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私の息子は、すてきなゲイ・カップルの子どもになった

息子を手放すことは、人生で一番辛い経験だった。だが、息子の親となった人たちと私は、愛情にあふれた、オープンで自由な「虹の家族」を築いた。それは何物にも替えられない宝だ。

避妊をしない軽率なセックスをしてから2週間半。同僚の誕生パーティが始まる直前に、私は職場のトイレで、妊娠検査用のスティックに尿をかけた。その日は金曜だった。金曜は給料日で、それより前には検査キットを買う余裕がなかったのだ。

検査さえすれば、陰性と分かって、どうしようもない不安から解放されると思っていた。だが、そうはならなかった。

検査キットに2本線が表示されているのを見たとき、最初は何も感じなかった。ショックのためか、落ち着いていたのか、よく分からない。でも、すぐさま私はいくつかの決断をした。1つ目は赤ちゃんを産むこと。2つ目は、産んだら養子に出すこと。3つ目は、「クィア(性的マイノリティ)」の家族に引き取ってもらうこと。必ずクィアでなければならないという訳ではなかったが、クィアのカップルが養子をもらうのは大変だろうから、自分と同類の彼らに役立ちたいと思ったのだ。

こうしたことに、その日トイレで初めて思い至ったわけではない。これまでにも何度か、妊娠したかもと思うことがあって、養子縁組について考えたことがあったのだ。妊娠が現実となった今、自分がどうしたいかは分かっていた。トイレから出ると同僚を探し、落ち着いて自分の計画を伝えたのを覚えている。すべては、陽性の結果が出てから5分以内のことだ。

私は独身で、芝居に打ち込んでいてお金はなく、ルームメイトなしでは家賃も払えなかった。妊娠初期だから、痛い思いをせずに中絶できただろうが、そうしたいとは思わなかった。カトリックの家に生まれたせいか、映画『ブルーバレンタイン』を見たせいか、あるいはそれ以外の未知の要因によるものかはわからないが、中絶を望む気持ちはまったくなかった。それは自然な決断だった。

翌日、医療サービスNGO「プランド・ペアレントフッド(全米家族計画連盟)」へ行き、検査結果が間違いでなかったかを確認するため、カップに尿を取った(もちろん、間違いではなかった)。

金属探知機のゲートを通り、付き添ってくれたサラを来客用の待合室に残し(中には私以外入れなかったからだ)、尿の入ったカップを持ったまま、混雑したロビーを抜けて、検査を受けに行った。ソーシャル・ワーカーのいる狭いオフィスに入ると、心配そうな顔をした金髪の女性が隣に座り、あなたのこれからの希望はどういうものかしら、と尋ねてきた。

赤ちゃんはクィアの人に引き取ってもらいたいと言うと、彼女は、プランド・ペアレントフッドとつながりのある養子縁組あっせん団体が載った、カラフルで光沢のあるファイルを渡してくれた。

優しさと心配の入り混じった顔で見つめられ、大丈夫かと何度も聞かれたのを覚えている。私は心から「大丈夫です」と答え、オフィスを出た。ロビーではしゃぎながらサラに抱きつき、スキップで外に出て、サラダを食べた。お腹に赤ちゃんがいるのだから栄養を取らなくては、と。

正直に言うと、自分がなぜあんなに落ち着いていたのかはよく分からない。かかりつけのセラピストが優秀ということなのだろうか。あるいは、「これから楽しいことが待っているぞ」と思ったからかもしれない(それはあながち間違いではなかった)。私の心を占めていたのは興奮と喜びであり、ストレスや不安ではなかった。

ただ、この気持ちはあとで変化した。自分の息子を手放すのは、それまでの人生で何よりも困難で辛いことだったのだ――その辛さは、息子と別れる日になって初めて感じたものだったけれども。

ほどなく私は、デビーというソーシャル・ワーカーと、隔週で養子縁組あっせん団体で会うようになった。デビーは控えめに、「その団体は『ゲイ向け』として評価を得ています」と説明した。最高だわ、と私は思った。同類を見つけたのだ。

6カ月かけて、デビーと私はお互いを知るようになった。デビーは、彼女と会っているからといって必ず養子縁組をしなくてはならないわけではない、と言った。私が養子縁組を選択することで彼女が手数料を受け取るのではなく、彼女の仕事は、私が、私と赤ちゃんにとってベストな道を選ぶ手助けをすることだという。デビーはその言葉に忠実だった。デビーと私は、子どもを自分で育てることが可能かについて、幾度となく話しあった。それってどんな感じなのだろう。誰からお金を借りたらいいの?私はどんな家族メンバーと一緒に住めるだろう。そんなことを話した。

けれども、私の選択肢について筋道立てて深く考えても、1日のうち98%は、自分は養子縁組を選ぶだろうと確信していた。

特にデビーが、「その団体はオープンな養子縁組を強く奨励しているから、子どもと会うこともできるのよ」と言ったときは、その確信は強くなった。私は、自分の妊娠と養子縁組計画について、とことん開けっ広げだった。

