昔ながらの「理想の父親像」が、児童虐待を隠している

    児童虐待の罪に問われた男たちはいつも、「理想の父親像」を盾にして身の潔白を主張し、その罪を隠そうとする。

    俳優で元NFL選手のテリー・クルーズは2018年夏、「Sexual Assault Survivors' Bill of Rights(性的暴行被害者の権利章典)」を支持する証言を上院で行って感動を呼んだ。その証言のなかでクルーズは、性的暴行の中心にあるのは「性」ではなく、常に「権力」である理由について持論を述べた

    彼の声はそのころすでに、#MeTooムーブメント(市民活動家のタラナ・バークを名づけ親に持つ、性的暴行に対する文化的清算)のなかでひときわ目立つ存在になっていた。クルーズは、ハリウッドの白人エージェントから暴行を受けた自身の過去を公表するだけでなく、「支配すること」と「男であること」は同義であると彼自身が教え込まれたことについてもオープンにした。

    私は子供のころ、父が母を虐待するところを見て育ちました。父は、権力と権威を使って母を支配していました。成長するにつれ、この考えが私という男を変えていきました。父のようには絶対にならないと、私は誓いました。しかし心の底では、この世界では男である自分のほうが、人間として価値があると思っていました。保護者であり、力の象徴である私のほうが価値があると。女性を下に見ていたのです。

    われわれの文化のなかでは、暴行・虐待についての会話がいままさに行われている。そして、男らしさや父性、権力といったテーマを扱う2本のドキュメンタリーが、この動きを促進している。歌手のR・ケリーとマイケル・ジャクソンがキャリアのなかで、それぞれ少女と少年に虐待・性的暴行を加えていたという疑惑にスポットライトを当てた、『Surviving R. Kelly』と『Leaving Neverland』だ。この2本のドキュメンタリーは、被害者たちの証言をもとに、支配に根ざす男らしさの遂行(それとなく女性を卑しめる、子どもにポルノを見せるなど)に取り憑かれた人物として両者を描いている。

    ケリーもジャクソンも、虐待を加えていたとされる子供たちをさらに操る手段として、彼らの「父親代わり」として自らを位置づけていたようだ。

    Leaving Neverland』で描かれている中心的な被害者のひとりウェイド・ロブソンは、ジャクソンが彼のことを「リトル・ワン」と呼んでいたこと、彼が女性に対する不信感を抱くように仕向けていたことを回顧している。それと同時にジャクソンは、ロブソンを彼の実の父から引き離してもいた。

    ロブソンの家族はオーストラリアからアメリカに引っ越したが、彼の父は母国に残っていた(「僕が父を遠ざけていたのは、マイケルのせいでした。いまならそれがわかります」とロブソンは語っている)。

    R・ケリーの自宅に2年間閉じ込められて、家族とも引き離されていたと語るキティ・ジョーンズによれば、ケリーの支配下に置かれた黒人の女性たちは、彼のことをダディと呼ばされていたという。

    クルーズが上院で行なった証言が示しているように、しばしば父性は、男らしさの遂行として解釈される。その役割は昔から、働いて家族を養う能力によって定義されてきた。「保護者であり、力の象徴である」ことによって。歴史的に見るとこの役割は、思想家のベル・フックスがその著書『フェミニズムはみんなものもの』(邦訳:新水社)のなかで、「両親がそろっている家父長制家族」と呼んでいるものと同じ方向性をもつものだ。

    テレビドラマ『パパは何でも知っている』で描かれた象徴的な白人のパターナリズムや、映画『96時間』に見られる「父親らしい強さ」のファンタジーなど、他者(とくに女性や子ども、ほかのジェンダーに属する人々)に対して権限があることは「よき」パパであることに等しいということを示す文化的物語が、アメリカには広く行き渡っている。

    だからこそ先日、クルーズが従来の父性観を擁護するような意見を表明したときには、多くの人々が驚いた。一連のツイートのなかでクルーズは、弁護士のデレッカ・パーネルが執筆したニューヨーク・タイムズ紙の論説に反論した。それは、前大統領のバラク・オバマには黒人の少年たちを「叱る」傾向があるとして、彼を批判する内容の記事だった。

