その「漫画家」はフランスで「アーティスト」になった。『孤独のグルメ』の作者は、なぜヨーロッパに愛されたのか?

    夢枕獏原作、谷口ジロー作画の傑作マンガ『神々の山嶺』がフランスでアニメ映画化された。フランスでは今も「巨匠」と尊敬される故・谷口氏。ヨーロッパの人々をなぜそこまで魅了しているのだろうか?

    夢枕獏の小説を原作に、谷口ジローが作画した傑作マンガ『神々の山嶺』がアニメ映画となり、7月8日に公開される。驚くのはこの作品が、フランスで作られたということだ。

    2021年のカンヌ国際映画祭でプレミア上映されたのち、フランスの300以上の劇場で公開され、13万人以上の動員を記録。

    同国のアカデミー賞にあたるセザール賞では「長編アニメーション映画賞」を受賞した。すでにNetflixを通じて世界配信(日本は除く)もされている。

    なぜ日本のマンガがフランスでアニメ化したのか? 背景には、フランスにおける谷口ジロー氏の絶大な人気がある。

    なぜ、谷口ジロー氏はフランスでそこまで愛されているのか?

    『神々の山嶺』のマンガを呼んで惚れ込み、自ら映画化をオファーしたというプロデューサー、ジャン=シャルル・オストレロ に聞いた。

    フランスに愛されたアーティスト、谷口ジロー

    『孤独のグルメ』『遙かな街へ』などで知られるマンガ家・谷口ジロー氏。特にフランスで愛され、尊敬されているのは、マンガファンには知られている話だ。

    2011年には、フランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを授与され、2017年に亡くなった際には多くの現地新聞やテレビが取り上げた。

    生前には「日本よりフランスの方が有名なんだよ」とはにかみながら語っていたという。

    谷口作品は、派手なアクションものではない。正義のヒーローが登場するわけでもない。

    何気ない日常、人々の心の機微、壮大で美しい自然や建物。繊細かつパワフルな画力で描き続け、常に新しい手法を模索する「アーティスト」だった。

    「あの日、マロリーはエベレスト初登頂に成功したのか」

    世界最高峰のエベレストの初登頂は1953年とされているが、その29年前の1924年に、イギリス人の登山家、ジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンが初登頂に成功したのではないか?という議論がある。

    『神々の山嶺』は、この登山史上最大の謎をベースにした物語だ。

    真実をつかむ鍵となる1台のカメラと、孤高のクライマー・羽生丈二。

    そして彼の生き様に魅せられた雑誌カメラマンの深町が、前人未到の「冬季エベレスト南西壁無酸素単独登頂」に挑む。

    史実を交えながら、登山家の情熱や孤独と、エベレストをはじめとした山々の尊厳さと美しさを壮大なスケールで描き出した小説を、谷口氏がマンガ化した。

    熱い人間ドラマと、圧倒的な自然描写が高い評価を受け、2001年には第5回文化庁メディア芸術祭マンガ部門・優秀賞を受賞した。

    フランスで発売された翻訳版は、累計38万部を売り上げている。2005年には「アングレーム国際漫画祭」において最優秀デッサン賞を受賞するなど、谷口氏の世界的な代表作のひとつだ。

    実写ではなくアニメで「冒険映画」を作りたい

    ――プロデューサー自ら、マンガを読んで感動し、オファーしたと聞きました。映画化したい!と思った理由は?

    もともと私は、山登りが大好きな山岳ファンなんです。

    登山に関する小説や映画はこれまでもよく見ていましたし、1924年に消えたマロリーについても、ドキュメンタリーをはじめさまざまな作品で調べてきました。とはいえ、一度もこのテーマで映画化したいと感じたことはなかったんですね。

    でも、谷口氏のマンガ、そして夢枕氏の原作小説を読んだときに初めて「この題材は映画化にふさわしい、価値のあるものになる」と感じました。

    この「冒険映画」をアニメで作りたい、と。実写よりアニメの方が、感動を直接訴えられると思ったのです。

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    圧巻の登攀(とうはん)シーン

    谷口氏からかけられた言葉

    ――2012年から7年かけて製作された本作。谷口氏も、生前に映画チームと話していたそうですね。

    フランスで2回、会うことができました。私だけでなく、他のプロデューサーたち、スタジオでアニメ制作に携わる人たちとも顔を合わせました。

    人物のグラフィックや背景について、全体の方向性について――原案となるマンガをなぜ、どのように映画化したらいいのかについてたくさん話し合いました。

    谷口氏は、他のアーティストを常に尊重していました。マンガの単なるコピーではなく新たな作品が生まれることを願い、信頼して一任してくれていた。

    私たちスタッフもプライドを持っていい作品を作ろうと思っていたし、それを理解してくれていたと思います。

    「何かあったらいつでも相談してください」と常に伝えてくれていました。2017年に亡くなる前までね。もしご存命でしたら、この映画のことを評価してくださったんじゃないかと確信しています。

    ――私も観終わったあと、「谷口ジローがどう言ったか聞きたかった!」と思いました。

    そうですよね。実際には想像することしかできませんが……。

    でも、私は生前にお会いして、谷口氏がどんな人か知っています。自分の作品にどれだけ情熱を持っていたかも知っています。

    例えば、登山家が標高が高い場所にいる時、どんな気持ちになるのか? 何を思っているのか?

    彼がマンガを通して伝えようとしていたことに忠実な――単なるコピーではなくスピリットを、観る方が感じたり、見つけたりしてくれることを祈っています。

    「エベレストに登ったことがある人はみんな共感する」

    ――原作とまったく同じではなく、ストーリーや結末にはアレンジが加わっています。冬のエベレストの緊張感は、観ているだけで恐ろしさに足がすくむような気持ちになりました。

    昨日、この映画を観てくれたコンラッド・アンカーに会ったのですが、「エベレストに登ったことがある人はみんな共感するに違いない。なぜこんなにも正確に登山家の気持ちを描写できるのか驚きを隠せない」と語っていました。

    私たちは谷口氏の仕事を通して、感動や葛藤や苦しみを一緒に感じ、想像をかきたてられた。監督もこの映画で、同じことに成功していると思います。

    そして、この作品が素晴らしいのはただ観賞用の美しい映像ではない、退屈させないところ。考えさせられるし、感動できる。そして謎に迫っていくミステリーの要素もあります。

    「巨匠」の作品をアニメにするプレッシャー

    ――谷口氏はヨーロッパ、特にフランスで大変に人気がありますよね。フランス国民にそれだけ愛されている理由はどこにあるのでしょうか。

    ひとつは、彼の作品が日本のマンガとヨーロッパのマンガ(バンド・デシネ)の成功したマリアージュであることだと思います。彼自身が、フランスやベルギーのバンド・デシネから影響を受けたと語っていますよね。

    もうひとつ重要なのは、彼は「グラフィック作家」として高い地位にあり、尊敬されているということです。日本では「マンガ家」として愛されてると思いますが、フランスにおいては、アーティスト、巨匠、知識人というイメージです。

    フランスやベルギー、ルクセンブルグでは特にその印象が強く、翻訳されている作品も美しく芸術的な価値が高いもの、美的センスに訴えるものをピックアップして出版されています。

    なので、日本のみなさんの思う「マンガ好き」よりもさらに広い層から尊敬を集めているのだと思います。

    ――それだけの巨匠ということは、フランスでアニメ映画化することには特別なプレッシャーもあったのでは?

    実際、特に原作マンガのファンからは「無謀だ!」という声も多くありました。

    私自身が、あまりアニメの世界を知らなかったからこそできたチャレンジだと思います、幸か不幸か!知っていたらこんなことはやらなかったのかもしれませんが……怖いもの知らずだったんです(笑)

    多くのプレッシャーがあり、失敗も許されない中、これだけの作品を完成できたのは、スタッフの強い思いがあってこそだと思います。

    2017年に谷口氏が亡くなった時、すべてのスタッフが悲しみに暮れました。その悲しみが、さらに「絶対によいものを作らなきゃ」と奮い立たせてくれました。

    そういえば、私とパトリック(パトリック・インバート監督)の関係は、夢枕氏と谷口氏のそれに似ているんですよね。私は山が大好きですが、パトリックは山岳についてまったく知識がないところからスタート。夢枕氏も登山が趣味で、谷口氏は山については何も知らなかった。

    パトリックはプロジェクトを進めるため、山について調べたり、家族でシャモニー(ヨーロッパ最高峰のモンブランのふもとにあるリゾート地)に訪れたりして、深く理解しようとしていました。

    谷口氏が山を知るために、夢枕氏と一緒にネパールのエベレストの方に行かれたのと同じようなことをしたわけです。

    「この作品を原作に冒険大作を作ろう」と監督と脚本家と3人で相談しはじめた時、パトリックは山岳ファンだけでなく、人々が広く共感できる普遍的なテーマにしたいと熱く話していました。

    「それこそが、谷口氏のまなざしだと思う」と。まさにその通り。山を知らない人にも観てほしいですね。

    なぜここまでひとつのことに心を燃やせるのか、時には自分の命すらかけられるのか――おそらく、登山家だけでなくあらゆる芸術家がそうだと思うのです。その極限の葛藤や苦悩が、この映画で描き出せているといいなと思います。

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