妊娠第1期(第1週~第13週)の終わりには、フェイスブックに大々的にこんな発表をしてしまうほどだった。

「厳密にいえば第1期はあと2日残ってるけど、発表しちゃいます。みなさん、私、妊娠しました。予定日は9月27日です」

「今のところ、赤ちゃんは養子に出す予定(できればゲイかレズビアンのカップルに)。良いあっせん団体と相談している。でも、世界が――そして私自身の心が――どんな変化球を投げてきても受け取れるよう、オープンなままでいます」

「今、11週と5日です。吐き気はもうありません(2月は辛かったけど)。とても幸せな気分。いつ『おめでとう』を言おうか悩んでいた人、もう言っていいよ!」

ニューヨークの演劇関係者は驚くほど寛容だ。私を思いとどまらせようとする人は1人もいなかった。私と私の計画を全面的に応援する以外の反応を示す人もいなかった。誰かに計画を打ち明けるたびに、相手が余計な詮索をするまいと努めてくれているのが分かり、ありがたかった。だが、知らない人だとそうはいかない。

ある男性は、バーで近づいてきてこう尋ねた。「で、父親はどこにいるんだい?」私のオフィスにインタビューに来て、小児科医をあれこれ薦めてくれた女性もいる。地下鉄で隣に座った女性は、「結婚はしてるの?」と聞いてきた。ある警備員の女性は、私のお腹を見るなり「あら、妊婦さんなの?」と大声を出し、彼女の息子のこと、親になるにあたってのアドバイス、さらには初めての子どものありがたさについて、延々と20分も語り続けた。私は届け物があってそこに行っただけで、彼女とは会ったこともなかったのに。

このようなやり取りは、私がストレートで、赤ちゃんの父親がちゃんといて、私が赤ちゃんを育てるつもりだという前提からきたものだ。本当はこうした前提はすべて間違っていて、ゲイのカップルに養子に出すと公言していたわけだけれど。

妊娠第2期(第14週~第26週)も終わりに近づくと、デビーと私は一緒に「名簿」に目を通し始めた。養子が欲しいという家族が載っている、オレンジ色のプラスチックのバインダーだ。そのうちの1組が、私の赤ちゃんを引き取ることになる。

幸せそうなカップルの写真をめくっていると、デビーが私の前に、新しい紙を1枚置いた。「登録したてのカップルよ!」そこにはジョンとピーターがいた。人種の異なるカップルで、1人は外科医、もう1人は私と同じ演劇の仕事をしていた。この2人は、私がそれまで見ていたほかの家族より、もっとオープンな養子縁組を望んでいた。そして2人は、その日に登録したばかりだという。私たちは同じ時間に同じ建物の中にいた。これは運命だ。

数週間後に初めて顔を合わせたとき、私たちはすぐに、昔からの知り合いのように抱き合って頬にキスした。私は彼らに、「自分が子ども時代にしてもらったことで、自分も子どもにしてやりたいことは何か、逆にやめようと思うことは何か」と尋ねてみた。ジョンは身を乗り出して、自分の母親は、子どもたちがより良い暮らしができるよう懸命に働いてくれたと誇らし気に語った。赤ちゃんにしてほしいことは何かと聞かれた私は、胸がいっぱいになり、息子の創造力を育ててやってほしいとか、自分らしく生きられるようにしてやってほしい、というようなことをまくしたてた。一目で気に入った。

彼らはユーモアがあって思慮深く、オープンだった。2人は最初から、私を家族として受け入れてもいいとはっきり言った。そして、そのときやっていた私の舞台を見に行ってもいいかと尋ねてきた。私たちは一緒に息子の名前を考え、結局「レオ」と名づけることにした。

私は息子を養子に出すつもりだったので、息子と私の健康に害をおよぼすことでなければ、妊娠中は基本的にやりたいことを何でもできた(ほかの母親だって同じだろうが、彼女たちはたいてい、もっと計画を立てている。私には、息子の家族を選ぶこと以外、あまり計画を立てられるようなことがなかった)。

だから私は、自分の生活を続けた。妊娠する前、私は自分の劇団を立ち上げるつもりだった。そして、妊娠によってその計画をやめるつもりはなかった。そこで仲間たちと、ブルックリンのとあるリビングルームで1回、そして、演劇フェスティバルの「フリンジ・フェスティバル」でもう1回、公演を行った。どちらも私が脚本を書いたものだ。