    パーネル弁護士は、次のように書いている。「オバマによる『マイ・ブラザーズ・キーパー』のようなプログラムは、高校生の黒人トレイボン・マーティンを殺害した人種差別主義者の自警団員ジョージ・ジマーマンのような人物をつくらせない方法を問うのではなく、被害者になった少年の少しましなバージョンをつくることを主張している」

    クルーズはこれに異議を唱え、オバマが「成功した黒人男性」として黒人の少年たちにアドバイスを与えるのはもっともだと反論した。また彼は、少年を成功した青年に育てる教育法についての記事を「女性」が書いたという事実にも怒りを覚えた。クルーズはこうした話題を女性が論じるべきではないと考えているようだった。

    フォロワーたちから詳しい説明を求められた彼は、子どもには父親的な存在が必要であると持論を述べ、自身が2014年に出演したトーク番組『The Viewの一場面をシェアした。そのなかで彼は、「父親から得なければならないものがあるんです」と述べている。また、すでに削除されたツイートのなかでは、父親のいないシングルジェンダーの両親に育てられた子どもは「ひどい栄養失調」になるとも語っている(このツイートについては、のちに本人が謝罪した)。

    こうした論説を厄介なものにしているのは、上院で行なった証言のなかでクルーズが警告していた、まさに同じ見方を、クルーズ自身が倍掛けしているように見えるということだ。それは、男になる教育を受けた人々、とりわけストレートの男性は、独占的な知識を手に入れることができるし、それが「この世界では」彼らのほうが「人間として価値がある」ように見える一因となっているという考え方だ。その証言のなかでクルーズは、従来の男らしさや父性という理想を維持することがもつ、根本的で危険な側面を非難していた。

    こうした危険性は、マイケル・ジャクソンやR・ケリーを告発する人々の言い分だけでなく、Netflixのクライムドキュメンタリー『白昼の誘拐劇』の主人公である悪人や、アメリカ女子体操五輪チームのドクターで連続児童性的虐待者のラリー・ナッサーなど、起訴されて有罪になった者たちについての数え切れない申し立てのなかでも浮き彫りになっている。

    これらすべての申し立てのなかで明らかになるのは、父性という神話的なイメージそのものが、自らの潔白を主張し、自身の権力を保とうとする男たちによって、身を守る盾として使われてきたということだ。

    マイケル・ジャクソンが訴えられた2005年の裁判で、ジャクソン側がとった防衛策のひとつは、ジャクソンを性的虐待で訴えた少年ギャビン・アルビーゾは、被告のことを父親のような存在と思っていたという主張だった。最終的にジャクソンは無罪放免になったが、裁判の渦中で弁護団は、証拠としてある映像を挙げた。その映像のなかで、アルビーゾの弟は、ジャクソンは「僕らの本当のお父さんよりもお父さんみたいだ」と述べている。

    これは、「従来の異性愛規範的な意味における父親であれば、虐待者になる可能性は低いだろう」という考え方を暗示している(一部の研究から、虐待を受けている子どものほとんどは、両親から虐待を受けていることがわかっているにもかかわらず)。

    Leaving Neverland』のなかでは、ジャクソンの虐待についてのニュース映像が、その後ジャクソンが相次いで行なった女性との結婚に関する、へつらうような報道と対比されている。こうした報道は、伝統的な家族の構築を示唆するものだったが、被害者のジェームズ・セイフチャックはそれを、世間の目を逃れるための意図的な行為だったと回顧している。

    R・ケリーもまた、マイホームパパとしての自分をアピールし、虐待容疑から我が身を守ろうとしてきた。3月6日の朝にCBSニュース内で放送されたインタビューのなかでケリーは、『Surviving R. Kelly』のなかで展開される告発と、それに続く起訴に対して怒りをあらわにし、家長としての自身の役割を感情たっぷりに主張した。

