18歳で「人生終わった」男性が、車椅子で世界一周した話

18歳で事故に遭い、頸髄損傷の宣告。一度人生の終わりを見た彼は、なぜ「車椅子トラベラー」として世界一周の旅に出る決心をしたのか。

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18歳で「人生終わった」男性が、車椅子で世界一周した話

18歳で事故に遭い、頸髄損傷の宣告。一度人生の終わりを見た彼は、なぜ「車椅子トラベラー」として世界一周の旅に出る決心をしたのか。

「僕はどこにでも行ける」

そんな言葉とともにTwitterに投稿された動画には、車椅子に乗って、一面に広がる湖にたたずむ男性の姿が映っている。

場所は南米ボリビアのウユニ塩湖。日本とはほぼ地球の裏側に位置する異国に、彼は一体どうやって辿り着いたのだろうか?

「車椅子トラベラー」。三代達也さん(31)は、自身のことをそう名乗る。28歳の時に、勤めていた会社を辞め、世界一周をすることを決意。約9ヶ月をかけて、23ヵ国42都市を巡った。

手や足が思うように動かないというハンデを負いながら、彼はなぜ旅を続けるのか。その思いを取材した。

「人生、終わりだと思った」

「肩で風を切って歩いちゃう感じのやつでした」。三代さんは、自身の高校時代をこう振り返る。

つまらないと思った高校を1年でやめ、持て余した時間にバイクを乗り回したり、ガソリンスタンドでバイトをしたりする日々を送っていた。

そんな日常がガラッと変化したのは、18歳の時のこと。バイトの帰り道、いつもと同じようにバイクに乗っている際、車との大事故に巻き込まれたのだ。突然車が目の前に現れると、気付いた時には吹き飛ばされ、意識を失った。

一命はとりとめたものの、頸髄損傷という重いけがを負った。リハビリの成果で車椅子に乗れるまでに回復したが、再び自力で歩けるようになることはない、と分かった。周りからかけられる、励ましの声に耳を傾ける気にはなれなかった。

「『ああ、人生終わりだ』と思いました。周りの人からかけられる『大丈夫だよ』『なんとかなるよ』って言葉が1番サムかった。誰にも自分の気持ちは分かるわけないと思ってました」

「おまえ甘ったれてんなあ」

自分の将来を考え、絶望する日々。そんな時、ある男性からかけられた「おまえ甘ったれてんなあ」の一言が、人生を変えるきっかけとなった。

三代さんは彼を「師匠」と呼ぶ。出会った当時50代だったというその男性は、リハビリ施設の同室に滞在していた。

「4人部屋で、師匠は僕の左斜め前のベッドでした。食堂に行くのが面倒で、看護師さんに部屋まで食事を持ってきてもらってる僕を見て、おじさんが通りすがりに『甘ったれてんなあ』って言ってきて。その時は正直『あ?何言ってんだ』と思いました(笑)」

男性のぶっきらぼうな言葉に、最初はむかついたという。しかし男性が三代さんと同じ障害だったこともあり、だんだんと打ち解けていった。

三代さんが帰省する日のこと、茨城の実家から静岡にあるリハビリ施設まで、親に車で迎えに来てもらうことを「師匠」に話すと「電車で帰ってみろよ」と言われた。

思い切って、ひとりで電車に乗り、実家まで帰る挑戦をすることにした。不安を抱えながらも、何とか辿り着いた先で待っていたのは、嬉しそうな両親の笑顔だった。

「一人で電車で帰って来た僕を見て、本当にすっごい嬉しそうで。『僕が頑張ると周りの人をこんなに喜ばせられるんだ』って思えました」

その後も三代さんは、「師匠」のアドバイスを受けながら出来ることを次々と増やしていった。そして1年半という入所期間のすえ、リハビリ施設から退院することが決まった。

「お前ここを出たらどうするんだ」と聞かれた三代さん。「実家に戻って暮らそうと思っている」と伝えると、返って来たのは「本当にそれでいいのか?」という言葉だった。

「今振り返ると師匠は、僕が実家に帰って、引きこもってしまうことを心配していたんだと思います」

東京での引きこもり生活

こうして「師匠」に背中を押され、三代さんは、東京での一人暮らしを決意する。しかし、新生活は困難の連続だった。

「電車に乗ったら、男子高校生が何人か僕の前に来て、『こいつ見てみろよ』って笑いながら写真撮ってきたんです。その瞬間、僕も高校生の時に知的障害者の子を見て笑ってたのを思い出しました。僕がその子にやっていたことが返ってきた感じ。まさか自分がそっちの立場に立つとは思わなかったです。知らないってことがこんなに愚かなことなんだなって」

障害を持ちながら、自力で生活することの難しさを痛感した。外出する回数も少なくなり、引きこもりがちの生活が数ヶ月続いた。

ある日、家事を頼んでいたヘルパーさんに食事を作ってもらうことを忘れ、自分で買い物に行くことに。スーパーで高い棚に手が届かず困っていたところを、通りがかりのおばちゃんが助けてくれた。

「なんでもないやり取りだったんですけど、その瞬間『この世界って優しい人もいるんだ』って思えるようになって。帰りの景色が全然違って見えた。家に帰った瞬間、とんでもない達成感を感じて『買い物行った!すごいじゃん俺!』って一人で部屋の中で叫んだんです(笑)」

前向きな気持ちを取り戻した三代さんは、車椅子バスケットボールにチャレンジした。そこで知り合った友人の紹介で、人材派遣会社に就職することができたのだ。

きっかけは同僚の一言

三代さんはここで、新たな挑戦をすることになる。海外旅行だ。

「三代君、海外行ってみなよ」。夏休みの予定について話していた同僚との会話で放たれた、何気ない一言が、三代さんの新たな一歩を後押しした。

「最初は出来ない理由を並べたんですけど、今までそう思って実際に出来なかった事ってなかったなって気づいて。電車に乗ったり、一人暮らししたり。師匠が作ってくれた土台を積み重ねてきた自分なら出来るかもって思えました」

23歳の三代さんが、初めての海外旅行に選んだのはハワイだった。「ハワイなら、バリアフリー社会で、日本語も通じるらしい」という同僚の言葉だけを信じて、旅先を決めた。

そしてここで、三代さんはまた大きな転機を迎えることになる。
「夜、散歩がてら偶然入ったバーで、強面のお兄ちゃんに突然話しかけられて。こっちは英語喋れないし、内心はとってもビビってて(笑)質問ぜめにされて、『なんで車椅子乗ってるの?』とも聞かれました」

日本では周りにいつも気を遣われていた。車椅子について、率直に質問されることは新鮮だった。

「『バイクで事故っちゃってさ』『お前クレイジーだな』っていう会話が僕にはすごく心地よかったんです。片言だったけどすごい仲良くなって、ここでは人間の心も設備もバリアフリーだなって思いました」

旅先の出会いを経て「もっと海外を知りたい」と思った三代さんは、帰国後、その年のうちに勤めていた会社を辞めた。

「誰かが一歩踏み出すきっかけ」を作りたい

仕事を辞め、英語力を身につけようと、アメリカへの語学留学を経験。その後はワーキングホリデーを目的にオーストラリアに渡航、各地を巡った。そして翌年、日本の商社に再就職した。

しかし、心にはどこか物足りなさがあったという。気づけば28歳。商社の仕事を始めてから3年が経っていた。

「仕事はあって、生活も安定してました。でもルーティン化した今の僕の人生って充実してるのかなっていったらしてなかった。自分が一番輝いていたのは、旅してる時だったなって気づいたんです」

「次は誰かのためになる旅をしたい」。そう考え始めたのもこの頃だった。

「今までの旅は、全部自分のためだった。周りからの『なんの為に旅してるの』『ただの遊びじゃん』って声も気になったし。じゃあ、誰かのための挑戦だったら旅の目的になると思いました」