妊娠4カ月の頃、友人のディディと私は、一緒に「出会いパーティ」に出かけることにした(ご参考までに、ニューヨーク周辺に住んでいるなら、Googleでちょっと検索すれば、カワイイ子と知り合って仲良くするにはどうすればいいのか、何でも調べられる)。私は、性別も体型も年齢も異なるいろいろな人たちといちゃついた。ターコイズのコルセットをつけたきれいな男の子もいた。聖母マリア柄のズボンをはいた、パブロという名の金持ちの男性が、私とディディを「あとでぼくのロフトにおいで」と誘った。屋上にバスタブがあるんだ、と。

そのとき私は、妊娠中は熱いお湯に入らない方が良いことを知らなかったのだが、結局問題にはならなかった。寒すぎて入れなかったからだ。代わりに、ほかに4人が加わって、パブロが「ソフトルーム」と呼ぶ部屋(その名の通り、クッションやマットを敷いたやわらかい部屋だった)で乱交パーティとなった。パブロは、妊娠した私の体にはちょっと不気味なくらいの愛着を示したけれど、私よりはディディと長く一緒にいた。ペニスバンドを使う人がいれば、使わない人もいたし、あちらでオーガズムに達する人がいれば、こちらではオーラルセックスを楽しむ人いる、という風だった。それからディディと私は、ロフトを出て食事に行った。

ディディとの関係をどう説明したらよいか、自分でもいつもよく分からない。とても強い心の絆に根ざした性的な関係だけれど、性的なことは、ほかの人といるときにしか求めない。ある意味で「クィア」と呼ぶこともできるだろう。

なぜなら、私にとっての「クィア」とは、単に「L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)」だけではない。人間関係や性別、愛情、人生の「新しいモデル」を見つけることなのだ。性的な言葉というよりは、政治的な言葉だと考えている。それは私の自己表現であり、友情であり、そして息子の新しい家族でもある。

仲の良い女友だちが、息子が生まれたら使えるようなプレゼントを用意して、バーでベビーシャワーを開いてくれて、私を驚かせた。あれは「クィア」だったと思う。私の陣痛の間、彼女たちが病院に泊まり込み、レオの誕生を喜んでくれたのも「クィア」だった。息子にさよならをしたあと泣きじゃくっている私を、一緒に出会い系パーティに参加した女性が抱きしめてくれたのも「クィア」だった。

私は、自分たちと同じ形を取る家族をもう一組知っている(男の子がゲイのカップルに引き取られ、生みの母がよく会いに来るというパターンだ)。こうした家族は、私たちが知る限り2つしかない。そうした家族のうちの1つであることは、孤立している感じもするが、とてつもなく解放的な気分にもなる。ほかの家族関係ならたいていは、文化的にこうだろうという予測がつくし、家族関係はこういう風に機能するという例がたくさんある。でも私たちは、実地でそれをつくっていくしかない。

私たちは、母の日や独立記念日、休日のパーティを一緒に過ごしてきた。レオの初めての誕生パーティに呼ばれ、レオがろうそくを吹き消す姿を見た。学校にレオを迎えに行き、私のアパートに連れてきて、うちの子猫と遊ばせたり、アニメを見せたりした。私の妹は、レオのパパ2人を結婚式に招待し、レオに結婚指輪を運ぶ役をやってくれと頼んだ。それは、愛情にあふれた、自由で思い通りの家族だ。

物事がいつも簡単だったわけではない。子どもを産んで2日後、息子と私は別々に退院した。私は文字通り、悲しみにくずおれた。悲しみは突然訪れたのだ。病院での最後の日、私はレオに優しく話しかけ、書類にサインし、お祝いに来てくれた人たちの相手をして過ごした。心が痛んだのはほんの2,3回。ところが、デビーが私に時間だと告げると、私はみんなを病室から追い出して、レオを胸に抱いた。そして何度もこう言った。「こんなことしたくないの。こんなことしたくないのよ」。私はレオを抱いたまま窓辺へ行った。「お外には大きくて怖い世界が待ってるの。でもママはいつもお前の味方だからね」。そして「愛してるわ」と何度も何度も繰り返した。

デビーが優しい笑顔で病室をのぞき込んだ。私たちはレオを車に乗せた。「本当に辛い」と私は言った。

「分かっているわ」とデビーが答えた。

デビーがレオを連れて行ってしまうと、すぐに私は自分の体を抱え込んだ。ディディがそばにいてくれた。もう1人の友人エミリーも。2人がベッドに連れて行ってくれたお陰で、私は床に崩れ落ちてしまうことなく、テディベアを抱えて泣きじゃくった。あまり激しく泣いていたので、話すことができなかった。でも話せるようになると、こう言った。「今でもこれでいいと思ってるわ」

悲しみのさなかでさえ、私は、自分が正しいことをしていると分かっていた。この「虹の家族」は、息子とそして私にとって、考えられる最善の選択になるだろうということが。養子縁組が始まってから4年、私は1度として、自分が最良の道を選んだことを疑ったことはない。たとえ未来に何が待っていようとも。


この記事は英語から翻訳されました。翻訳:浅野美抄子/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan