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母を見舞ったその足で、歌舞伎町へ走り出す。夜の世界で生きる娘と母の「消えない」言葉

『「AV女優」の社会学』の鈴木涼美さんが新作エッセイに書きとめたのは、華やかな「夜のオネエサン」からこぼれ出た、母娘関係のかけらだった。

鈴木涼美さん、33歳。

2013年、東京大学大学院の修士論文などをもとに書いた『「AV女優」の社会学』(青土社)で、性の商品化の現場にある「きらきらした魅力」を突きつけた。新聞記者を経て、作家に転じた。

自身がAV女優だったことが週刊誌によって白日の元に晒されたのが、新聞社をやめた直後の2014年秋。その後、母親にがんが見つかった。家族の祈りもむなしく、病は母親の身体を蝕んでいく。

母親の死から1年を迎えようとしている今年5月、エッセイとしては2冊目の単行本『愛と子宮に花束を』(幻冬舎)を出版した。自身を含め、「夜のオネエサン」たちの日常に垣間見えた、母娘のエピソードの「かけら」を集め、記録したものだ。

BuzzFeed Newsは5月末、鈴木さんにインタビューをした。晴れていた空が急にどしゃ降りに変わる、気分屋の天気の日だった。


母親は私の顔をみるとしゃべる人でした。2年ほど私が実家に帰らない時期もありましたが、それ以外は月一度でも、会うたびに持ち前の「会話力」を発揮していました。

自分の死を意識してからは、急いであれこれ話そうとするし、私も「このままこの人を手放しちゃっていいのかな」という焦りがありました。

存在している間にわからなければいけないことがもうちょっとあるんじゃないか。このまま終わっちゃいけない気がするけど、それが何かわからないから、お互いに聞けないし、話せない。

最後の1年は、会話というより関係性が、すごく濃かったですね。母親は「化けて出る」とまで言ってましたけど(笑)


最後まで娘を許さなかった母親

AVに出演していることが母親にバレたのは、週刊誌報道の4年前、2010年だった。

母親は、娘のふるまいを嘆き悲しみ、否定した。そして、こう言った。

「あなたが詐欺や暴行で世間からバッシングされたとしても守るけど、AV女優になったら守るすべを失った」と。

緩和ケアに入ってもまだ痛み止めの影響があまり出ていない頃、母はあまり顔を動かさず、あまり息を吸い込まずによくこんな話をした。

「身体やオンナを売るっていうことはさ、お金はもらうけど、それで何かを売り渡してはいるけど、それでも身体もオンナも売る前と変わらずあなたの手元に残るからね、だから一生消えないと思うのよ」

愛する娘の身体や心を傷つける娘を、一度も許さなかった母親。その態度は、週刊誌報道後、AV女優という経歴を安易に肯定し、過剰に擁護してきた人たちとは対照的だった。

鈴木さんは病室で、母親の話を聞きながら、テレビ出演の衣装を考えたり、化粧をしたりして過ごしていた。

母は日に日に弱る身体で、日に日に日当たりが悪くなっていく病室で、モルヒネのせいで日に日に意識も滑舌も朦朧としていく中で、怖いと言い続けた。(中略)私は、消灯時間になったら5分おきに帰ろうとして、止められる度に少しイライラして、やっと寝た母のパジャマに転落防止の安全ピンをつけて、小走りで明るい夜の街に逃げ込んだ。


私には圧倒的な日常がある

病室で母親に午後9時まで寄り添った後、飲みに行くし、歌舞伎町にも行くし、帰ったらしょうもない男としゃべるし、下品なドレスでテレビにも出るし、そっちはそっちで私の圧倒的な日常としてありました。

母親は母親で、圧倒的にリアルな、もっとも関係の長い人間として存在していて、どっちかがどっちかを駆逐することはないんですね。どっちかが覆いかぶさってしまえば、もう少しシンプルに考えられたんでしょうけど。

母親が死ぬかもしれないとなったとき、私はすべてを悔い改め、歌舞伎町の部屋を引き払い、鎌倉の実家に荷物を運び込んだーーわけではなく、私は悔い改めなかったし、母親が息を引き取った瞬間にすべてがわかったわけでもなかった。別に、キレイにまとまった話ではないんですよね。

売ったものを鏡で見続ける

「身体を売る」といっても人身売買ではないから、私は、自分が売ったものを毎日鏡で見続け、お風呂で洗い続ける。売っても売っても減らない。でも逆に、母親が言うように、残るからこそ逃れられないのかもしれません。

労働の対価としてお金が払われているわけではなく、女子高生や女子大生といった性的な価値に払われている。だから私は「身体を売る」という表現の不思議さが好きで、よく使います。それが嫌いな人は「セックスワーク」という表現を使ったりします。

母親にとっては、売春であれセックスワークであれ、そんな定義は別にどうでもよくて、身体を売ることがどれほど悪いことなのかを、私にわかってほしかったんだと思います。

学者や論客に「身体を売るのはやめろ」と言われたら、彼らは論理に基づいて主張するから、私も論破しようと思えばできます。

だけど母親は、論理を超えて「身体を売るのはやめろ」と言ってくる。一方で、AV女優をやっていたときの日々の楽しさとか、きらきらした魅力とかも、論理を超えたものなんです。結局、論理を超えたものと論理を超えたものとのぶつかり合いは、未解決の問題として、私と母親との間にずっと横たわり続けていました。


性の商品化と当事者の「自由意思」について、鈴木さんは語る言葉をもっている。その言葉は、母親の死という出来事を経験しても揺らがない。

対立しがちな性にまつわる議論に、当事者として、研究者として、一石を投じようとは思わないのだろうか。


いわゆる「正しさ」より、楽しみたい


言いたいことがあれば言いますが、女性の権利のために戦いたいとは思っていません。

私には、フェミニズムの本を書くより、「小悪魔ageha」を作るほうが魅力的。そこに対立があったかどうかを忘れるほどに市民権を得ているから。私のメインのアプローチとしては、楽しいことを楽しいと言っていたほうがいいんです。

こんな落とし穴だらけの世の中で、みんなどうやって「正しさのサバイバル」をしているのか興味はあるけれども、愛しいと思うのは、落とし穴に直進していって「ボスッ」と落ちた人のほうなんですよね。

私は単純に、いわゆる「正しく」生きられなかった人が好きなんです。

自分がそうだから。


20代で出会った「夜のオネエサン」たちは、みんなそれぞれに娘だった。

シングルマザーとして自分を育てた母親を養って看取ったホステス、「親バレ」しないよう「実家ファッション」に気を使うキャバ嬢、歌舞伎町を去り、田舎に帰った33歳ーー。


みんな何かしらあるよね

「夜のオネエサン」たちは普段、親の話なんてしないんだけど、何かの拍子に後ろに家族が見えた瞬間を書きとめました。

深く突っ込んだインタビューをしたわけでもないし、いろいろなパターンの興味深い母娘関係を集めたルポでもない。だらだらとした、こぼれ話。そこにあった彼女たちの表情や行動、自然に見えてきた景色や空気感、そのまんまなんです。

母親と仲がいい人も、悪い人も、母親がいる人も、母親と会ったことがない人もいるけど、みんなが母親について暗い顔でしゃべっていたわけではないんです。

母親に似ている顔を整形しなければ自分を保てないほどの人には、その人なりの向き合いかたがあるでしょう。この本は、母親との葛藤ってみんな何かしらあるよね、くらいの感覚です。

娘から見たら母親って怖いし、矛盾してるし、オンナでもあるし、おどろおどろしい存在だけれども、母親にとっても娘はかなりモンスターなはず。

娘は母親の思うようにならないし、母親も娘の思うようにはならない。だから娘である人にも、母である人にも、娘であり母である人にも読んでもらいたいですね。あと、AV女優の娘がいる人にも。

「夜のオネエサン」がどういう母娘関係なのかなというエイリアン的な興味で開いてもらってもいいですしね。意外と普通だな、私たちと変わらないな、と感じるかもしれません。

「あそこ」にあった空気感って、私たちの間だけで共有していたけど、似たような空気感は、私たちではないところにもあるかもしれない。

シンデレラやグレーテルみたいに母親にいじめられている娘は「夜のオネエサン」の中にもいくらでもいる。だけど、いじめやネグレクトをされたわけでなく、わりと真っ当だと思われる母親がいて、それでも母親の影がいつもあって。

すごく重いわけでも苦しいわけでもない母親との軋轢って、<それはそれなりに不幸で、でもシンデレラほど不幸ではない私たちの宿命>なんですよね。


親との確執なんていうと、世界にあるよくわからない選択を説明付けるのにうってつけだから、自分も世間もとりあえずはそれで語ろうとする。

親への反抗、親へのコンプレックス、親への復讐......。誰のポケットにも、そんなことにこじつけられるような思い出はあるわけだし。

ただ、そんなものがなくても人はおかしな選択はするのだ。