世界一周をして、旅先でのバリアフリー情報をブログやSNSで発信するーー。三代さんは、そんな挑戦を自らに科した。

「僕が旅してて一番怖かったことは、現地のバリアフリー情報がほとんどないことでした。きっと同じ悩みで、海外に行けてない人っていっぱいいるんだろうなと思いました。僕が旅先で得た情報を発信すれば、誰かが一歩踏み出すきっかけになるじゃんって思って」

「自分の人生を振り返ったとき、僕にあったのは『旅』っていうワクワクするツールだったんです。車椅子でも手や足が不自由でも楽しめるんだって、誰かの一歩を後押しできるんじゃないかなって思いました」

世界共通のバリアフリー

世界一周を決意したものの、期間・予算・荷物・渡航国など、旅に必要な情報全てにおいて見当すらつかなかった。そこで三代さんは、旅行会社を訪れ、福祉と旅行の知識のあるスタッフに話を聞いてもらいながら、計画を立てていった。しかし結果的に旅は、計画通りにはいかなかった。

著書「No Rain, No Rainbow 一度死んだ僕の、車いす世界一周」(光文社)では当初の苦労話が多く紹介されている。

最初に訪れたヨーロッパでは、スリに遭ったり、石畳の道路上での移動に苦戦したりと、想像もしなかった数々のバリアに遭遇することになった。安い宿ではバリアフリーでないところが多く、宿選びも難航した。また、インドでは体調不良になり途中帰国を余儀なくされる。立て続けに起こる不測の事態に、旅を始める当初計画していた約350万円の予算は、気づけば500万円を超えるまでに膨らんでいたという。

ひとつの困難を乗り越えると、また次の困難が訪れる日々。なぜ三代さんはそれらを乗り越え、旅を続けられたのだろうか。

「もちろん物理的に無理な事はいくらでもあります。例えば、誰もいない状況で、急な上り坂を登るのは不可能です。でもそういう時はいつも誰かが手を貸してくれた」

「講演会とかでいつも『世界共通のバリアフリー』ってなんでしょうって話をするんですけど。それは人。パルテノン神殿も、マチュピチュも、ウユニ塩湖も、もちろんバリアはあったけど、行けたのは周りに人がいたからなんです」

世界一周を経て、車椅子の自分の旅を可能にしているのは「人」の力だと知った三代さん。だからこそ、自らの体験をSNSで発信をする際、ただの「バリアフリー情報の羅列」にならないように注意したという。

「読んでくれる人には、ただバリアフリーの場所を巡るだけじゃなくて、その国の状況やコミュニケーションの取り方、バリアを乗り越える工夫を伝えることで『世界中どこにでもいける』っていうことを伝えたいです」

18歳の自分を救った、あの人のように

三代さんはいま、大手旅行会社のスペシャルサポーターを務める傍、車椅子トラベラーとして書籍の出版や、各社メディアへの出演、講演会の開催などを行なっている。

「10年後どこで何をしていると思うか」と聞いてみると、「それは、わからないです」と笑顔で即答する。

「将来の夢ってないんです。だって10年前、僕はベッドの上にいたし。その時の僕は、電車乗るのでさえ無理だと思ってました。だけど今は世界一周してるんだから。そう考えたら10年後何してるかなんて答えられない」

「今の僕は旅をしたくてしてるけど、もっとやりたいことを見つけたらそっちにシフトしても全然いいと思ってます。でも、何も考えず流されるだけの自分には戻りたくないっていうのは決めてるんです」

18歳のあの日、「人生の終わり」を経験した三代さんを導いたのは、いつだって人との出会いだった。

「『人生終わったな』って思ってた僕に、一歩踏み出すきっかけを作ってくれた師匠みたいな人、人生に前向きになれるきっかけを作れる人になりたいです」

心が折れかかった時、自分を救ってくれたあの人達のように、次は自分が誰かを救えるように。まだ見ぬ目的地に向けて、彼はまた、旅に出る。