    彼は涙ながらに、インタビュアーのゲイル・キングに向かって、あるいはカメラに直接向かって、身ぶり手ぶりを交えて声を荒げた。「音楽は関係ありません。私は子どもたちと関係を築こうとしようとしているんです!」と叫ぶ場面もあった(一方で、ケリーの実の娘は、父のことを「モンスター」と呼んでいる。同日、ケリーは養育費の未払いで逮捕された)。

    自分を伝統的な父親としてアピールする男性には、さまざまな特権が与えられることを示す十分な証拠がある。一部の研究から、シスジェンダーでヘテロセクシャルの父親は、子どものいない男性や母親と比べて、寛大な基準で評価されがちであることがわかっている。たとえば採用選考の場では、「父親は一家の稼ぎ手であるとみなされ、したがって母親よりもその仕事を必要としていると受け取られる可能性がある」のだ。

    1983年の『ミスター・マム』や、2015年の『パパVS新しいパパ』シリーズといった映画の存在が浮き彫りにしているように、男らしさへの文化的期待と、子育てに励む人々に対して私たちが期待し称賛するもののあいだには、根本的な緊張がある。育児雑誌のなかで描かれる父性は、依然として「一家の大黒柱」としての側面が強調されており、育児はもともと女性のものであって、(困ったことに)「男であること」とは相入れないという考えを強固なものにしている。

    さまざまな研究から、大半の「男性が、父親としての子育てを『行動』としてとらえている一方で、女性は母親としての子育てを『状態』として体験している」ことがわかっているが、これも驚くべきことではない。

    The King of Queens』などのシットコムで描かれる「どじなパパ」のように、ストレートでシスジェンダーの男性が育児や家事でへまをやらかしても、それは当たり前と考えられる。こうしたパパが育児の基本的なミッションをこなそうと努力するだけで、彼らは周囲の予想を裏切り、賞賛を得ることができる。たとえば、娘のためにケーキを焼いたり、子どもの髪をスタイリングしたりするだけで、その動画がバイラルを生むのだ

    一方で、女性やジェンダー・ノンコンフォーミング(既存の性別にあてはまらない)の人々にとって、「良い」育児の基準は、満たすのが不可能なほどに高くなりつつある

    父親に対する「望ましい育児」の期待が、女性と比較して低いことは、「まずは一家の大黒柱」という期待と組み合わされるかたちで、依然として普通のことになっている。オバマも2008年にこんなふうに語っている。「その人を男にするのは、子づくりの能力ではありません。子どもを育てる勇気なのです」

    しかし、特定の行動が「その人を男にする」という思い込みは、ジェンダー本質主義という間違った考えを後押しするだけだ。男であることを定義しようとする試みは、「本物の」男たちは他者に対して権力を主張できるという「男らしさのヒエラルキー」の構築に手を貸すものだ。クルーズは、性的虐待を受けた過去を公表したとき、こうしたジェンダー規範に逆らったのだ。

    家父長制は私たちに、世の中には2つのジェンダーしか存在しないということ、それらは固定的で限定的な意味を持ち、相互に関連し合っているということを信じ込ませる。当然のことながら、共和党員の大半がトランスジェンダーやジェンダー・ノンコンフォーミングの人々の存在を認識していないようで、彼らは生物学が男女における子育ての違いを決定すると信じ込んでいる。

    クルーズは3月5日、ふたたび謝罪した。コメディドラマ『ブルックリン・ナイン-ナイン』で共演したステファニー・ベアトリッツから、ジェンダーと子育てをめぐるクルーズのコメントに、LGBTコミュニティの人々が「傷ついている」理由を教えられたからだ。

    LGBTライフスタイル誌の『Out』は、「子を持つ同性カップルだけでなく、すべてのシングルマザー/ファーザーにとっても」不快なコメントだとこれを評した。それに続くツイートのなかで、クルーズは言葉を選びながら、「黒人の父親として、非常に個人的な体験からものを言ってしまった」が、ほかの人にはそのような体験がないかもしれないことをいまは認識していると、はっきり説明した。

