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翻訳家は、言葉でワインスタインと対峙した。#MeToo の原点を記録したノンフィクション

ハリウッドの著名プロデューサーによって繰り返されてきた性的暴行。スクープ記事を報じた2人の女性記者の記録を日本語で伝えるため、翻訳家の古屋美登里さんはどのように言葉を選んだのか。

性暴力の被害を受けた人たちが意を決して声をあげ、権力者を告発した。その声を正確に伝えるために、もう一つの闘いに挑んだ女性がいる。

翻訳家の古屋美登里さんだ。

彼女たちの悲しみ、苦しみ、痛みを追体験するような翻訳作業を半年間も続け、ハリウッドの権力者と"対峙"した古屋さんは、日本の読者にある気づきを届けた。

この話は、身近でも起きていることではないのか、と。

#MeToo に火をつけたスクープ記事

2017年10月5日、ニューヨーク・タイムズのサイトに、5カ月を超える調査報道によるスクープ記事が掲載された。

「ハーヴェイ・ワインスタインは何十年ものあいだ 性的嫌がらせの告発者に口止め料を払っていた」

この記事がきっかけで、アメリカで#MeToo運動に火がつき、世界に広がった。立場を利用して性的な搾取をしていた権力者が次々と告発され、地位を失った。

スクープを報じた2人の女性記者による調査報道の記録は『SHE SAID』のタイトルで2019年9月にアメリカで出版。それから約10カ月後に、『その名を暴け』のタイトルで日本で出版された。翻訳を担当したのが古屋さんだ。

調査報道記者のジョディ・カンターとミーガン・トゥーイーが、20年以上前の被害者を探し出し、説得して証言を集め、ワインスタインと対決して記事を公開するまでが、情景が浮かぶほど刻明に記されている。

ワインスタインによる性暴力を黙認していた経営層、彼の「性的征服を管理」する業務を強いられていた女性社員、示談に応じたために口を閉ざすしかなくなった被害者など、性暴力を覆い隠していた複雑な構造も明らかにされた。

古屋さんは約2カ月で英語の原書を日本語に訳したあと、新潮社の編集者の島崎恵さんとともに、約4カ月かけて事実確認や日本語の調整など細部の表現を修正していったという。

「初めて読んだとき、英語の脳では理解したのですが、それを日本語で表すのがすごく難しかった。ノンフィクションの翻訳は、事実を伝えると同時に、文化も伝達しなければならないからです」

性暴力が起こる背景を伝える

とりわけ古屋さんが苦労したというのが、性暴力が起こる背景をどのように伝えるかだ。

ハリウッドには長らく、役をもらう代わりにプロデューサーやディレクターに体を任せる風習があった。これは訳書では「キャスティング・カウチ〔直訳すれば配役用のソファ〕」とそのまま表している。

「キャスティング・カウチ」の風習は、権力者による性暴力を「公然の秘密」とし、「合意があったはずだ」と被害者を責める方向に作用する。社会が口を封じてきたことで、被害の事実はもみ消されてきた。

ニューヨーク・タイムズの取材により、ワインスタインは被害者らに8〜12件の口止め料を払っていたことがわかったが、被害者が声をあげられなかった理由はそれだけではない。また「キャスティング・カウチ」もわかりやすい一つの事例にすぎない。

もっと大きな問題は、権力差やジェンダー・ギャップといった社会構造そのものにあり、多くの被害者が「声をあげるほどのことではない」と思わされてきたということにある。

翻訳では、アメリカの新聞記者があぶり出したその構造を、日本の読者にもわかりやすく伝える作業が必要だった。

「fondle」という単語を訳し分けた

被害者と加害者が当時どんな関係性にあったのか。被害者はどんな思いで口を閉ざしたのか。筆者はどんな問題意識を持っているのかーー。ノンフィクションの翻訳は、英文を通して登場人物や筆者の「声」や「匂い」を読み取る作業だと、古屋さんは言う。

「性暴力が起こる背景にある関係性や、立場の差などを理解したうえで、言葉を不用意に選ばないようにしなければなりません」

例えば、英語で「fondle」は「愛撫する」「優しく撫でる」「抱擁する」などの意味があるが、古屋さんは原書に複数回出てくる「fondle」をそれぞれ状況に応じて、「愛撫する」「撫で回す」「まさぐる」などと訳し分けている。

<Once they were alone, she said, he had pushed her onto the bed, fondled her breasts and masturbated on top of her.>

<ふたりだけになると、ワインスタインは彼女をベッドに押し倒し、胸をまさぐり、彼女の体の上でマスターベーションをした>

「愛し合っている関係性だからこそ『愛撫』になるわけで、同意なく触られたときなど、これを『愛撫』と訳してしまってはいけない場合もあるのです」

古屋さんは、翻訳を色にたとえて説明する。

「英語から日本語にするときに、もともとが『水色』の表現だったのであれば、正しく『水色』に訳されているのかを、絶えず確認しなくてはいけません」

例えば、「shocked」という言葉は、「ショックだった」「衝撃を受けた」「びっくりして体が動かなくなった」などさまざまな解釈ができるが、翻訳するときには、「shocked」がどのくらいのレベルのショックなのかを、文脈や背景から考えたり、他の文献を調べたりするのだという。

「もしこのショックが『水色』だった場合に、まずは『水色』であることをつかんだうえで、もう少し青みをつけたほうが伝わりやすいのではないか、と考えることはあっても、『赤色』や『黄色』に訳してはダメなんですね」

