アップルパイの歴史を淡々と語る
新石器時代、航海、大量消費主義を経てパイは今に至る
As American as apple pie(非常にアメリカ的な) —このフレーズはアメリカ人のアイデンティティーを表している。
アメリカのシンボルとしてバスケットボールやバーベキュー、ハクトウワシのように、アップルパイも並べられる。
しかし、なぜシンボルとまでになったのだろうか?

左:格子型のパイを持つモデルがポーズをとる1966年の広告
右:6歳のリチャード・バランスキー。15秒で10インチのクランベリー・パイを食べる、パイ食いコンテストで優勝した。この大会は1948年のクランベリーを祝う日に行われた。

1951年に開催されたグランド・ナショナル・ベーキング・コンテストの広告の写真

1956年6月12日のチェリーパイの広告の写真
パイの起原は紀元前6000年の新石器時代まで遡る。
中世にヨーロッパで定番の食べ物となった。カササギの巣作りや亀っぽく、肉を詰めて香辛料を効かせたパイが作られた。
1600年はじめ、新しい世界を求めて旅人たちが海へ出た。りんごの種とほかの材料をヨーロッパから携えて、家族のパイのレシピを頭に入れていた。
辿り着いたアメリカで、作り手はその地で採れたベリーや果物をパイに入れた。
いつしかサンクスギビングデーの中心的役割を果たすようになった。
記録を見ても、1621年の最初のサンクスギビングデーにはパイがあったとの記述はない。

1933年のシカゴ万国博覧会で開催されたパイ食いコンテスト

約1514リットルのリンゴを使った巨大アップルパイを作る様子。1927年のナショナル・アップル・ウィークに、ワシントンのヤキマで行われた。1トンの重さと3メートルの幅があるパイだ。

1950年にロサンゼルスのフードショーで開催されたパイ食いコンテストに参加した二人の少年。
20世紀のはじめになると、大量消費主義が台頭した。
マスマーケティング戦略が採られ、アメリカ人の価値観と合致した。パイは大量に生産され、製品が並べられた。
りんごの生産者と焼き手、そして他の材料の生産者は、パイがアイデンティティーを支える不可欠な存在であることを表現していた。
架空のベティ・クロッカー社の宣伝には、「もし私たちの国の紋章を作るなら、パイが紋章のシンボルになるだろう」とあった。
第二次世界大戦の間、兵士たちが戦う目的を聞かれたとき、「ママとアップルパイのため」と繰り返し唱えられた。

1953年2月21日にシカゴで開催された、ナショナル・チェリーパイ・ベイキング・コンテストの優勝者たち。

1961年頃にロサンゼルスで、ミュージシャンのキング・カーティスから顔面にパイをぶつけられる準備をしている、コメディアンのスーピィ・セールス

1973年7月12日にデンバーで開かれた地域の行事で、顔面でパイを受けた若い少年
“As American as apple pie” は単なるキャッチフレーズではない。幸福を追求するアメリカン・ドリームへの期待も込められた。
そして、あてにならないこと求めることは(chasing pie in the sky)、「ケーキを食べればいいじゃない(Let them eat cake)」よりも良い言葉だ。

1957年、ラスベガスのトロピカーナ・ホテルでパイを顔面で受け止めた、俳優のドッティ・ハーモニー

1949年、22インチのスウィート・ポテトパイを小道具にして歌った、ペギーリーとディーン・マーティン

左:1949年2月4日の、シカゴのサンキスト・パイ・カンパニーのスタッフの様子
右:焼けたばかりのパイをもつ老婦人の、1940年代の広告の写真

1949年、シカゴのサンキスト・パイ・カンパニーのスタッフがパイを作る様

1969年5月6日、コロラド・ワイオミング・レストラン大会でパイを見せる女性
この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:藤原哲哉