ウクライナ出身のアンナ・シャルホロドウスカーさん(26)は、この1年で自分の身に起きたことが本当に現実なのか、分からなくなることがある。
生まれ育った南東部の街マリウポリは、ロシア軍の攻撃で壊滅した。
大好きだった教師の仕事。家族や猫と暮らしていた家。そして、戦争の影を感じながらも「きっと状況は良くなる」と信じて住み続けた故郷の街。
大切なものを、一瞬にして奪われてしまった。
彼女にとって、そしてウクライナの人々にとって、昨年2月24日にロシア軍の侵攻が始まってからの1年は、何だったのか。
そして、日本に渡り新たな人生を切り開こうとする今、思うことは。
人生のすべてを変えた「あの日」
ウクライナへの「特別軍事作戦」を決行する──。
2022年2月24日朝、アンナさんは、ロシアのプーチン大統領の演説を繰り返し流すテレビニュースの音で目を覚ました。
キャスターは切迫した様子で、避難用のカバンを支度するように呼びかけていた。
アンナさんにはこの時まで、強い危機意識はなかった。
というのも、彼女が暮らすマリウポリがあるウクライナ東部では2014年から8年にわたり、ロシアの影響下にある親ロシア派の武装勢力と事実上の交戦状態にあったからだ。
ウクライナでロシアの侵攻が始まったのは1年前ではない。2014年のことなのだ。
この年、親露派の武装勢力がマリウポリの中心部を一時占拠した。2015年には住宅地が砲撃を受け20人以上の市民が犠牲になった。
その後、ロシアとの停戦協定が結ばれ、マリウポリは徐々に落ち着きを取り戻した。散発的な軍事衝突が続いていることを忘れてしまうほど娯楽施設や公園が次々に建設され、街は見違えるように発展した。
アンナさんの人生も順風満帆だった。
地元の大学を卒業し、「子どもと歴史が好き」という思いから中学校の歴史の教員になった。2020年には、大学の同級生の男性と結婚。夫婦で同じ学校に勤めていた。
「今回も状況はそれほど悪くならないだろう。マリウポリは安全に違いない」
アンナさんと夫、同居する妹は、街にとどまることに決めた。
家も学校も破壊されて
だが、状況は日に日に悪化していった。
街の至るところで爆発音が聞こえるようになった。街で開いているスーパーマーケットは1軒だけになり、人々は朝から長い列を作った。電気やガスの供給も絶たれ、ついにインターネットや電話も通じなくなった。
砲撃はとうとう自宅にも及んだ。
夫と妹と自宅のアパートで過ごしていると、爆発音がどんどんと近づいてくるのを感じた。
危険を感じて、とっさに3人でアパートの廊下に出た直後のことだった。凄まじい爆発音とともに爆風が吹き、あたりに粉塵が立ちこめた。
下の階に砲弾が直撃したようだった。
さっきまでいた部屋は天井や壁の一部が落ち、家具や物がひっくり返り、一面がねずみ色で覆われていた。飼っていた猫の姿は消えていた。
火の手が上がったが、消火の合間にも、次々と砲弾が打ち込まれる。
アンナさんらは、通りの向かいにあるレストランの地下室になんとか逃げ込んだ。
間もなく、激しい爆撃が始まった。
「これが最期の瞬間かもしれない」。爆弾で地面が大きく揺れる度、そう覚悟した。
あたりが静まり、ようやく外に出た。
通りの向こう側で、自宅アパートが真っ赤に燃えていた。
3月16日、アンナさんらは、マリウポリを脱出することを決めた。
ウクライナでは国土防衛のため、18〜60歳の男性は出国を禁じられているが、アンナさんの夫は目に障害を抱えているため、国外への避難を許された。
水も食糧もなく、砲撃で常に死と隣り合わせ。脱出も命がけだ。しかし。
「このまま街に居続けるよりもましだと思った」
早朝のマリウポリ。
至るところで上がる黒煙、歩道やフェンスに突っ込んだまま放置されている車、崩壊し内側が焦げた建物。その中には、生徒や同僚との思い出が詰まった中学校もあった。
それが、最後に見た故郷の姿だった。
故郷には戻れない…その理由
あれから約1年。
マリウポリの変わり果てた姿は、今もアンナさんのまぶたの裏に焼き付いている。
「マリウポリはとても美しい街でした。そして、私はそこで本当に良い人生を送っていました。仕事も同僚たちのことも好きでたまらなかった。でも戦争によって、街も、一歩ずつ築き上げてきた人生も、全てが破壊されてしまった」
戦争が終わったら、ウクライナに戻りたいか。
そう問われるたびに、複雑な思いが込み上げる。
「戻っても新しい生活を始めるのはとても難しい。私はどうしたってめちゃくちゃにされる前の街や家が恋しくなってしまうから。そして、それらを永遠に失ってしまったことを再び目の当たりにした時、その痛みに耐えられないだろうから」
そして、こう言葉を詰まらせた。
「私には時間が必要です」
だが、故郷のために願うことは、一つだ。
「ウクライナがマリウポリの全ての土地を取り戻し、ロシアから完全に自由になることを願います。ロシアにはもう2度と私たちの街に戻ってきてほしくない」
「ウクライナの人々が、他の国の支援を受けながら、強く、連帯し続けられることを願っています。そして、私たちはロシア政府に示していきます。他の国を侵略し、戦争を起こすことは決して許されないと」
「日本からウクライナのために戦う」
戦争によって奪われた、あったはずの人生。それでも、アンナさんは立ち止まらない。日本で人生を立て直し、彼女なりの方法でウクライナや平和のために戦おうとしている。
「支援を受けるだけの身でいたくはない」。昨年5月の来日後まもなく、避難者の就労を支援するNPO団体「WELgee」などと繋がり、日本での就労の道を探った。
そして、12月、念願の就職が決まった。就職先は、途上国や紛争地で子どもや女性の支援をする国際NGO「プラン・インターナショナル」だ。
ウクライナから避難した人には高学歴者や専門スキルを持つ人も多い。しかし、日本では日本語を話せないと就労先の選択肢がかなり狭まってしまう。
「周りのウクライナ人のほとんどが、言葉をあまり必要としない清掃や工場での単純作業などの仕事しか見つけられていない。私は、とても恵まれていると思う」
プラン・インターナショナルは現在、ウクライナ周辺国での人道支援も行っている。
アンナさんに任せられている仕事の一つは、国内外のウクライナ避難者の現状などを調査し、報告にまとめることだ。
「いま私にできるのは、日本からウクライナのために戦うこと」という。
もともと教師だったことから、とりわけ憂慮するのは、子どもたちを取り巻く現状だ。
「多くの子どもたちが戦争によって深刻なダメージを負っています。彼らが避難先の国できちんと教育を受けられるように、精神的なサポートを受けて回復できるように、私の持てる全ての力で、尽くしていきたい」