「そして、もし日本の読者が『水色』を見たことがなかったとしても、『水色』だとわかるように訳す必要があるんです」

「妻」は誤植ではない

『水色』を知らない日本の読者に『水色』だと伝えるというのは、どういうことなのか。

本の後半では、ワインスタイン告発後の出来事として、連邦最高裁判事の最終候補に指名されたブレット・カバノーから高校時代に性的暴行を受けた、とカリフォルニア州の大学教授クリスティン・ブレイジー・フォードが公聴会で証言するまでが書かれている。

公聴会の直前に、フォードの代理人弁護士であるデブラ・カッツが手術を受ける場面がある。

<After the television appearances, she took a car to the hospital, donned a patient’s gown, handed her phone over to her wife, and was put under anesthesia.>

<テレビ出演の後、彼女は車で病院まで行き、患者用のガウンを身につけ、携帯電話を妻〔全米で同性婚は認められている〕に渡し、麻酔をかけられたのだ>

「カッツはレズビアンなので、妻が手術に立ち会うんです。しかし、日本語で『妻』と書くと『誤植ではないか』と読者の混乱を呼ぶのではないかという指摘が校閲からありました」

「そこで提案されたのは、『パートナー』という表現への変更だったのですが、私は反対しました。レズビアンだから『wife』と言っているだけなのに、『パートナー』にしたらニュアンスが変わってしまいます。『妻』に対する違和感は、読み手の固定概念でしかないのです」

こうして『妻』という表現は残しつつ、混乱を防ぐために〔全米で同性婚は認められている〕という訳注を加えた。たった14文字ながら、法律上の同性婚が認められていない日本で、読み手が持つアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)に気づかせる強烈な注釈だ。

「女性が『私の妻は』と当たり前のように言える社会になるといいなと思います。社会を変えていくような表現を生むのも、翻訳の仕事だと考えています」

新しい言葉を生み出す

アメリカで生まれた #MeToo のムーブメントは世界に広がり、日本でも同じハッシュタグを使って性的被害の経験をSNSで告白する動きが広がった。

「#MeToo(私も)」などと補足されることはあっても、もともとの英語のままで波及した。#BlackLivesMatter にしても、言葉は背景と切り離されることなく広がっていく。

「新しい言葉を生み出せないのは、翻訳の敗北だと感じることもあるんです」と、古屋さんは言う。

<Megan and Jodi hung up from the call and fell together, laughing and crying with relief, esprit de corps, and sisterhood.>

<ミーガンとジョディは電話を切り、心から安堵し、姉妹のような連帯感を抱きながら、ともに笑って泣いた>

これは、ワインスタインから訴えられることなく、スクープ記事を公開できるとわかった瞬間の、2人の女性記者の描写だ。

「『連帯』という言葉は思想がかっていてあまり好きではないのですが、ここでは、その前の『esprit de corps』という単語の意も汲み、『姉妹のような連帯感』と訳しました」

「そのまま『シスターフッド』と書いてしまうのは翻訳の敗北なんです。社会や意識の変化に応じて、新しい言葉を生み出していかなければならないんですね」

背景の違いを言葉で調整し、日本の読者の事情に寄り添いながら、新しい社会のあり方に近づけていく。冒頭に記された〔本書には性的虐待の表現が含まれます〕という一文も、被害の経験がある人がフラッシュバックを起こさないとも限らないという配慮から、古屋さんが提案した。

「性的に虐げられた経験を、誰にも言えずに抱えている人たちが日本にもたくさんいるはずです。この本には、読み手が自分に引きつけて考え、心の中の自分と対峙するような力があると思っています」

制約はないのが当たり前

古屋さんは、フィクションとノンフィクションのいずれの翻訳も手がけている。

「想像の世界と、現実の世界。両方の視点から、私たちが住んでいる世界のことをもっと知りたくて、両方やってきました」

ノンフィクションでは2017年の『シリアからの叫び』の翻訳などをきっかけに、特に女性ジャーナリストに関心を寄せているという。

「身を呈して事実に向かっていくというのはジャーナリストの宿命なのかもしれませんが、ものすごく困難な状況でもあきらめない調査報道の女性記者の姿に、感銘を受けてきました」

「結婚して、子どももいて、仕事にも邁進している。仕事か家庭かではなく、そもそも選択をする必要がないんです。働くうえで制約がないことが当たり前の生き方をしているんですね」

ニューヨーク・タイムズの調査報道記者であるジョディもミーガンも子育て中で、ミーガンは出産休暇から復職したばかりだった。2人の記者に寄り添うベテラン編集者のレベッカ・コルベットは、多忙になると音信不通になるが、彼女の夫がそれを「絶好調」と表現するくだりもある。

登場人物が女性だからといって、必要以上にプライベートの描写がない。読者は、あとがきの「謝辞」を読んで初めて、彼女たちが多くの人に支えられていることや、家族が仕事の原動力になっていることを知る。

「女性が女性であることを意識せずに働けるように、職場や環境が整っているからです。日本の女性たちは、そういう当然のことを当然ではないと思わされているのかもしれません。これは文化的・制度的な問題だと思います」

「日本の女性たちが、選択することが人生だと感じてしまったり、慎重になったりするのだとしたら、それはあなただけの問題ではない。もっと挑戦してみよう、と伝えたいですね」

アメリカで起きた性暴力の記録を伝えるとき、翻訳家は、性暴力や性差別に立ち向かおうとしている日本の女性たちに自信と勇気を与えるメッセージをこめた。

(文中の英語名は敬称略)