    実際、クルーズの体験は、大衆メディアのなかで父性について一般的に語られることとまったく同じというわけではない。白人至上主義のなかでは、クルーズのような黒人男性は、父親としての責任をきちんと(あるいはまったく)果たせないと考えられている。黒人の父親は無責任だったり、子どもを見捨てたりする悪者と決めつけられてきた。そしてその結果、彼らはさらなるプレッシャーに直面し、権威あるマッチョな規範に従うことを求められるようになっている。

    だが、「いつも家にいない」黒人の父親というイメージは、事実に基づいたものではない。デレッカ・パーネルは、アメリカ疾病管理予防センター(CDC)が2013年に発表したレポートを引き合いに出して、それを指摘する。そのレポートによれば、ほかのグループと比較すると、「黒人の父親は自分の子どもと日常的にもっとも関わり合いを持っている」というのだ。

    にもかかわらず、この有害なステレオタイプは依然として、保守派の人々の話題の中心に居座っている。なぜなら、ザビエル・クラークが2016年に「The Grio」の記事で書いているように、「一貫して黒人の命をもてあそぶ制度や機関についてではなく、黒人の父親を問題にするほうが簡単」だからだ。

    男らしさを演じることにまつわるプレッシャーがますます強まっているという現実があるにもかかわらず、黒人やほかの有色人種の男性にとっては、従来の性差に基づいた父親像にはつかの間の安全しかない。さらには、男性と認められている親だけが手に入れられる「本質的な真理」があるという通説は、子どもやほかのジェンダーの人々を危険にさらしている。ベル・フックスが『フェミニズムはみんなのもの』のなかで述べているように、「両親がそろっている家父長制家族を何よりも重んじる文化においては、自分の家族がその基準に達していないとき、子どもたちはみな不安を感じる」のだ。

    Leaving Neverland』のなかで、被害者のウェイド・ロブソンは、マイケル・ジャクソンは彼に「サン(息子)」というニックネームをつけたが、その一方で彼を恋人のように扱い、彼に性的暴行を加え、自分の権力を使って彼をスターにすると約束したと言っている。ジャクソンのような世界のアイコンが父親になってくれるかもしれないという期待は、当時7歳だったロブソンを夢心地にさせたという。

    しかし、ハリウッドの搾取的な神話(ここで成功できれば、どこででも成功できる)についてテリー・クルーズがかつて語ったように、「こうした夢を支配する力を誰かが持っている」のだ。

    クルーズは、涙ながらの証言のなかでこう続けた。「私は男として、世界を支配しなければならないと教えられました。だから私は、権力や影響力、支配力を使って、あらゆる状況を支配していました。フットボールのフィールドでも、映画のセットでも。そして、妻と子どもたちがいる我が家でも」。しかしいまは、自身のプラットフォームを使って「被害者たちの手に権力と支配力」を取り戻そうとしている。「すべての男性、女性、そして子どもが、法のもとで平等にみなされるのは当然」だと、彼は確信している。

    クルーズは、ストレートの黒人男性として、そして性的暴行の被害者として、男性に男らしさという有害な理想を捨て去らせるための戦いをしてきた。だが、最近の彼のコメントが示唆しているのは、それを捨て去ることに専心している人でさえ、深く根づいた家父長制の物語から抜け出すのに苦労しているという事実だ。

    われわれの文化に関していま行われている会話は、子どもには母親と父親が必要だと(証拠もなしに)主張したり、ジェンダーによってその人の養育能力はあらかじめ決まっていると子どもに教えたりするのではなく、私たちがすでに知っていることに目を向けるチャンスを与えてくれる。それはつまり、ベル・フックスの言葉を借りれば、「子どもたちは、愛に満ちた環境で育てられる必要がある。支配が存在するところには、いつも愛が不足している」ということだ。


    Imran Siddiquee is a writer and filmmaker based in Philadelphia.

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:阪本博希/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan