく、今が幸せなんですよね」
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」では2020年内に目指している常設会場「対話の森」の設置に向けたクラウドファンディングを実施している。
石井さんのようなアテンドのプロフェッショナルを育成する「アテンドスクール」も設置される予定だ。詳細はReady forサイトより。