不妊大国、日本
「不妊」または、「不妊症」ってお聞きしたことはありますか? 読者の方の中には今まさに不妊治療に取り組んでいらっしゃる方、逆にご自身にはまだ関係ない、と思っていらっしゃる方、様々でしょう。
結婚どころか、他の勉学やお仕事などで(もちろん遊びもですが)忙しく、恋愛もとりあえず保留、という方もいらっしゃるかもしれません。
ただ、私もこの年齢になって思うのですが、時間の経つのは大変早いものです。「光陰矢の如し、学成り難し」。勉学はいくつになってもできるかもしれませんが、妊娠・出産は体に大きな負担がかかりますし、生物学的に年齢の限界もあるのです。
昔は近所におせっかいなおばさん(!言葉が悪いことはご容赦ください)がいて、独身の男女を引き合わせようとしたものですが、最近はめっきり少なくなりました。
そもそもそのような行為自体、人権侵害に当たるのです。
しかしながら、性と生殖についての知識を十分に持っていないとすると、妊娠のタイミングを逸してしまうかもしれません。実際、性についてあまりオープンに話す機会がなく、さらに性教育が不十分な日本で正しい知識を得ることが難しいようなのです。
一度きりの自分の人生。その方向性を考えるためにも正しい情報は必須です。私はこの記事を読んでいただいている方々に、何かしらお役に立てればと思い、不妊治療に関する最新情報を盛り込んだ連載を始めます。
自分にとって最適な選択をするには、まず正しい情報から。「こんな話もあるんだなぁ」とお読みいただければ嬉しいです。
不妊治療の光と影
産婦人科医師が所属する最大の学会である日本産科婦人科学会では、毎年全国の生殖補助医療(体外受精)について統計をとっています。
少し遅れて集計されるため、最新のものが2015年のものなのですが、それによると、2015年には約42万4000件の体外受精が行われたとされ、5万1000人の赤ちゃんがこの方法で生まれていると言われています。
この数字は国内で出生している19.7児に1児の割合となり、年々増加しています。2015年までに累積体外受精児は48万人を超えており、おそらく現在は50万人を超えていると思われます。
日本ではこれだけ増加している体外受精ですが、その成功率は100%ではありませんので、何度か行わなければならないことも少なくありません。年齢が高くなるに伴い成功率は低下し、40代では1割を下回ってしまいます。
さらに健康保険は適応されず、施設によって異なりますが、1回の体外受精で概ね60万〜100万円程度費用がかかります。各自治体の助成金はあるものの、世帯年収や回数、さらには金額自体にも制限があるため、やはり経済的にも、肉体的にも負担は大きいのが現状です。
また、月経周期に合わせて治療を行う必要があるため、仕事をしながら通院して治療を行うことも、職場の理解が無ければ困難です。
今でこそ、メディアでも不妊に関する情報が取り上げられるようになってきましたので、ある程度理解のある上司もいらっしゃるかもしれませんし、企業によっては通院のためのシステムを構築しているところも出てきています。
しかしながら、全国的にはまだまだ不十分と思われます。
40歳代後半で初めて不妊治療外来を受診する夫婦
申し遅れましたが、私は大学附属病院で働く産婦人科医です。産婦人科の中でも不妊治療と、不妊に関連する疾患を治療する内視鏡手術を専門としております。
そのため、私の外来には、子供が欲しいのになかなか妊娠しない、というカップルがいらっしゃいます。
もちろん、他の病医院、クリニックから紹介状をお持ちになる方々が多いのですが、中にはインターネットなどの情報を得て、当院にたどり着く方もいらっしゃいます。
その日も、紹介状はお持ちにならず、ご夫婦で受診された患者さんがいらっしゃいました。プライバシーの問題がありますから、具体的なお名前や年齢は避けたいと思いますが、40代後半で、50歳にそろそろ差し掛かるようなご年齢の方でした。
結婚して10年以上、結婚当初は確かに積極的に妊娠しようとは思ってなかったそうなのですが、いつか妊娠できるだろうと思いながら気が付いたら時間が経ってしまっていたのだそうです。
「そんなことないだろう!」と思う方も多いかもしれません。ただ、実際このような方は多いのです。産婦人科を受診することは女性にとって抵抗があるでしょうし、男性側にも、「不妊」という問題に直面することを避ける傾向もあるのです。
さらには、前述のように、不十分な性教育のために、男女にかかわらず、「不妊」についての知識がもうまく伝わってない可能性も高いため、このような方々がいてもおかしくないのです。
「保健・体育」。この科目は受験科目ではないためなのか、特に進学校などではあえてそのための時間を削るようなこともあるようで、「ヘルスリテラシー」と言うのですが、我が国においては生殖のみならず、健康についての知識が不十分となってしまっているようです。
不妊の原因は誰にでも、不妊に悩んでいる方へ
不妊治療を行っていることに後ろめたさを感じ、誰にも相談できずに悩んでいらっしゃる方も多いと思います。
自費診療であるが故、言葉は悪いかもしれませんが、保険適応のない、いわゆるインチキ療法や、霊感療法のような、なにか“いかがわしい”治療をお受けになっている方もいらっしゃるかもしれません。
医療や福祉は、その国の予算や政策によって異なるものです。不妊治療には、日本は確かに健康保険が適用されていませんが、保険診療で行う国もあります。WHO(世界保健機関)では、不妊症は治療すべき「疾患」として定義されているのです。
「不妊症」は「生殖年齢の男女が妊娠を希望し、1年間避妊せずに通常の性交を行っているにもかかわらず妊娠に至らないもの」とされているため、トライしてみないと不妊かどうかわからないという特徴もあります。
そのため、不妊の悩みは誰にでも起こりえる身近な問題と考えられます。そして、子供を産む、産まない、は当事者のごく当たり前の権利であり、生物学的な限界もあることは事実ではありますが、不妊治療を行うこと自体は後ろめたいことではありません。
「産む、産まない」 当たり前の権利
「リプロダクティブ・ヘルス&ライツ」という言葉があります。「性と生殖に関する健康・権利」と訳されますが、1994年の国際人口会議で提唱された概念です。
文字通り、性と生殖については、個人個人がその権利を有するというもので、満ち足りた性生活を送ることができるというのみならず、子供を産むか産まないかか、いつ産むか、何人産むかは、男女問わず人権のひとつとして権利を有する、という考え方です。
20年以上前に提唱されたにもかかわらず、特に我が国において、この考え方が浸透しているとは到底思えないのではないでしょうか?
妊娠についての不十分な知識のために、望まない妊娠をしてしまった方々がいます。年齢とともに妊娠する力は低下するのですが、前述のようにその知識が無かったために、妊娠できる時機を逸してしまった方々もいらっしゃいます。
この方々にとっては、「リプロダクティブ・ヘルス&ライツ」は守られているとはとても言えないと思うのです。
そもそも、働きながら子育てができる環境が十分に整っているとは言えない環境自体、大問題なのです。
もちろん、子供には何も罪はありませんが、その結果として生まれてくる子供たちのためにも、社会的な環境が整備されるべきなのです。少なくとも、自身の妊娠を自分の意思である程度コントロールしようとするためには、そのための知識が必須です。
ネット上には健康に関する情報があふれています。ただ、その情報が正しいかどうかはなかなかわかりません。生殖に関する知識もしかり。これから私は一介の産婦人科医として、不妊治療の最前線について情報発信をしていきます。
【菊地 盤(きくち・いわほ)】順天堂大学浦安病院 リプロダクションセンター長
1968年、高知県生まれ。1994年、順天堂大学医学部卒。同大学順天堂医院産婦人科准教授、同大学順天堂東京江東高齢者医療センター産婦人科先任准教授、同大浦安病院産婦人科先任准教授を経て、2015年7月から現職。日本産科婦人科学会専門医。日本生殖医学会生殖医療専門医。がん生殖医学会理事。